第536話 石田治部少輔三成さま命(笑)💖
とつぜんですが、ある書籍化作家さまから拙過去作にたくさんの星を賜りました。読み直して思い出しました、あ、そうだ、わたし歴史ものを書いていたんだっけ~。(^^; で、ちょっと反則っぽいかもとは思いますが、せっかくなのでここに転載させていただこうかなと。二度読みになる方はごめんなさい、スルーしてくださいまし。
少しだけ付言させていただければ、ちょうど三年前のいまごろは、個人的にとても苦しい時間を紡いでおりました。あっちもこっちも八方塞がりの状況に糸電話を求めるつもりで取材に出かけました。そして、まずは自分自身が楽しむつもりで思いきり弾けて執筆したので、いわば、どん底時代の記念碑的な短編になっていたりします。
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石田治部少輔三成さま命(笑)💖
第1話 自称歴史小説作家の内向的独白(笑)
あの……この際ですから、思いきって、シレッと言わせていただきますね。(笑)
こう見えてわたくし、一応、歴史小説の執筆をライフワークにしておりますのよ。
え、まったく、そう見えない? スーパーの安売り場に群がっている、ごくフツウのオバサンにしか? どこからどう見ても、作家の「さ」の字すらも匂って来ない?
ま、うれしい! そう思ってくださる?
それこそがわたくしの狙いなんですの!
平日の昼間、たいした用事もなさそうな顔をして、ぼんやり住宅街を歩いている。
近所の住人であることは、バッグなしの軽装からして一目瞭然だし、冬など室内着(ときにはパジャマのことも ( ;∀;))にチャチャッとダウンを羽織ったりして、その事実を知られていないと思っているのは本人ばかりなり、だったりして……。(笑)
けれど、そんなオバサンの毛糸の帽子の下では、胸キュンの凛々しい若武者が颯と名馬を疾駆させていたり、華やかな小袖の姫が月見櫓から寒昴を仰いでいたりなんかするわけですよ。ついでに心ときめくコイバナも煌めかせたりなんかしてね……。
手拭いを手縫いしたマイバッグに食品や日用品をドサドサ放りこみ、生活感丸出しでポクポク歩いているオバサンが、じつはそんなことを考えているなんて、世の中のだれも想像しないわけでしょう? それが何ともかんとも、痛快で痛快で。(*'▽')
そうねえ、寝ても覚めても、ふたつの時代を行ったり来たりして生きているようなものかしらねえ、わたくしら歴史小説作家って。あ、あくまで自称(笑)ですけど。
*
でもね、これがまた便利なんですよねえ。(@^^)/~~~~~~
たとえば現実社会でありがちな、小さな出来事が起きたとするじゃないですか?
スーパーのレジに並んでいるとき、うしろの人の籠にグイグイ押されたとか、ぼんやりしていて横入りされたとか(笑)、レジで卵や林檎を粗雑に扱われたとか……。
そういうときはね、得意のくノ一忍法で戦国時代へ飛ぶんですのよ。ふふふふ。
伊賀者だったり甲賀者だったり、武田信玄の三ツ者だったり。ときには、小田原の北条氏が抱えた
お武家でも町娘でも好きな人物に変装して「無礼者! 手打ちにしてくれるぞ」「そんな不作法では、わたくしどもの城下では商いなどいたさせてもらえませぬよ」胸の内でつぶやけば、目の前の些事は気にならなくなるという寸法でございまして。
ね、なんとも便利な現実逃避……。
否、隠遁術ではございませんこと?
