隧道の青春
@philomorph
隧道の青春
隧道の青春
「第十六回沼津桜桃忌 平成十六年六月十三日 沼津市内浦、Y旅館」
新聞の片隅に見つけた。桜桃忌に参加したいとここ数年思いつつ果たせなかった。それに、テーマは「太宰治と田中英光」とあった。仲間を誘って、参加することにした。S先生に電話で申し込んだ。
「私、終戦の年から十数年間三津浜に暮らしました。田中英光を見かけたこともあります。」
「それはそれは。私は三津浜疎開時代の田中英光のことはわかりません。太宰治が英光の紹介で安田屋に来て、『斜陽』の一、二章を執筆しているのですが、太宰の姿は見かけませんでしたか?」
「いやぁ、わかりません。私は昭和二十年に東京から越してきてまもなくですから」
「ご長男のEさんが見えますので、あなたのわかる三津浜の話をしてあげてください」
私が知っている田中英光は『オリンポスの果実』を書いた作家であること。終戦前後、三津浜に疎開していたこと。大衆雑誌に短編小説を書き、フィクションと断ってあったが、あきらかに三津浜の人々がモデルで、私の父もちらっと出てくることぐらいで、顔も声も覚えがない。
具体的なことを知っている人はいないものかしらと考えた末、私の友人のお姉さんのN子先生は、浦地区で長年小学校の先生を続けられた。N子先生なら何かご存じかなと思いついた。
「ああ、E君、知ってる知ってる。弟のK君は、二学年下で、入学してきた時の顔も覚えているよ。十三日は行けなくて残念ね」
「誰か当時の田中英光一家と付き合いのあった人はいないかしらね?」
「Yさんならどうかしら。」
教わった電話番号を回すと、八十歳になられるというYさんは、張りのある声で、
「田中英光ね。そのころ私は青年団の文化部で、会報を作るとき意見を聞いたりしたね。十三日はN市の福祉協議会の総会があって、残念だが行けないな」
私も相当しつこかったが、ここであきらめていたら次の朗報はなかった。Yさんに紹介されたK先生に電話を入れた。
「何年前だったかな。絵描きのAさんと田中英光との交友録がN新聞に載り、切り抜いてあるんだが。」
Aさんは、三津のとなり、小海出身で、ご両親も先生、師範学校を出て内浦中学の先生を少ししてから、芸大を受け直し、フランス留学もされ、絵の道を邁進された。
Aさんに直接ぶつかるか、と考え、御親類の小海のG先生に尋ねてみた。翌日東京の連絡先を教えていただけた。
「土屋薫。わかります?」
「わかるよ。兄さん先生してたじゃ。実は田中英光から一枚絵を貰ってあるんだ。十三日は空いているよ」
Y旅館における「沼津桜桃忌」当日、私が声をかけた人も加えて、計四十数名の出席。前回までのことは知らないが、盛会であった。
テキストに加えて『疾走』というAさんの一文も綴じられていた。
十一時に、安田屋の前庭に建てられている『斜陽』の文学碑前で、碑前祭が行われた。太宰治の筆跡による一節が刻まれている。
海はかうしてお座敷に坐つてゐると、ちやうど私のお乳の先に水平線がさはるくらