悪魔のオンナ
森本 晃次
第1話 居酒屋「露風」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。
K市を通っている私鉄は二本あるが、そのうちの一本は急行電車が停まるほどの中心都市の様相を呈しているが、もう一つの私鉄の方は、K市の端の方を掠めるように通っているので、人によって、
「H電車はK市の駅がない」
と思われているかも知れないが。実はちょうど掠めているあたりに駅があるため、
「K市には駅はない」
と思われているようだ。
駅の名前も、K市に関わるような名前ではなく、駅の両端は隣の市でもあるので、まさかこの駅をK市だと思っている人は珍しいカモ知れない。
さらに、実はこの駅と同じ地名が、少し離れたところにあり、そこがK市ではなかったりするのでややこしい。そのことを知っている人は年配の人には少しはいるかも知れないが、若い人では珍しいであろう。知っているとしても地元の人というよりも、鉄道ファンの人に知られているという程度で、若い人は地元に興味を示さなかったこともあって、知らない人が多いのだろう。
昔の子供であれば、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に住んでいたりすれば、近所の裏話などを教えてくれたりするので、意外と知っていることも多いのだろうが、今は誰もそんなことは知らないだろう、
そのせいもあってか、H電車を利用する人は、
「H電車でしか通えない場所に会社や学校があるから」
という理由だけで使用している人がほとんどであった。
したがって、H電車の駅は、もう一つの私鉄の駅に比べればかなり過疎化していると言ってもいい。
いや、過疎化ではなく、最初から過疎だったわけであり、過疎のおかげで駅を利用する人が少ないので、気楽に通勤、通学ができると思っている人が多かった。
おかげで付近には、ほとんど店はなかった。コンビニが一軒あるくらいで、後は昔から営業している病院が一軒あるくらいで、呑み屋に至っては一軒もなかったのである。
区画整理もされていない影響で、狭い道が込み入っていて、昔の家が見臭して建っているといるというイメージが強い。
家が昔からの土地とともに建っていることで、庭も建物もそれなりに広さがあった。中には最新の家に建て替えた家もあるようだが、庭に新しい家を建設しながら、新しい家が建てばすぐに引っ越し、今まで住んでいた家を解体するというやり方ができるくらい、土地は広いようだった。
そんな一体なので、広い道もほとんどない。一方通行の道が多いのだが、実際にワゴンくらいなら、運転がうまくないと一歩間違えると、溝に嵌ってしまうほどに狭い道だった。
「いくら主要道路が混んでいても、こっちの道を通ろうとは思わないよな」
という人が多いほど、道の狭さは他の比ではなかった。
しかも入り組んでいて迷路のようになっているので、切り返しも難しい。たぶん、このあたりにずっと住んでいる人でないと通り抜けるのは難しいくらいではないだろうか。
そういう意味で、この一帯自体が、すでにK市ではないと思っている人が多いカモ知れない。K市の隣は、完全に田舎になり、市になりきれない町が存在していた。市町村合併の話が出た時は、K市側の方が難色を示したので、その話はすぐにお釈迦になってしまったほどである。
駅を降りてから駅前の道を五分ほど歩いたところにガードレールがあった。
H電車の中でもここまで小さな高架はないのではないかと思われるほどの小ささで、それでも、車が離合できるくらいのスペースはあった。トラックでも四tくらいまでは大丈夫であるが、それ以上は高さ制限に引っかかるのであった。
このあたりは通学路としてはそれなりに利用客はいるが、通勤となると、皆もう一つの鉄道の方に行ってしまうので、通学時間が終わってしまうと、夕方の六時過ぎでも、まるで九時過ぎではないかと思えるほどに、人通りがまったく途絶えてしまうくらいだった。
「こんな通りがまだあるなんて」
と初めて通る人はそう思うだろう。
逆に新しくする理由もないので、同じように昔からの古いままの場所というのも探せば見つかるのではないだろうか。
