ファイブオクロック
森本 晃次
第1話 四宮家の人々
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。
読者諸君は、夕方と聞くと何を連想するであろうか? 子供の頃に公園で友達と遊んだ光景。学校や職場からの帰り道、長く伸びた影を気にしながら、下を向いてばかり歩いたという思い。通勤の帰りなどは、人ごみの中で何も考えずに歩いているつもりでも、気が付けば何かを考えていて、我に返った瞬間に、考えていたことを忘れてしまったという本末転倒な記憶。それも懐かしさという言葉から来る思い出ではないだろうか。
まだ小学生の少年である四宮三郎は、最近の子供のように、ゲームに嵌ったりすることもなく、いつも表で遊んでいることが多かった。それについて親も、
「勉強しなさい」
などとはあまり言わない。
学校の成績もそんなに悪いわけではない。むしろ、引きこもってゲームばかりしている友達の方が成績も悪くて、しかも要領も悪い。三郎は、要領がいいというよりも、実に効率の良さが目立つ少年で、勉強も集中して一時間くらいしただけで、他の人が三時間したのと変わらないくらいの成果を上げることができていた。
しかも、集中しているので、記憶力もずば抜けている。ただ漠然と覚えるわけではなく、記憶に対して、自分なりに向き合っているので、覚えるという感覚が研ぎ澄まされていた。その感覚は記憶だけにとどまらず、発想にも生かされる。そのおかげで、彼の成績はそれほど勉強時間を費やさなくても、他の人よりもいいのである。
それを、皆、
「要領がいいだけだ」
と言っているが、それは、本当に要領の悪いやつが揶揄しているだけで、要領の良さをいかにも、
「手を抜いている」
とでも言いたげに宣伝するのは、その人にとっての正当性を認めさせたいというだけの言い訳にしか過ぎない。
要するに、濡れ衣のようなものであった。
三郎は、要領がいいというだけではなく、変わり者といわれることも多かった。
好奇心が旺盛なせいで、冒険心もたくましく、肝試しや恐怖スポットと言われるところに好んでいく方だった。
彼のまわりにいる人のほとんどは、怖がりであったり臆病者な人が多いので、余計に彼の好奇心旺盛な部分が目立つのだ。
特に親は両親揃って臆病者であった。
「よく、こんな臆病者の両親からお前のような冒険心のある子供が生まれたものだ」
と、親戚が集合しての飲み会などで、よくおじさんが言っていた。
これは、三郎に対しての皮肉でもあり、両親に対しての皮肉でもあった。どちらかというと、その強さは両親側に傾いていて、その臆病なところへの嫌悪感から、
「息子を見習えよ」
と言いたげなのではないだろうか。
子供には、そんな大人の皮肉が普通は分からないものなのだろうが、三郎には分かっていた。決しておじさんが自分を褒めているわけではなく、皮肉だということも分かってはいるが、両親に対しては、
「何とかならないのか?」
という思いを込めるほどに、両親は臆病だった。
本当に、
――この子は、この二人の夫婦の子供なんだろうか?
と考えていたほどであった。
ただ、息子の成績のよさは、両親からの遺伝であろう。両親とも教師であり、父親は大学の助教授でもあった。
母親も高校の教師をしていたのだが、母親の大学時代から交際が始まっていて、父親は大学院に進み、そのまま大学の講師として、大学に残っていた。母親は高校の教師もさることならが、
「結婚すれば、教師を辞めるかも知れない」
と、まわりに話しているほど、教師という仕事に愛着を感じているというわけでもなかった。
臆病なところが影響しているのかも知れない。
正直、高校生を相手に授業をするのはあまり得意ではなかった。一部の生徒からは完全に舐められていて、中には、淫靡な視線を送っている生徒もいるくらいで、そんな視線には、実に敏感だった。
それは、臆病な性格からきているのか、どんどん、自分を淫靡な目で見ている生徒が増えてくるように思えてならなかった。
不良っぽい生徒が最後列で彼女の儒教も聞かず、好き放題にやっている。その少し前で、自分のことを淫靡な目で見ている生徒がいるのを意識してしまうと、自分が何をしているのか、変な気分になってくる。
淫靡な目の生徒を意識していると、その生徒が猫背のようになったちょうど胸のあたりが机の上に当たって、胸から下が見えないのをいいことに、右手が小刻みに動いているのが分かった。
――何て淫らな――
その生徒が何をやっているのかは分かっていた。だからと言って注意をするわけにもいかない。
少年の顔を見ると完全に上気していて、少し突き出した顎が、力の入った身体を意味していた。だんだんの小刻みなスピードが速くなってきて、最後には吐息とともに、完全に逝ってしまっていた。
――ああ、厭らしい――
とは思ってみても、目を背けることができなかった自分を責めることもできなかったことに嫌悪しか感じない。
