第96話 窓いっぱいの泰山木 🌳
からっと晴れあがった午後一時半、「open garden」の案内板の横、民家のそれと見紛うような格子戸を開けると、期待どおり近所のサラリーマンの姿はありません。しめしめ、お昼どきは相当混み合うとネットで見たけど、この時間は穴場らしいね。
前回、顔を覚えてくれたらしいスタッフさんが「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」初々しく声をかけてくれるので、遠慮なく四人席へ着かせてもらいました、母屋に併設の茶室を改装したらしい店内に、客は同年代の女性ふたりだけなので。
🪟
全面ガラスの窓から公開中の庭が手に取るように見えます。目の前にある人の背丈ほどの樹木は石楠花かな、下草は小さな紅色の花をびっしり咲かせる水引草だよね。ゆるくカーブする石畳のアプローチに薄日が射し、得も言われぬ秋の和風庭園です。
開店と同時に入った初回はカウンターに案内されましたが、今日も大きな窓をほぼ独り占めする泰山木の連理が肉厚の艶やかな葉を光らせています。その逆光に浮かびあがる輪郭に見覚えがあるような……え、ひょっとして、よく話したジム友かしら?
でも、こちらに背を見せている相席の女性が何事か懸命に話しているようなので、急いで視線をそらせます。木目の美しい各卓にはそれぞれ桔梗の一輪挿しが置かれ、フリードリンクのコーナーには趣味のいい各種器が骨董店のように並んでいます。
あ、オーダーですか? 母屋の豪邸の持ち主と思われる初老の小柄な女性がひとりでつくる和風創作料理は当日にならないと分からない一種類だけのお任せメニュー。野菜と玄米を中心にした健康食なので、肉が苦手なヨウコさんにぴったりなのです。
🌺
せっかくなのでバッグの歳時記も文庫も広げず、静謐な店の雰囲気を目と耳と心で愉しんでいると、すうっと忍び寄るようにしてヴァイオリンの音色が床を這って来ました。有線放送ではなさそうなので、店主がその日の気分で選んでいるのでしょう。
ちょっと待って~、聴きたいような聴きたくないようなこの曲、なんだったっけ。あ、あれじゃない? 東日本大震災のあと一日中テレビや巷で繰り返し聴かされた、被災地ゆかりのタレントや文化人がワンフレーズずつ歌い継ぐ、あの『花が咲く』。
♪ かなえたい 夢もあった
傷ついて 傷つけられて
いまはただ懐かしい……
ところどころ覚えている歌詞がコツコツと時を刻む秒針を巻きもどすようによみがえります。公的機関の主導が露骨にすぎて、当時は天邪鬼な耳がいやがりましたが、こうして濾過の時間をおいてみますと、歌詞もメロディも素直に心に染み入ります。
🍱
店主の孫娘らしい若いスタッフさんが運んで来た半円形のお盆に美しく並べられているのは、小豆入り玄米に出し巻き玉子&大粒の浅蜊と油揚げの炊き合わせをのせたメインの一品、色とりどりの地物野菜サラダ、若布とエノキのお吸い物、胡瓜と人参のぬか漬け、杏ジャムを添えた自家製ヨーグルトで、〆て千円のリーズナブルです。
五十回噛みでフレッシュな素材と料理を味わいながらも、耳は音楽に誘われます。それにしてもです、非力な人間には防ぎようがない天災だけでも、もうもうたくさんなのに、なぜ敢えて人災の最たる戦争を起こさねばならないの……遠い国の人びとのいまこの瞬間の&この国の先人たちの八十年前の恐怖の同根をたぐり寄せます。(;_:)
そして、あまりな複雑を理由に学ぼうとしなかった自分自身を含め、ひとつの土地をふたつの民族が奪い合う歴史の末に生まれた「屋根のない監獄」ガザ地区に数多の人びとを閉じこめたまま、物心両面の困窮に目をつぶって来た世界の責任にも思いを巡らせますと、きれいごとを語って来たあの顔もこの顔も偽善の仮面に見えて……。
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