🧢🧥👝🌞🥚🍎🏯👘(=^・・^=)
第2話 丸墓山古墳の頂きから
そんなわたくしが、あるときフィールドワークに出かけたと思し召しあそばせ。
あらやだ、気取ってカタカナ語なんか遣っちゃったけど、平たく言えば取材よね。
ね、おわかりでしょう? 自称(くどい!)モノ書きとしては、執筆にとりかかる前にまず現地に触れておきたいわけですの。とりわけ長編を志す場合、既存の資料を頼りに机上で創作するのと、わが足で現場を踏みわが目と耳で空気感や距離感、風土感を味わうのとでは、仕上がりのリアリティに差が生じるのでございますのよ。
デジタル全盛だの何だのかんだの申しましても、いざとなったら、やっぱり五感がモノを言うんですのよねえ。だって、わたくしたち、人間なんですもの。(*´▽`*)
☆☆☆☆
さて、おしゃべりはこの辺にして、そろそろ本題に入らせていただきましょうか。
そうね、現代の殿方に例えればイチローさんですかしらねえ、野球選手の……。
シュッとしていて、クールで、ストイックで、ビューティフル&チャーミングで、メジャーリーグへの挑戦で渡米したころの、触れれば切れそうな感じの……。⚾
――
健康オタクで細マッチョ好き、ムエタイのラウンドハウスキック(まわし蹴りでございますわね)アレをば得技といたすわたくしの、ずばり、タイプなんでございますのよ~、佐吉さんこと三成さん! タヌキ親父の家康など、とてもとても。(笑)
*
その三成さんがですよ、四三〇年前、いまわたくしが踏んでいるまさにこの地に立っておられた……そう思うと、どうにも武者ぶるいが止まらないのでございます。
はい、さようでございます、ゆるやかな起伏の打ちつづく武蔵野に、十一個の古墳&小円墳群を擁する『さきたま古墳公園』、分けて最大の丸墓山古墳でございます。
急勾配の木道を登りきった頂きに四方に開けた広場が設けられておりまして、近代以降は足袋の産地として知られる行田市全域が望めますが、北方一キロほどの市街地に、豊臣秀吉の水攻めの標的にされた、忍城の復元城郭が真っ白に輝いて見えます。
つい先刻そこを訪ねたとき、天守の代わりに三階櫓と呼ばれる櫓があるだけの、城と呼ぶにはあまりにも小さな規模に胸を突かれたばかりでございましたので、何万もの大軍があの小さな城を……少しもの悲しい思いに駆られたりもいたしました。
といって、三成さん贔屓に多少でも翳がさしたかと申せば、決してさようなことはございません。勝者が自分に都合よく編纂した“正史”なるものでは、小田原城が陥落したのちも支城・忍城の水攻めをやめようとしなかった三成さんを無能呼ばわりしているようでございますが(怒)、それこそ、とんでもない事実誤認でございますよ。忍城の水攻めの貫徹は、関白秀吉、その人の絶対命令だったのでございますから!
ま、それはともかくといたしまして、三成さんが陣を張った丸墓山古墳の頂きから一キロ北方の窪地の、現在は乾いた市街地の一画に過ぎませんが当時は水に浮かぶ深い森に見えたという忍城は、攻守の立場によって「あんなに遠く」とも「こんなに近く」とも真逆の感懐を抱いたであろうことが容易に推察されるのでございました。
第3話 関白秀吉の小田原征伐&忍城水攻めの謀略
時間を少し巻きもどすことをお許しくださいませ。
多少説明がましくなりますことも、ついでに。(笑)
*
関越自動車道を花園インターで降りて、国道十七号線を東上するルートは、何年か前に、上野沼田城に真田信之の正室・小松姫の痕跡を訪ねたときと重なりました。
天下を狙う秀吉に抗し、徳川家康や伊達政宗と同盟を結んで関東の実力を誇示していた小田原城主・北条氏が、当時は秀吉の
その要望を受け入れたのが、関白秀吉による「沼田裁定」でございます。
――真田所有の沼田の領地の三分の二、および沼田城は北条に渡す。残る三分の一、および自らの先祖の墓がある(筆者注:ない)
この裁定、一見、北条方に有利に見えますが、じつは遠からず予測される争乱への布石が巧みに織りこまれていたことを、現地で改めて感得できたのでございます。
幅七十メートルにおよぶ長大な河岸段丘の上に天守を構える沼田城に比すれば、利根川を挟んだ小台地の名胡桃城など取るに足りない砦と思いこんでいましたが、それは土地の事情を知らない者の大いなる錯覚であったことに気づかされました。
つまり、現在の群馬県利根郡みなかみ町に位置する名胡桃城のすぐ東方には太々と利根川が這っておりまして、両城を遮る一木とて見当たりませんので、名胡桃城内に居ながらにして、本城の沼田城内が手に取るように見渡せるのでございます。(';')