ここでその生徒に恥を?かせたとして、何があるというのか、その生徒が開き直って、自分を公衆の面前で責めたことへの戒めという正当性を感じることで、自分を襲わせる大義名分を与えてしまうかも知れないと思うと、それが一番恐ろしかった。
生徒が教師を自分の剥き出しになった欲望を爆発させたとして、誰にも何らメリットはない。
皆が皆傷ついて、結局誰かが責任を取らなければいけなくなるのだとすれば、その全責任は、一番傷ついたはずの自分に向いてくるのだった。
そのことを思うと、誰にも何も言えなくなるのだ。
そんな自分を母親は。
――臆病者だ――
と感じていた。
しかも、その生徒の自慰行為を目の当たりにしたことで、鬱状態に陥ってしまった母親が、その時感じたのは、その生徒に対しての憎しみではなかった。
――私を見ながら感じてくれていたんだわ――
という不可思議な思いであり、それがさらに自己嫌悪に陥れる。
―ーはやく、結婚してこんな学校辞めてしまいたいわ――
と感じていたが、当時交際中の父親に結婚を仄めかすと、
「もう少し待ってくれ。もう少しすると、正式に大学の講師になれるんだ」
という。
その時はまだ非常勤の講師扱いだったので、父親とすれば、
「せめて正式な講師になって収入も安定した形で結婚したい」
と思っていたようだ。
それはそれでいいことなのだろうが、自分のことばかりを考えるあまり、母親の抱えている悩みに対して気付いてあげられなかったことは、お互いに違った意味で臆病だったと言えるのではないだろうか。
なかなか結婚もしてもらえず、高校では思春期の男子に囲まれて、まるで針の筵状態だった。
そんな毎日を夢に見て、しかもその夢が、高校生皆に凌辱されるという、言葉では言い表せないような夢であった。
しかも、夢を見ている時、
「これは夢ではないか?」
と感じながらも、心のどこかで、
「夢であってほしくない」
などという感情があることに、驚きと一緒に、自分にとっての憤りもあった。
多重人格のような性格をいかに自分で納得させるか、それができない母親は、ジレンマに落ち込んでいたと言ってもいいだろう。
「これって臆病だと言っていいのかしら?」
とは思ったが、それは明らかに父親に感じる臆病さとは違った種類のものであったからだ。
では、父親はどうだったのだろう?
大学というところ、他の一般企業に比べて、内部が実に分かりにくくなっているようだ。つまりは、それだけ封建的なところがあるというわけだ。それはまるで徳川時代の鎖国でもあるかのようであるが、鎖国とは違うのは、内部のことが外部に漏れることはないが、外部のことは結構入ってきても問題はないということだった。
それだけに、外部の人が思っているほど、大学内部の人は、
――それほど閉鎖的ではないんだ――
と感じ、
――これが本当の世の中なんだ――
と、大学内部に対して。そう思い込んでいるのかも知れない。
特に他の教授たちのように他の大学から招かれたわけではない父親のような講師は、上の身分の助教授や教授たちには逆らえない。これを普通の体制だと思わされているだけに、当たり前のこととして従うのだった。
大学には、父親のような存在の人が少なからず必要だった。
下手をすれば、何かまずいことが起これば、真っ先に最前線で戦わされて、殺されてしまう生贄のような存在なのだ。やくざのいうところの、
「鉄鋼玉」
ともいうべき存在なのかも知れない。
しかも父親は、元々が従順で、逆らうということを知らない。それが臆病な性格から来ているということが分かってしまうと、これほど利用しやすい人もいないだろう。
自分がそんな風に見られているとも知らない本人は、
「まわりから期待されているんだ」
と、思い込まされている。
ただでさえ、皆学者という自分中心的な世界に身を置いている。教授の権力というと、実際の研究成果から裏付けられているものなので、他の会社の年功序列のような確証が曖昧なところとは違う。だから、いずれは自分も確証を持った教授になることで、下らか見上げることしかできない教授の地位を手に入れさえすれば、権力は思いのままとなって、臆病であろうが関係のない世界なのだ。
最初は、そんな大学に身を置くことに躊躇があった。
「教授の地位に上り詰めるまでに、自分が耐えられるかどうか分からない」
そう思うと、普段のストレスの矛先は家族に向いた。
一応の約束通り、大学専属の講師となることのできた父親は、母親と結婚した。まわりは祝福してくれたが、本人たちがどこまでこの結婚を喜んでいたか、甚だ疑問である。
母親は、高校生を相手に、授業と言っても完全に荒れた授業で、まだ自習の方が静かなくらいだった。教室では机は原形をとどめないほど、前を向いている机は珍しく、横を向いたり、中にはひっくり返っているものがあったりと、皆正面を向いておらず、めいめいで勝手なことをやっている。
一番前の生徒はとりあえずノートを取っているふりををしているが、先生の声が通らないほど、まわりは騒がしい。完全な無法地帯。これを授業と呼べるのだろうか?
