兵士は鉛の夢を見る

曇空 鈍縒

この戦場に希望はない

 塹壕戦で最も頼りになる武器。そう聞かれたら、俺はスコップと答える。


 掘る、殺す、その他諸々。開発途上の短機関銃よりはずっと数が多く、着剣した長いライフルより取り回しもいい。


 俺は塹壕内で、スコップを使っていた。


 掘る方ではなく、殺す方で。


 第一線塹壕を守っていた連中が、重機関銃の弾幕や砲撃を掻い潜ってきた敵の突撃に、突破された。


 幸い敵の突撃は第二線塹壕で抑えることができたので、前線が崩壊するようなことは無かったが、塹壕内になだれ込んできた敵歩兵部隊を排除する必要があった。


 そして白兵戦が始まった。兵士達は悲鳴とも雄叫びともつかぬ声を上げ、ナイフで、スコップで、石で、敵兵と殺し合いを繰り広げる。


 もちろん、俺も例外ではない。俺は砲弾が降り注ぐ中、敵に占拠された第一線塹壕で、敵歩兵とスコップの殴り合いを繰り広げている。


 塹壕を掘ったスコップの刃は土に研磨され、肉を切り裂くほど鋭くなっていて、敵のスコップが俺の体をかすめるたびに、俺の着ているカーキの戦闘服は、皮膚ごと切り裂かれていく。


 俺は、体を傾けて心臓へと突き出されたスコップを避けると、自分のスコップを振り上げ、相手の首筋を狙い振り下ろした。


 俺のスコップが敵兵の肉に食い込むより早く、敵兵の姿が視界から消える。次の瞬間、俺の顎に頑丈な軍靴の鋭い蹴りが飛んできた。


 俺は首を捻って、脳への衝撃を最小限に抑える。意識が飛びかけたが、何とか持ちこたえた。


 姿勢を地面すれすれまで下げて俺の視界から脱し、その不安定な姿勢のまま上に向けて蹴りを放ったのか。


 なんて技だ。敵ながら思わず感嘆した。


 明らかに俺よりも相手の方が強いな。


 敵兵は、体つきが華奢だ。おそらく女性兵だろう。技の威力から見ても、単純な筋力では俺の方が勝っている。


 だが、体の扱いが上手ければ、筋力の差などほとんど問題にはならない。俺も技は磨いてきたつもりだが、やはり上には上がいるな。


 だからといって、絶対に勝てないほどの実力差ではない。100回やれば1回ぐらいは勝てるだろう。何より、相手は生身の人間だ。


 どれだけ強くても、同じ人間に殺せないわけがない。


 俺は、地面を蹴って間合いを取った。濁流のような激しい斬り合いが、刹那止まる。


「君、強いね。ボクが戦ったことがある人の中では、だけど」


 敵兵は、姿勢を起こしてスコップを地面に突き刺すと、不遜な口調でそう言った。


 いや違うな。実力に見合った口調と言った方が正しい。通常、実力者は謙虚であることが多いが。


 俺は、スコップを肩の辺りに構えた。口調も発言内容も気にする必要はない。俺が気にするべきことは、それが敵か味方かという情報だけだ。


 敵兵は、口元に薄ら笑いを浮かべる。


「でも、これで動けるかな?」

 

 敵兵の澄んだワインレッドの瞳が、輝いた。空色の髪と対比して、瞳の紅がさらに際立つ。


 綺麗な色合いだなと思うより早く、敵兵から凄まじい圧力を感じた。


 空気を押し潰し、相手の心を縮み上がらせる。動いたら死ぬと、肌で感じさせてくる。これが、プレッシャーって奴か。


 全身から汗が吹き出てくる。恐怖からか、手がしびれてきた。戦場では様々な敵兵と殺し合ってきたが、圧力を放てるほどの人間には会ったことがない。


 そういうのは、殺人ではなく、技を極めることを仕事にしている人が放つべきだ。


 敵兵は、動けずにいる俺を気に留めることなく、地面を蹴った。

 