K市というのは、事件はそれなりに起こる場所で、K市署はそれなりに忙しかった。捜査一課には最近警部補に昇進した椎津警部補と、その部下でコンビとして数々の事件を解決に導いた辰巳刑事がいた。
いつも冷静沈着な清水警部補と、勧善懲悪タイプの熱血刑事と言える辰巳刑事のコンビは、この間まで殺人事件の捜査に追われていて、やっと解決できたことで、今は半分放心状態のようになっていた。
特に事件に必要以上に入り込む辰巳刑事は、事件が解決すると、たまに鬱状態に陥り、同僚も話しかけられないほどになっていることもあった。
そんな時、
「辰巳君、たまには飲みに行こうか?」
と、清水警部補が誘うことがあった。
辰巳刑事は事件に集中している時以外は結構気分屋であるので、誘うのにもタイミングがある。さすがに長年のコンビである清水警部補はよくわかっているようで、誘う時はそんなうまいタイミングであった。
――今日でよかった――
と辰巳刑事は最初はそう思っていたのだが、しばらくしてから、それが清水警部補が自分のことを理解しているからだということを分かった時、自分が本当に清水警部補と最高のコンビであると感じたのだった。
この日は、清水警部補が、
「普段はいかない店に連れて行ってあげよう」
と言って、六時前には署を出て、歩いて連れて行ってくれるようだった。
K署はK市の外れの方にあり、少し行けば、H電車の駅が近くにあるくらいのところに位置していた。だから、H電車を利用している人も結構いるのだが、二人はほとんど利用したことはなかった。
そのせいもあって辰巳刑事は、ほぼ警察署の近くをほとんど知らなかったが、清水警部補の方は少しは知っているようで、辰巳刑事を伴って、先導するかのように淡々と歩いている。
二人は一緒に道を歩くことはそんなにあるわけではないが、たまにある時でも、横に並んで歩いているわけではない。必ず清水警部補が半歩前くらいを歩いて、それに伴って辰巳刑事が後ろについているという雰囲気だった。
そのせいで二人は話をすることはなかなかなく、黙々と歩くので、歩いている時間が短いのだが、意外と疲れてしまうような気がしている辰巳刑事だった。
――清水警部補を相手に、いまさら気を遣うなんてことあるわけないのにな――
と思っていた。
辰巳刑事はこの日も清水警部補の背中を見ながら歩いていたが、歩いているうちに、さっきまで少し鬱状態だったのが、ゆっくりではあるが、回復してくるのが分かった。ただ、それは清水警部補と一緒にいる時だけで、きっと翌日の朝には、また鬱状態に戻っているに違いないと思うのだった。
清水警部補の中では、そんな辰巳刑事の性格はよく分かるようで、自分とは違う性格ではあるが、
「もし、自分に弟がいたら、辰巳刑事のような弟なんだろうな?」
と思っていた。
清水警部補は一人っ子だったので、弟がほしかったという思いは強く、大学時代には後輩をよく可愛がっていたので、
「優しい先輩」
として後輩からも人気があった。
その雰囲気のまま警察に入ったので、後輩から次第に慕われる人となっていて、本人にはそんな意識はないのだが、
「後輩思いという意味では、清水君の右に出る者はいないだろうな」
と署長などからも言われていたほどであった。
しかも、そんな清水警部補の弟としての候補は、満場一致で辰巳刑事の名前が挙がってくる。
そのことは清水警部補も辰巳刑事も分かっているだけに、言われると、苦笑いをしてはいるが、嫌な思いは決してしているわけではなかった。
どうやら、椎津警部補は馴染みの店があるようで、辰巳刑事が見ていても、
――この人が、誰かに会えると思って楽しみにしている時の顔だ――
と感じている時に見えた。
それだけ清水警部補も辰巳刑事が見ていて分かりやすい性格であり、他の人が羨むくらいの仲であることは一目瞭然だったのだ。
「私も最近、足が遠のいていたので、なかなか一人では行きづらくてね。辰巳君が付き合ってくれると嬉しく思えてね」
と、言いながら、清水警部補は歩を進めるのだった。