隣の教室にも音が響いてうるさいはずである、しかし、他の先生が注意に飛んでくることはない。他の先生も母親の授業がどうなろうと気にならないどころか、自分の授業がうるささで邪魔をされていても気にならない。
騒音が気にならないというわけではない。授業が妨害されようがどうしようが関係ないという意味だ。
他の先生も真面目に授業しているようには見えるが、実際には教団の上で、呟いているだけでしかない。決まった時間、教団の上にいて、カリキュラムにそって授業を行い、テストでも、落第をあまり出さない程度の問題を出すことで、無難にやり過ごす。
この学校では、進学する生徒などそれほどいない。ただ、卒業できればいいという生徒が多いので、先生も保護者も、それでいいのだ。
一番それでいいのは生徒たちであり、騒がしくしようが、授業を聞いているふりをしていようが関係ない。
ただ、母親の授業だけは、なぜか皆騒ぐのだ。他の先生にはなぜなのか分からなかったが、深く追求してみる人もいなかった。
母親には何となく分かっている気がしたが、それは口が裂けてもいうことはできない。これでも、恥辱は保っているつもりだった。いや、凌辱を受け入れて、自分の中でいかに消化するかが課題だと思っていた。
最初は、
「こんな学校、早く結婚して辞めてやる:
と思っていたが、いざ結婚してしまうと、学校を辞めることができなくなってしまったのだ。
学校をやめることの方が怖い気がするというのが、母親の本音だった。
そんな母親の気持ちを知ってか知らずか、母親が最初に言っていたように、家庭に入ろうとしないことを、父親はよかったと思っていた。
お互いに仕事をしている方が、何かといろいろ言われることもなく、安泰だと思っていたのである。
それでも、結婚してから二年後に三郎を授かった。そんなこともあり、母親は仕方なしに家庭に入ることになった。
学校を辞める時、まったく未練はなかった。
――今がちょうどいい潮時なのかも知れない――
と感じたのは事実。
出たくなかったというのは、自分がこのままドップリと浸かってしまっていて、逃れられないという呪縛があったからだが、いざ、子供を授かって逃れることができると思うと、さっさとこんなところからおさらばするのが一番いいと、我に返ったのであった。
大学では相変わらずの父親と、家庭に入って子育てに一生懸命の母親とでは、このあたりから気持ちのずれが歴然としてきたようだった。
両親ともに、気持ちはとっくにずれてしまっていた。それでもまわりにそのことを悟らせなかったのは、世間でいうところの、
「仮面夫婦」
とは若干の違いがあったからだろう。
仮面夫婦には、お互いに不満を持っていながら、それを表に出さないようにしていることで、両親の場合は、お互いに不満は持っていたが、その不満が自分たちの気持ちのすれ違いからきていることが分かっていたので、不満な気持ちを相手に無言でぶつけるようなことはなかった。
お互いに、
「相手は自分に不安なんか持っていないし、自分も相手に不満はない。お互いにすれ違っているだけだと感じているんだ」
と思っているだけだったのだ。
「お互い様」
という言葉がお互いを戒め、そもそも臆病なだけに、相手に必要以上な何かを求めるということはしなかった。
そのおかげで、家で喧嘩も見たことはなかったが、仲良くしているところを見たこともない。仮面夫婦であれば、少なからず体裁を考えて、少しはなかよくしているふりをするのだろうが、両親にそんなことはなかった。
これが、両方とも教育者の家庭なのである。
母親は仕事を辞めたとはいえ、一応教師であった。ただ、その実情は、授業などとは決していえない無法地帯での立ち位置に、きっと後で思い出すと顔が真っ赤になってしまいそうな凌辱を受けていた自分が、まるで他人のように思えるだろう。
さすがに凌辱を受けていたと言っても、それは目で見られることの凌辱であり、いわゆる、
「視姦」
とでもいうべきか、男子生徒の瞼に写る自分が、逃れられない凌辱の中にいることを快感のように感じていたのだ。
――夫にも感じたことのない自分を曝け出す快感――
それをそのうちに黙っているのが耐えられなくなっていた。
――時間が経てば、こんな思いは次第に薄れてくるだろう?
