別室登校の女の子に会いに行ったら、暗殺拳の伝承者だった
サクイチ
プロローグ
雨上がりの外廊下を渡って、プールの裏の武道場へ向かう。
このあたりは用務員さんたちの守備範囲外なのか、ずいぶん前に散ったはずの桜の花びらが、落ち葉や空き缶にまじって濡れている。
昼休みの校舎からは、誰かのリクエストしたボカロの曲と、吹部の合奏とが競い合うように聞こえていた。
「ねえ、その格好で俺とやる気?」
俺は先ほどから一言も発さずに前を歩く山下さんに尋ねた。
肩の上で切りそろえられた黒い髪。緩く着崩された制服から、匂い立つような色香が漏れている。スクールシャツに透けて見えるキャミソールの輪郭と、その肩紐に連なるブラ紐のピンク。親の仇のように折り返された短いスカートからは、すらっとしながらもほどよい弾力を主張する白い脚が伸びている。
別室では布製のスリッパを愛用しているためか、山下さんは素足にローファーを履いていた。
「中沢くんってば、私が何も言わないからってガン見しすぎ。もしかして、中沢くんの流派には瞳術とかあるんですかー?」
「さ、さすがにそんな技は使えないよ」
「だったらただの変態だね。ふう、安心安心」
「安心するな! それに俺は進行方向を向いてただけで」
「ふ~ん」
何か悪いことを思いついたような顔で、山下さんは上目遣いに俺を見つめた。
「な、なんだよ」
「べつに~。ちょっと熱くなってきちゃったなあーって思って」
山下さんはわざとらしく前かがみになると、襟元をパタパタと揺らして風を入れた。控えめながら綺麗に膨らんだ胸の谷間と、熟れた果実みたいな甘い匂いに脳がとろける。いっ、いかん……、見てはいけないとわかっているのに、目が、目が……、離せない!
「……中沢くんのエッチ」
「……っ!」
山下さんは左手で胸元を押さえると同時に、もう片方の手で俺にデコピンを食らわせた。
「ひ、卑怯だぞ、勝負の開始前に、そんな妖術を使うなんて」
「妖術って! 中沢くんが私のおっぱいに釘づけになってただけじゃん」
「……お、おっぱいって、山下さん、なんか昨日とキャラ違くない?」
昨日の放課後、別室ではじめて話したときの山下さんは、なんかもっとこう控えめというか、大人しいというか、引っ込み思案なタイプに思えたのだが……。
昨日までは美術部の美少年みたいに見えたショートカットも、今日はいかにも活発そうな、運動部の女子のそれに見える。体育祭でハチマキが映えそうな感じの。
「昨日ちょっと話しただけなのに、ずいぷん私のこと知ったような口ぶりじゃん?」
「たしかに、それもそうだね」
ごめん、と俺は素直に詫びた。
「あははは、そんなに素直に謝ることないのに!」
山下さんは口元に手を当てて大笑いした。
「や、山下さんが、急に気を悪くしたような反応するからだろ」
「中沢くんってば可愛いなあ」
「うっさい」
俺は山下さんを追い越して、武道場の鍵を開けた。
「あれ? 鍵がかかってるとは知らなかったな。ちょうど持ってたの?」
「いつも持ってるんだよ。こんなチビでも、一応は空手部の主将だから」
「お~、怖い怖い」
山下さんは不敵な笑みを浮かべて、開いた戸からなかへ入った。
当然だが、なかには俺たちのほかには誰もいない。山下さんは借りてきた猫のように、黙ったまま場内を眺めまわした。半分が板張りの剣道場、もう半分が畳の柔道場。軒先には、申しわけ程度の弓道場もある。校舎の西側に位置するため、昼間に来ると薄暗く、場内はどこか寂しい雰囲気だった。まるで俺と山下さんだけが、時の止まった世界に取り残されたみたいで。
「おーけー、罠はないようだね」
「罠を探してたの!?」
「畳のほうでやる?」
「その格好で?」
「中沢くんだって制服じゃん」
「それはそうだけど……」
俺は改めて山下さんの格好を眺めた。強く引けば裂けてしまいそうなスクールシャツと、中段蹴りでもモロ見え不可避な丈のプリーツスカート……。
「ダメダメ、絶対ダメ!」
「そんな薬物乱用のポスターみたいに」
「ダメ。ゼッタイ」
「どうして?」
「どうしてって……、いろいろ見えちゃうでしょうが」
「私はかまわないよ? 二人しかいないんだから、中沢くんがいやらしい目で見なければ済む話じゃん。それとも、中沢くんは同級生の下着に興奮する変態さんなんですか?」
「う、うるさい!」
俺は山下さんの背中を押して、壁際の女子更衣室に詰め込んだ。
「わわっ、何するの?」
「先輩たちが置いていった道着があるから、適当に選んで勝手に着て」
「むう~、そんなに乱暴にしなくても」
山下さんは恨めしそうに戸を閉めた。
「あのさ、もとはと言えば君が……」
ドア越しにぼやいていると、すぐに衣擦れの音が聞こえてきて、パサッ、とスカートが床に落ちる気配がした。
「君が、何?」
「……なんでもない」
俺は畳のほうへ行ってストレッチをはじめた。