辰巳刑事も今まで清水警部補の誘いでいくつかの店を知っていたが、それはK市中心部の、繁華街であり、人通りも多いところであった。辰巳刑事は清水警部補の性格を知っているので、たぶん、隠れ家のような店を知っているのだろうが、それを人に教えるということはしないだろうと思っていた。
それなのに、今日自分を連れて行ってくれると言っているのは、自分の鬱になりやすいことを口実に、何か企んでいるのではないかと思えた。
他の人なら、そんなあざといことをされるとちょっと引いてしまうのだが、相手が清水警部補であれば、逆に微笑ましい気がする。他の人になら絶対に話さないようなことでも自分になら話をしてくれるという感覚に、有頂天になるくらいであった。
清水警部補は、優しい奥さんも、中学生になる娘さんもいて、家庭円満であった。いつも辰巳刑事に対して、
「家庭っていいものだな」
と言っているくらいなので、家族に対しての不満はなさそうだ。
それだけに、不倫などという言葉が一番似合わない人だという認識でいたので、今日連れて行ってくれるという、隠れ家のような店がどういうところなのか、興味半分、少し怖さも半分というところであろうか。
署からその店までは歩いても十分ほどということだった。例の狭い道をうねるように通っていくので、もし、別の日に一人で店まで来いと言われれば自信がないかも知れない。
――警察官のお膝元なのに、ここまで知らなかったとは、恥ずかしいと言ってもいいかも知れないな――
と思うくらいだった。
そういう意味で、清水警部補はよく知っていたものだ。やはり、お膝元なので知らないというのもおかしいと思い、自分なりに探検をしてみたのかも知れない。清水警部補にはそれくらいの茶目っ気もある。茶目っ気と言ってしまうと失礼に当たる。好奇心旺盛と言わなければいけないだろう。
そろそろ年末も近づき始めた十一月の下旬くらいなので、もう、六時というと結構暗いものであり、点在する街灯日足音から伸びている影が、放射状にいくつか見えているのを感じるのは、実に気持ち悪いものである。
清水警部補は前だけを見ているようだが、こういう時の知らない道で、しかも真っ暗な道というと、足元だけをどうしても見てしまうのが辰巳刑事の癖のようになっていた。
普段はオニ刑事と言われている辰巳刑事だったが、実は臆病者だった。
子供の頃からお化けが怖い少年であり、今でも暗闇での張り込みなどは、気持ち悪く感じていることもある。
さすがに怖いとは言えないで何とかごまかしながら捜査していると、まわりの刑事も気づいてくるというもので、皆が怪しいと思った時、椎津警部補が急に理由もなく辰巳刑事を叱責することがある。それは、辰巳刑事にまわりの目を見るように促している時で、最初そんな警部補の気遣いが分からなかった時は、
――なぜ僕がこんな剣幕で起こられなければならないんだ?
と感じていて、心細く鳴ったり、しょげかえってしまって、眠れなかったりもしたが、清水警部補の優しそうな眼を見ているうちに、次第に自分への優しさから、まわりの目を気にしなさいと言ってくれていることに気づくようになった。
次第に刑事らしさを出してきた辰巳刑事を清水刑事も頼もしく思うようになり、今では何も言わなくなった。何も言わなくてもいうことを聞くと思っているからであり、いいコンビの風格が現れてきた頃だった。
さすがに臆病なところは治っていないが、貫禄が出てきたおかげで、清水警部補が気にしなくてもいいほどになってきたことを辰巳刑事も感じるようになり、
「今度は自分が後輩の面倒を見る立場になってきたんだな」
と感じるようになっていた。
「辰巳刑事も、いよいよ一人前だな」
と言って、口でも辰巳刑事に敬意を表するようになると、清水刑事は、ちょうどその頃に警部補に昇進したのだった。
「肩書が変わっただけで、ここまで貫禄が違うとは」
と、まわりの刑事はそう感じていたようだが、辰巳刑事はまったくそんなことはなかった。
「皆なんで、あんなに清水警部補が違う人間になったような目で見るんだ? 確かに尊敬するのは分かるけど、それだったら、刑事の時からだって同じことではないか」
と、辰巳刑事は感じていた。