であったればこそ、関白裁定に基づく沼田城の引き継ぎから四か月後、真田麾下の名胡桃城代・鈴木主水の留守をねらった北条麾下の沼田城代・猪俣邦憲の配下による名胡桃城乗っ取り事件が、起こるべくして引き起こされたのでございましょう。
こうした事態を見越し、前もって『惣無事令』なる罠を仕かけ、「向後、如何なる戦さも私闘(私戦)と見なす」と下達しておいた秀吉は、この小事件により、まんまと北条氏打倒の「大義名分」を掌中にしたのでございます。
申し上げるまでもございませんが、秀吉の主君・織田信長が石山本願寺を討つときにも気を配りましたように、私戦と公戦では、人心に与える印象が大きく異なりますゆえ、戦後の世論(現代で言えば内閣支持率でございましょうか(笑))に配慮して「義」を掲げるのが当時の倣いでございました。
ついでに申せば、時代はかなり下りますが、「忠臣蔵」の大石蔵之介も、仇討ちを待ち望む世間の目に押されて吉良上野介の本所邸へ向かったとも言われております。
強気一辺倒で怖いもの知らずに見えがちなお武家さま方も、じつはマジョリティの人気を慮り、内心でビクビクしている部分がおありになったのやも知れません。
*
旧主・信長に倣い(本音ではその上を行きたかったのでございましょうね(笑))、小田原征伐の大将自らの出陣にあたり、聚楽第出立の際は「
敢えてゆるゆると進軍させる先々で茶会を開くため千利休まで同行させた秀吉は、まずは最大の難所とされる箱根・山中城を攻めると、目指す小田原城を眼下にする笠懸山に本格的な出城「石垣山一夜城」をわずか八十日という短期間で完成させ、糟糠の妻・おねの機嫌を取って(笑)一の側室・淀殿を呼び寄せ、長期戦の構えを見せたのでございます。
――まるで遊山のようじゃな。
豪語する秀吉は、その一方で、用意周到に三つの別働隊を組織しておりました。
ひとつの別働隊のリーダーには、家康配下の本多忠勝、鳥居元忠、秀吉配下の浅野長政を据えて、武蔵江戸城、下総臼井城、佐倉城、武蔵岩付城を攻めさせました。
前田利家、上杉景勝、真田昌幸の北国部隊は、苦戦しながらも上野松井田城を陥落させると上野箕輪城、
そして、石田三成、大谷吉継、長束正家が率いる別働隊は難攻不落の上野館林城を攻めたのち、関東で唯一不落となっていた武蔵忍城に向かったのでございます……。
第4話 忍城・お堀端に咲く山茶花&甲斐姫の余話
またしても話が行ったり来たりいたしまして、申し訳ございません。
あちこち飛ぶのが、わたくしのわるい癖でございまして……。(笑)
暑いほどの小春日のなか、国史跡『さきたま古墳公園』の広い駐車場に、ぽつんと県外車を止めると、「日本最大級の円墳」と案内された丸墓山古墳へ向かいました。
その頂きへと導く急勾配の木道の登り口の手前、何の変哲もなさげな老桜並木に、
――
そんな表示がいきなり現われましたので、わたくし、思わず目を瞠りました。👀
穏やかな日差しのもと凡庸な凹凸を連ねているだけの老桜並木は、戦国の当時、三成さんが土地の百姓を雇って昼夜を分かたず築かせたつごう十四キロに及ぶ築堤の一部らしいのですが、荒川(当時の川幅五十メートル)らしき影はどこにも見当たりませんで、小さな沼で丈高い枯葦がかすかな風にサワサワ騒いでいるばかり……。
*
で、ここで先刻の丸墓山古墳の頂きからの風景につながるのでございますが……。
いずれも秀吉の配下で年頃も似通った朋輩、紀之介こと
向かって右手をうねる利根川と、左手の荒川を結ぶ堤を忍城の下流に築いたうえで上流を決壊させ、城を取り巻く城下一帯を一気に怒涛に呑みこませる……現在の行政区域で申せば、行田市・鴻巣市・熊谷市の三市に及ぶ壮大な
ちなみに、この古墳山を拠点にした戦国武将は三成さんが最初ではございません。さようでございます、「越後の龍」と畏れられた上杉謙信さんもまた、この古墳の頂きから北に望む湖or沼に浮く森のような忍城攻めの指揮を執られたのでございます。
*
そんなことに千々思いを巡らせておりますと、秀吉が幼い息子・秀頼にうしろ髪を残して逝ってから十六年後の大坂冬の陣の際、生母・淀君らと大坂城に籠った秀頼が淀川の堰をきらせ一時的に徳川軍を足止めしたという逸話がよみがえりました。
あの巨大な大坂城に比すれば、目の前の忍城はあまりにも小さいのでございます。
一部に史実として伝えられますとおり、あれほど狭い城内に武士をはじめ町人、百姓など四千人が立て籠ったとしたら、廊下や階段の共有スペースも含め、最上階の三階魯に至るまでぎゅうぎゅう詰めであったことが容易に推察されるのでございます。