とタカをくくっていたのは、まだ三郎が三歳くらいの頃のこと、幼稚園に上がり、小学生になっても、母親の中の血潮は決して冷めることはなかった。
三郎が幼稚園に上がり、他のお母さんたちを目の当たりにしていると、いかに自分が他のお母さんたちと違っているかが分かってきた。
幸いにも、他のお母さんたちから見て、それほどの違いを感じさせないところは、ある意味さすがあのかも知れないが、却って目立たない立ち位置に自分を置いて、しかもそのことでホッとしている自部が本当の自分なのかと考えていくと、我慢できない自分を、いかに満足させるかを、無意識に感じている自分がいた。
そんな自分をいとおしいと思うのは、やはり自分が、
「人と同じでは嫌だ」
と感じるからであろうか。
これが父親との一番の違いであり。父親にはそんな思いがまったくない。ただの臆病者でしかなかったのだ。
そんな父親を母親は次第に蔑むようになってきた。
三郎が小さかった頃というのは、どうも近所との折り合いもよくなく、クラスメイトの親ともしっくり来ていなかったので、友達の親からは、
「四宮さんのところの子供とは、遊んではいけません」
と言われていたに違いない。
子供というのは、理由も分からず、親のいうことはある程度の年齢までは従順に聞く者だ。そんな頃に押し付けられた印象派、そう簡単に外れるものではなく、誰も三郎と打て会う人はいなかった。
それでも、わんぱくと言われる子供たちだけは別のようで、いや、そもそも、そういうわんぱくと言われる子供たちも、大なり小なり、まわりから、
「相手にするな」
などと言われている連中ばかりで、
「同じ穴の狢」
と言えるだろう。
正統派とでもいうべきか、多数派の子供たちは、部屋でゲームに勤しんでいたり、ゲームなどを通してしか会話もできない子たちだが、わんぱくと言われる子供たちは、皆顔を見て会話をし、お互いのコミュニケーションを図っていた。
三郎も十歳くらいになってくると、自分たちの方が引き籠ってゲームばかりして遊んでいる連中よりも健康的で、はるかに正常な気がしていた。だが、大人たちは表で遊んでいる連中を見ても、
「原始的だわ」
だったり、
「まるで昭和の時代の子供みたい」
と言っていた。
自分が子供の頃くらいから、引きこもりや苛めなどが本格的な社会問題になり始めた頃であろうか。
家族崩壊だったり、学級崩壊などという言葉があったり、苛めやDVなどが問題になる頃で、自分たちも大人が信じられず、引きこもっていたはずなのに、どうして表で遊んでいる連中をそんなに毛嫌いするのかが、分からないという大学の先生もいたりした。
子供も、自分が大人になると、子供の頃に自分の親に感じていた。
――あんな親にだけは絶対になりたくない――
という思いを忘れてしまったのか、結局同じような親になってしまっている。
それは、
「親と子供とでは、立場も目線も違うからだ」
ということだけで片づけてもいいものだろうか。
だが、今回のこの物語で重要な役目を果たすことになる、
「三郎少年」
は、そういう子供とは少し趣が違っていた。
まだ、十歳であるが、親に対しては、あからさまに反抗してみる。嫌なものは嫌だとハッキリ自分で言える、そんな少年だった。
もちろん、まだ子供なので、それが言える相手は自分の親だけであるが、それも親の臆病な部分を分かっているからであり、十歳の子供がそこまで見破れるのは、それだけ子供が賢いからなのか、それとも、親の方が情けないからなのか、分かりにくい部分であった。
ただ、そのどちらも大きいのではないだろうか。そのおかげで三郎少年は他の子供にはない、
「奇抜な発想の持ち主」
ということになり、たまに大人がビックリするような行動をとることで、周囲をハラハラさせる子供でもあった。
だが、それもこの少年のいいところなのであろうが、
「面目躍如」
と見られるようになるとは、この時に誰が想像したであろう。
ちょうどこの頃、三郎少年の住む街に、えてして、
「昭和ブーム」
なるものが静かに巻き起こっているのを、まだ大方の人たちは知らなかった。
それを示すかのような、最近の区画整理。すでにマンションなども立ち並び、都会へのベッドタウンとしての開発は済んでしまったと思っていて、後は落ち着いた街づくりが求められると思っていた住民には、まだまだ想像のつかないことであろう。
区画整理も、ただのマイナーチェンジくらいのもので、新たなショッピングセンターでも経つのではないかと思われるくらいのものだった。
だが、実際には、その最終目的に、国の方針が絡んできて、ゴミ問題に対応するための大きなゴミ処理工場を、この街の外れに建設しようという行政と、土建屋の画策が、水面下で進んでいるのを、まだほとんどの住民は知らなかったのだ。
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