それは辰巳刑事が、人との距離を感じさせない佇まいだったからだ。辰巳刑事のような近しい人間には、その思いが通じて、素直に近づけるのだが、部下の連中は、どうして自分たちから見れば、いつまで経っても雲の上しか見えず、そこから声がしてきて、姿さえも燃えないのではないかと思うほど遠ざかってしまったかのように見えるのは、自分たちも少しずつ成長しているからで、目指す相手を清水警部補だと決めているからだろう。
もし、そんな彼らに、
「将来、どんな警察官になりたいか?」
と聞かれると、清水警部補を頭に描きながら、
「清水警部補のような状況判断に優れた警察官」
と答えるだろう。
それは暗に自分も将来捜査の指揮をとってみたいという意識があるからに違いない。
辰巳刑事もその気持ちと変わりはなかったが、コンビとして接していると、いつの間にか自分も清水警部補に似てきたような気がして、目指す相手を清水警部補だと定めてはいたが、それ以上も目指しているのを感じた。
それは、冷静沈着な清水警部補には自分のような勧善懲悪の熱血漢がないように感じられたからであった。
コンビを組んでいる間はそれでもいいのだろうが、清水警部補が完全な指示者となり、捜査本部で捜査員の情報を待っているだけとなった時は、その時こそ、今度は自分が今までの清水警部補と同じ立場になり、後輩を指導してくことになることを覚悟はしていた。
今すぐということはないだろうが、近い将来に訪れるのは間違いのないことだろう。
二人は署を出てから、ほとんど無口になり、店に着くまでの約十分間、ほとんど会話がなかったような気がする。清水警部補が後ろの辰巳刑事を振り返ることは一度もなく、気が付けば店についていた。
居酒屋「露風」と書かれた看板が目についた、横扉になっていて、なるほど純日本風の居酒屋を絵に描いているようだった。
「こんばんは」
と言って先に暖簾をくぐって清水警部補が入っていく。
頭を下げながら窮屈そうに入っていく清水警部補を見ていると、かなり入りにくい小さな構造になっているかのようだった。
店に入ってみると、目の前にはカウンターがあり、十人ほどが座れるようだった。奥にはテーブル席が三つほどあり、客はというと、カウンターの奥に一人目の前に一升瓶とコップが置かれていて、すでに手酌でゆっくりとやっているようだった。
――こんなあまり人もこないような辺鄙な場所の、こんなこじんまりとした店に来るのは、そのほとんどは常連でしかないだろう――
と、辰巳刑事は感じた。
「女将さん、今日は部下を連れてきましたよ」
というと、ニッコリと笑って、
「あら、そうなの? 珍しいわね。清水さんが誰か連れてこられるのは。そういうことでしたら、今日はゆっくりされるんですね。お話ができる時間も十分に持てそうで嬉しいですわ」
と言って喜んでいる。
カウンターの男は清水警部補の名前を聞いて、一瞬ビクッとしたようだが、こちらを振り向くこともなく、コップ一杯あったお酒を、一気に飲み干し、乱暴に一升瓶を開けると、コップに注いだ。
何かただならぬ心境になっているのか、その仕草は乱暴で、カウンターに日本酒がほとばしっているかのようにこぼれていた。どうやら、この男は、清水警部補の正体を知っているようだ。
清水警部補は、カウンターの中央近くの席に腰を下ろし、その横一つ空ける形で、辰巳刑事も腰を下ろした
初めてきた辰巳刑事は物珍しそうに店内を見渡す。
――清水警部補は、こういうお店が好きなんだ――
そういえば、今までに事件解決の儀祝儀でもあるかのように、清水刑事が二人きりの慰労会の席を設けてくれていた。
そのほとんどが、この店に似ているような純日本風のお店で、居酒屋好きは今に始まったことではなかった。
「居酒屋が一番料理がおいしいのさ」
と、いつも飲む日本酒に遭うお店が、清水警部補にお似合いだったのだ。
お店の方もきっと清水警部補のような客の出入りを感謝しているかも知れない、それだけ店に貫禄があり、清水刑事の性格を表しているかのように見える店もあった。
そういう意にでは、この居酒屋「露風」というお店は、今まで連れていってもらった店とは少し趣が違っている。やはりまわりの環境が若干違っていたからであろうか。