なれどまた、別の資料によれば、忍城側が抗戦した跡はどこにも見当たらず、籠城当初から降伏を申し出たものの、秀吉側が受け付けなかったというのでございます。
まさに事実は藪の中でございますが、一介の旅人の身で差し出がましい推測をお許しいただくとすれば、つまりはこういうことだったのではございませんでしょうか。
小田原城の至近距離に短時日で完成させて世人の度肝を抜いた「石垣山一夜城」とともに天下人を誇示する駒として、関西出身の秀吉としては苦手意識が強く、しかもライバルの家康に「貴殿に差し上げよう」と約した関東の代名詞的な利根川・荒川の二大河川を制御し得た、その証しをどうしても天下に示しておきたかったのだと。
ちなみに、天正十(一五八二)年、明智光秀が本能寺の変を起こしたまさにそのとき水攻めの最中だった備中高松城の足守川も、同十三年に水攻めを行った紀州太田城の紀ノ川も、いずれも河川の規模において「日本国をもって関八州に対すべし」と称する坂東武者の魂魄とも言える利根川・荒川の数分の一にも及びません。(*´з`)
*
かくて、小田原城が陥落したのちも水攻めを継続したことで、朋輩のふたりからも呆れられた三成さんは、築堤は完成させたものの荒川の堰き止めには失敗し、後世にもっともらしく編まれた文書に「
あ、そのことでございますか?
秀吉がことごとに競わせた子飼いの三者のうち、忍城の水攻めあくまで決行の儀は「佐吉」と幼名で呼ぶ三成さんひとりに発していたのではなかったでしょうか。
人品が大人ゆえ反りが合う大谷吉継さんはともかく、あまりにも怜悧な頭脳ゆえに他者の心が難なく読めてしまい、それでいながら迎合する気はさらさらなく、だれに対しても是々非々を貫く……いわば自分と正反対の三成さんを快く思っていなかった長束正家さんは「たれやらの功名心のとばっちりで、こちらは大いに迷惑にござる」などと里謡っぽく囁いてみせたりして、それ見たことかと嘲ったやも知れませぬが、弁解無用が美学の三成さんですから、あくまで無言を通されたのでございましょう。
*
それから十年後、慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原戦に敗れた三成さんは、家族のように可愛がったという領内の百姓に匿われていたところを捕縛され、
その間はむろんのこと、六条河原の刑場に引き出された際も三成さんは傲然と胸を張って微塵も恥じるところのない矜持を天下に示され、高僧からの読経の申し入れも丁重に断られたうえで、常と変わらぬ冷静沈着な面持ちで、従容と死出の旅路に出立されたのでございます。
大方の武将が多かれ少なかれそうであったはずの「おのれに酔う」という残念な側面とは無縁の好漢でいらっしゃいましたから、文字どおり敗軍の将に堕したご自身を、
ちなみに、小田原城に詰めていながら秀吉に内通して主君の北条氏を裏ぎり、忍城の陥落後は会津の
*
丸墓山古墳の頂きで微風に吹かれて思いを巡らせておりますと、さざ波ひとつない忍城の堀端に咲いていた、純白にひと筋の薄紅を刷いた山茶花が思い返されました。
花言葉はたしか、
――ひたむき🌸
であったはず。
あの小さな城に籠って健気に戦ったとも、天下統一の締めとして奥州平定に行った秀吉の宴席で美貌を認められて側室になり、成田家の再興をおねだり(笑)したとも言われる甲斐姫の痕跡を訪ねることも今回の取材の目的だったのではございますが、復元城郭を兼ねている郷土博物館でも、これという資料は見当たりませんでした。
ただ、ほかならぬ自分の目で現地を見て、この足で大地を踏み、空気を肌で感じた意義は小さくなかったはずでございますので、いずれ、なにかのかたちにとは……。
☆☆☆☆
さてと、拙い話に長々とおつきあいくださいまして、たいへん恐縮に存じました。
まさか、冬タイヤの履き替えに出向いたディーラーさんに歴史ファンの営業さんがいらして、わたくしの読んでいた文庫にお目を留めてくださり、かように踏みこんだ話にまで発展しようとは思いもよりませんでした。縁は異なものでございますねえ。
では、来春、普通タイヤへの履き替えの折りに、またお目にかかりたく存じます。
それまでお元気でご活躍のうえ、どうぞ佳いお歳をお迎えくださいませ。🙇🎍
(2021年12月17日)
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