「お待たせー」
「お、おう」
着替えを終えて出てきた山下さんに、俺は思わず目を奪われた。
勝手に道着姿を想像していたのだが――、実際の彼女は、合気道などに使われる武道用の袴を着ていた。先ほどまでとは打って変わって、きめ細かいやわ肌は、そのほとんどが布に覆われている。格好はぜんぜん違うのに、昨日、別室で話したときのような、清楚で儚げな印象だった。
「どうしたの? じっと見つめちゃって」
「えっ、あっ、わるい、てっきり道着を選ぶと思ったから。袴なんてよく見つけたね」
「私のとこも普段は袴だから。それにこの松本先輩? 私と体格がほぼ一緒みたい」
山下さんは腰元の刺繡を指さして言った。
「ああ、松本先輩」
「知ってる人?」
「会ったことはないけど、伝説ならいくつも聞いてる。うちの空手部は創設以来、もう何度も廃部になってるんだけど、松本先輩は、その何度目かの復活の立役者らしい。顧問曰く、美人なわりに、鉄砲玉みたいな人らしくて」
「松本先輩、どうか力をお貸しください!」
山下さんは急に手を合わせて、神棚に拝みはじめた。
「いや、べつに死んでないから! そもそもあれは仏壇じゃないし」
「冗談はさておき」
山下さんは美しい所作で立ちあがった。「はじめようか」
「お、おう」
俺も立ちあがって、畳の中央で山下さんと向き合う。
「ルールはさっきも言った通り、とりあえず全空連のルールを採用する。俺が勝ったら約束通り、教室に来て修学旅行のルート決めに参加してもらうよ」
「おっけー。私が負けたら、今、着けてる下着をあげればいいんだよね?」
「ちがーう!」
「あははは、冗談だってば。中沢くんも私が勝ったら、ちゃんと約束を果たしてよね」
「もちろん」と俺は言った。「ほかに質問は?」
「何か言い残すことはない?」
「余裕だね。ふざけてるならはじめるよ」
俺は体を開いて構えを取った。
ふふ、と笑って、山下さんも応えるように構えを取る。オーソドックスな左構え。気のせいか、うちの流派と瓜二つだ。互いに睨み合ったまま、数歩、円を描くように旋回する。隙のない動作だった。重心のぶれもない。
ガードを下げたり、わざと脇腹を開けたりして誘ってみるが……、彼女は一向に攻め込んでくる素振りを見せない。
くそ、女子相手には気が引けるが……。
ちょっと強引に攻めてみるか。
ほとんど無意識に覚悟を決めて、一気に差し込もうとしたその刹那――、山下さんはそれを察知したように間合いを詰めて、出かかった俺の膝を蹴り止めた。
「おわっ」
近間に不利な形で攻め入られ、咄嗟にガードを固めるが――、山下さんは腕の隙間を縫うようにして、長い指で俺の喉を突いた。
「うえぇぇっ」
自分の口から、声にならない声が出る。一応、加減はしてくれたみたいだが……、
「ル、ルール違反だぞ!」
「ごめんごめん、つい普段の癖で。いやー、習慣というのは恐ろしいですなあ」
山下さんはたいして悪びれる様子もなく言った。
い、今のは油断したが……、そっちがその気なら、もう容赦はしない。初見殺しでも、姑息なトリックでも、なんでも使って組み伏せてやる!
「あれ、中沢くん、ちょっと気配が変わったね。さしずめ当身を使って強引に組んで、力にものを言わせる気でしょう?」
俺は言葉を失った。
「もしかして図星だったかな? 人にはルールがなんだとか言っておいて、自分はずいぶんなご挨拶じゃん」
「どうしてわかった?」
「構えは口ほどにものを言うってね」
「ま、まさか本当に瞳術とか?」
「瞳術? ……ぷっ」
うはははは、と山下さんは声をあげて笑った。
「中沢くんってば面白いこと言うね。これはただの観察だよ。でも、せっかくだから見せてあげる。瞳術っていうのはね、こういうやつのことを言うんだよ?」
山下さんが爪を噛むような仕草で、ほんの小さく首をかしげる。ヤバそうな気配がプンプンするが、なぜか妙に惹かれてしまって目が離せない。鳶色の美しい瞳に吸い込まれて、そのまま彼女が、俺の魂を断ち切るみたいに目を眇めた瞬間、
「…………っ!」
俺は体の自由を失った。
ふいに目覚めた夜に金縛りにあったみたいに、全身が固まって言うことを聞かない。
「どう? 幻の秘技にかかった気分は?」
「…………」
「あらら、ごめんね。答えたくても無理だったか」
山下さんは冷たい微笑を浮かべて歩み寄ると、
「じゃあ私の勝ちってことで。約束、楽しみにしてるね」
俺の耳元で囁いた。コン、と手刀で頸部を打たれ、俺は畳に崩れ落ちた。長い正座を崩したときのように、全身にじわじわと血が巡るのを感じる。
「な、なんなんだあれ……」
畳に伏せたまま、両手のひらを握りしめる。情けないことに、勝負に負けた悔しさより、体の自由が戻ったことにホッとしていた。
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