「辰巳君、どうだい、このお店は。今まで私と一緒に行ったことがあるお店とは佇まいが違うだろう? それもそのはず、都心部で今まで一緒に行った居酒屋は、どちらかというと、普通の居酒屋というよりも、他のお店、例えばバーの雰囲気などが少しだけ入ったそんな店が多かったんだ。。特に市の中心部のような繁華街では、他のお店との差別化をつけるつもりで店を作っていると、悲しいかな皆考えることは同じようで、ちょっと変わった似たような居酒屋がたくさんできたという笑い話のような話なんだよ。そこへいくと、このあたりには、商売敵になるような店が幸か不幸か存在しない。だから、これほど純日本風なお店はないというわけさ。だから、隠れ家にするにはもってこいのお店だろう?」
と言った。
「ええ、まさしくその通りですね。私もまさか、署の近くにこんな佇まいのお店があるなんて知りもしませんでしたよ」
というと、
「無理もない。事件というと、どうしても死の注視部になるか、山間が近くにある麓にあたるあたりにできている住宅街やマンション地帯ばかりにしか行くことはないからな。このあたりは別格なんだよ」
と清水警部補は言った、
「あっ、でもこのあたりって、実はK市だったりしないんじゃないですか? 確かH電車の駅を囲むようにして、K市が突出してきているように思えたんですが」
「まさしくその通りだ。だから最初の頃は何か気まずい雰囲気があって、このあたりにこなかったが、今では落ち着きたい時には寄るようにしている。まさかプライベートにまで管轄があるわけではあるまい」
と言って笑っていた。
なるほど、今まで清水警部補が敢えてこのお店に連れてこなかったのか分かった気がした。これがもっと若い連中なら遠慮したかも知れないという微妙なところに店があるからだ。
もっとも清水警部補の性格からいけば、最初にここがK市の管轄ではないことを口にしただろう。それでもいいと一緒についてきてくれる人以外を連れてくる気にはならなかった。
そのおかげで、隠れ家としてずっと成立してきたのかも知れない。
だが、今回のこの心境の変化はどこから来るのだろうか?
奥の方にいて、意識しないように正面を見ながら呑んでいる客も、妙な雰囲気を醸し出している。
――あの男も只者ではないかも知れないな――
と辰巳刑事は考えた。
――清水警部補はあの男のことを知っているのだろうか? 知っているとすれば、どこまで知っているというのか?
そのあたりが大いに興味をそそった。
清水警部補は、その男のことを意識はしていなかったが、その男は清水警部補を、露骨にも見えるほど意識していた。
「清水さん、いつものを行かれますか?」
と女将に言われ、
「ああ、そうだね。二人で一緒に飲むことにしよう」
というと、
「あいよ」
という切符のいい返事が返ってきた。
このあたりが清水警部補の気に入ったところなのかも知れない。相手が女性であっても、こういう感じの明るい人が警部補は好きだった。
だが、黙って黙々と仕事をしている様子を垣間見ると、彼女は元気がいいというよりも、しっとり系に見えてくるから不思議だった。後ろから見た時の和服から垣間見えるうなじが、純日本風を醸し出しているようで、何とも、妖艶な雰囲気を醸し出していた。
「今日のおすすめの刺しものは何かあるかね?」
と聞くと、
「サーモンのいいのがありますよ」
と言われ、清水警部補がサーモンには目がないことを知っているだけに、今日、清水警部補がくると分かっていて、サーモンを仕入れたのだと思うのは邪推であろうか。
よく見ると、先に来ていた客のテーブルにもサーモンが置かれていて、実においしそうに見えるのは、気のせいであろうか。
辰巳刑事と清水警部補がその場で感じたサーモンについてのイメージが、少し違っているかのように感じた辰巳だった。
やってきたサーモンを口にしながらの日本酒は、また格別だった。
サーモンのとろけるような冷たい舌触りと、熱燗の暖かさが喉に入るたび、最近寒さが徐々に増してきていることで冷え切っていた喉の奥を潤してくれるようだった。
「これはおいしいですね」
と、言いながら、辰巳刑事は、サーモンを一切れ箸で救って、さしみ醤油につけていた。それを見ながら、女将さんと清水警部補は実に満足そうな表情をしたのだが、意外なことに奥の席に座っていた、例のやたら存在感が気になってしまう男も、ニンマリと微笑んでいた。
