治療後、サカヌキ村生活の実質的な初日 トールと会う
案内板を見て、神官の「左回りに路地一つ」の意味するところに得心しつつ、どうにかトールを探し当てた。
大きな建物で、その入口は分厚い壁の中に、大きな
その下に、大きな木の扉が嵌っている。
扉をトモコが強くノックした。
「どうぞ」
分厚く重い木の扉にトモコが難儀していたので、マサノリが手を貸して、二人で押し開けた。
「こんにちは、初めまして」
挨拶するトモコに倣って、口々にぼくたちも挨拶しながら、分厚い壁を跨いで部屋の中へ入ると、少し酸っぱいような臭気を感じた。
室内の空気は、少しだけ篭った感じがして、その中には何か正体の分からない、鼻が少しつんっとする臭気が感じ取れた。
(……うわぁ、厭だなぁ……)
濃かれ薄かれどこでも漂っている便壺の臭いは、当然この部屋にもあるが、これは嗅ぎ慣れたその悪臭ともまた違う。
慣れない臭いだ。
さっきまで居た戸外は、冷たい小雨ではあっても、そよ風が吹いていて、空気そのものは気持ち良かった。
入ってきたばかりなのに、もう出て行きたくなる気持ちを
ぱっと見、八畳間よりもかなり大きい広さだ。
壁の一辺の長さが、畳で言えば、奥行き三
部屋の幅はもう少し狭い。
打ち出しのコンクリート壁にも似て、玄武岩剥き出しの灰色で、転んだら痛いのは間違いない。
奥の横手に扉があって、両隣にそれぞれ部屋が続いているようだ。
粗末極まりない机の向こう側に、一人の小父さんが、欠伸した口を手で抑えながら、腰掛けていた。
その顎は、髭もじゃだ。
少し離れた壁際では、小さな、やはり粗末な机で、もう少し若そうな男の人が黙々と、山と積まれた板の影で仕事をしていた。
その顎も、髭もじゃだ。
大人の男というものは、ほぼ例外なく、皆が髭もじゃになるものなのだ。
偶に毛深くて髭が伸びすぎる人が居て、そういう人は髭が邪魔になるのか、石刃で短く刈ったりしていたが。
彼の左後方の黒く煤けた壁の窪みに一つだけ置かれた小さなランプの土器は、今は灯が消えており、黒くなった灯心が、器の端からへにょりとしお垂れている。
ランプの代わりに昼間は、部屋の壁の上方に開けられた複数の小さな──人はちょっと潜れそうにない──窓から、柔らかな光が入って来ている。
窓の感じを見ると、この建物は、どの壁も分厚そうだ。
部屋の主が立ち上がった。
「あなたがトールさんですか?」
「そうだ。神殿に居た難民の子だな?」
彼とトモコが話し始めたので、そちらに目を戻す。
中年太りの、短髪のごま塩頭の兵士で、襟を立ててたっぷりと首から手首、お尻の下まで覆う黄色い衣の下には、鎧を着込んでいる感じがする。
身に纏う衣は、全体に黄色地で、縁を黒く染められ、そこに赤い花と白い貝殻の模様の縁飾りがされていて、きっととても高価な物だったに違いなく、やや古びてはいるが、清潔そうだ。
腰のベルトに、白っぽい角製の柄の、黒鞘に収めた長いナイフを挿している。
「はい、神殿で手当てを受けていました。ここに行けと神官さんに言われました」
「ようこそ、新入り。私はトオルだ。君らの新しい地獄はここから始まるが、まあとりあえず、扉を閉めて、そこの椅子にでもかけてくれ」
トオルと名乗る初老のごま塩頭の髭もじゃ男の、意外に若々しい、落ち着いた軽い声が、室内に響いた。
彼は右手の人差し指の第二関節で、弛んだ肉の上の目をごしごし擦ると、左手で目と指を払って、手をふっと吹いた。
ぼくは重たい扉に背中を当てて体重を掛けて閉めた。
トモコが、椅子扱いされているらしい、部屋の真ん中、戸口寄りに置かれている木の切り株に腰掛けると、
「地獄……」
その背後に立つトヨキが、心に引っかかったキーワードを口にする。
「そうだ。君らは別に歓迎されてるわけじゃない。それは分るな?」
「やっぱり、そうなんですね」
トモコが、いつも変わらぬしっかりした声で答えると、
「可哀そうに思うが、どうすることもできない。殿様の家来であれ、農場であれ、猟師であれ、今は既に新しい徒弟の口も埋まってるし、たとえ空いても求められるのは壮健な大人だ。難民の孤児なんか雇う余裕のある者は一人も居ない」
ふん、と息をついて、眉根を寄せて目を瞑り、
「だが、哀れな境遇に突き落とされた者を放ったらかしにしておけば、悲惨な事にしかならん」
また目を開けると、表情を和らげ、トモコの目を見て、
「だから、私は、ここでできる最低限の援助を、新入りに対しては分け隔てなくすることになってる」
「援助……」
「最低限だ。我々もまた、限られた割当ての中で、どうにか遣り繰りしなきゃならないからね。それで……」
そこで、トオルは少し間をおいて、ぼくたちを一人一人、じっと見ると、
「それを渡す前に、まず君ら一人一人の事を、我々はよく知っておく必要があるので、色々聞かねばならん。いいかな?」
「はい」
「じゃ、まず君からだ。名前は何というのかな?」
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