 スコップの刃が、俺の首筋へと突き出される。


 圧力で、体が動けない。敵兵の動きがスローモーションに見える。ゆっくりと迫ってくる。一瞬にも満たない速度が、限りなく引き伸ばされていく。


 動け、動け、動いてくれ俺の体!俺が何とか敵兵の圧力から脱した時には、すでに敵のスコップが俺の喉元に突き付けられていた。


 残された時間は、あとゼロコンマ以下。だが、高度な格闘戦において、その時間は十分すぎるほどに長い。


 俺は首を捻り、致命傷を回避した。


 スコップの鋭い刃が首の皮一枚切り裂いて、じんわりとした痛みをもたらす。


 俺は、スコップを敵兵の腹部へと突き立てて、反撃した。


 敵兵は大きく反って、突き出された俺のスコップを回避する。スコップの鋭い刃は、敵兵の髪を少し切り裂いて、空色の髪が空を舞った。


 敵兵は地面を転がって立ち上がると、今度は、俺の腿へとスコップを切り付けた。


 腿には太い血管が通っている。切られたら致命傷は避けられない。


 俺は後ろに跳躍して、その打撃を回避する。次の瞬間、俺の腹部に鋭い拳が突き刺さった。痛みに、少しふらつく。


 その大きな隙を、圧力を放てるほどの人間が見逃すわけがない。俺が体勢を立て直すより早く、頭に衝撃が加えられた。


 ヘルメット越しにスコップで殴られたのか。


 頑丈な鋼鉄製ヘルメットのお陰で頭部への致命傷は避けられたが、それでも、かなりの痛みが走った。


 脳が揺さぶられ、意識が遠のく。足に力が入らない。俺はそのまま数歩ふらついて、泥だらけの塹壕の底に倒れた。


 殺されるな。


 俺はそう確信した。倒れたら、もはや抵抗などほとんどできない。上から頭をかち割るなり心臓を突き刺すなり、好きなようにできる。


 俺は目を閉じた。敵兵がスコップを振り上げていたが、流石に振り下ろされる瞬間を見るほどの度胸はない。


 まあ、もっと酷い死に方なら沢山ある。ここまで見事な格闘術で命を絶ってもらえるなら、それはそれでいいかもな。


 俺の耳元で、スコップが土に突き刺さる音が聞こえた。


 俺は、瞼を開く。


 敵兵の薄ら笑いと、俺の頭のすぐ横に突き刺さったスコップが、目に映った。


 状況を理解していない俺の脳が、自らの命が助かったことを理解するのには、少し時間がかかった。


「殺されると思った?」


 敵兵は、人の神経を逆なでするような声でそう言った。自身が馬鹿にされていることは分かったが、それは、俺が馬鹿にされるほど弱かったからだ。


 まあこの敵兵、ただの兵士にしては、格闘術を極めすぎている気もするが。


「ああ。思った」


 俺は投げやりにそう言い返した。


「いいんだよ、今から抵抗しても。ほら、ボク今丸腰だしさ。まあ無駄だけどね」


 敵兵は、土に突き刺さったスコップの取っ手から手を離した。


 自身から不利な立場をとるほど、自分の実力に自信があるのか。ここでチャンスを得たとばかりに反撃したら、俺の命は無い。


 俺は立ち上がらなかった。


「あれ?抵抗しなくていいの?」


「自殺はしない主義だ」

 俺は、そう返した。


「へえ。分かってんじゃん」

 敵兵の舐めた口調も、流石に気にならなくなってきた。こいつは、どうやら戦争という凄惨極まりない命のやり取りを、楽しんでいるようだ。


「で?俺をどうするんだ?殺すか?それともなぶり殺すか?」


 俺の言葉に敵兵は、考え込むように腕を組んだ。


「う〜ん。どうしようか。せっかくボク相手にまともに戦える人間に出会えたんだから、殺すのは勿体ないしな。君も、殺されたくはないでしょ?」


「あのな。人間には尊厳という物があるんだ。動物なら生き残れただけでラッキーってなるだろうが、人間はそうはならないんだよ」


 俺は、ため息をついてそう言った。ここで生き残っても、俺に待っているのは捕虜収容所での強制労働だ。この敵兵は、それを分かった上で言っている。


 それにしても、ずいぶんと間の抜けた、酸素をひたすら無駄にするような会話だ。それも、敵兵相手にするような会話じゃない。


「じゃあ死にたい?」


「いいや。


 俺は、腰に下げている塹壕ナイフを抜いて、敵兵へと強く投げた。


 不意打ちに、流石の敵兵も反応が遅れる。だが彼女は、その程度のナイフに命を絶たれるようなやわな兵士ではない。


 敵兵は、ギリギリでナイフを避ける。


 だがその代償として、一秒近くの大きな隙を作ることになった。


 俺は素早く立ち上がると、スコップを振り上げる。


 俺のスコップは、まだ体勢をたて直せていない敵兵のヘルメットを捉えた。敵兵のワインレッドの瞳が、驚いたように開く。


「どうだ?舐めてた奴に殺される気分は?」


「もしかして、不意を打ったと思ったの?弱いくせに」


 俺の目の前から、敵兵が消えた。俺がそれに対する有効な対処を思いつくより早く、敵兵の蹴りが、俺の顎をしっかりと捉える。今度は、衝撃を消せなかった。


 脳が揺さぶられる。何か思考を巡らせるよりもずっと早く、俺の意識は一瞬で叩き潰された。


 意識が消える最後に聞いたのは、敵歩兵の嘲笑わらう声だった。

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