――どうも悪いやつではなさそうだな――
と辰巳刑事は感じたことで、それまで少し狭く感じられた店内が、実際の店内の視界と感覚が変わらないくらいに回復した気がした。
「こじんまりとした」
という印象に変わりはないが、その広さは、自分が知っている居酒屋を感じさせ、懐かしさからか、安心感が生まれたのだった。
日本酒の味も最初は、この店独特のオリジナルなのかと思うような、少し異種の感覚を帯びた味だったが、次第に慣れてくると、いつも飲んでいる日本酒と同じ感覚になってくると、味覚の上でも、視覚同様の安心感が伴ってきたのだ。
「何か、初めてお邪魔したお店という感じがしませんね」
と清水警部補にいうと、
「そうだろう? 辰巳君なら、そういうだろうと思っていたよ」
と言われたので、
「どうしてですか?」
と聞くと、
「私も初めてこの店に来た時、同じ感覚があったからさ。あの時も、そういえば、お刺身はサーモンだったような気がするな」
と清水警部補が言った。
「ええ、そうですよ。私も覚えています。だからと言って、いつもサーモンばかりがおすすめであるというわけではないんですよ。そういう意味では、やはりお二人には切っても切れないような関係が結ばれているような気がしますね」
と女将が言った。
「そうそう、それとね、私が最初に来た時も、奥にお客さんがいたと思うんだ。そういう意味では、何もかも似たシチュエーションな気がするな」
と清水警部補は思い出しながら話した。
それを聞いた奥にいる男は一瞬ビクッとしたが、清水警部補の雰囲気からは、その時の男性と今奥で一人で?んでいる男性は、どうやら別人のようだ。
「このお店の常連さんは奥で呑んでいることが多いんだよ。私も一人で来た時、他に誰もいなければ、奥に座ることが多いんだよ。もし、今日も奥が空いていたら、きっと奥に座っていたことだろうね」
と清水警部補は言った。
――ということは、やはり、この店は清水警部補にとって、完全に馴染みの店のようだ――
と辰巳刑事は思った。
そんなことを考えていると、奥から一人の女性が入ってきた。エプロンを腰から絞めていて、女将のように和服ではなく、セーター姿という、まるでお手伝いと言った雰囲気の女の子だった。年齢は、まだ二十代くらいであろうか。
「いらっしゃいませ」
という、その雰囲気は元気というよりも、天然な雰囲気を醸し出しているかのようだった。
「こんばんは、美紀ちゃん」
と清水警部補は彼女にそう言った。
「あら、清水さんが誰かを連れてこられるなんて珍しいわね。いいえ、私は初めて見るような気がするくらいよ」
と美紀ちゃんがいうと、
「ああ、その通りさ、僕が誰かをこの店に連れてくるの、初めてだからね」
と言ってニッコリしていた。
女将さんは、最初から敢えて聞かなかったのは、分かり切っているという意識からだったのか、きっと清水警部補に気を遣ったのだろう。
辰巳刑事は久しぶりに清水警部補と一緒に呑めたこともそうだが、気を遣わずに呑める場所ということで教えてくれたこの店が気に入ってしまった。
美紀ちゃんという女の子の印象が深く感じられ、嬉しかった。
辰巳刑事はこの日、赤身さんや美紀ちゃんと出会えたことをほっこりとした気分になれた最高の理由だと思っているが、大体いつも清水警部補と一緒にお酒を呑みにいった時、時間的に午後十時くらいまでという暗黙の了解に基づいて考えれば、そろそろ時間的にはタイムリミットを迎えていた。
――やはり楽しいお酒というのは、いつもの時間でも、結構長く感じさせることになるんだな――
と、辰巳刑事に思わせた。
ほろ酔い気分に、ほっこりしたプラスアルファを感じながら店を出ると、
「これを本当の千鳥足というんだな」
と思わず口走った。
それを清水警部補は気付いていないのか、自分のペースで歩いていく。それを目で追うように歩いていくと、いまさらながらに、店が本当に寂しいところにあったのだということを感じさせるほどに、街灯もまばらだったのだった。
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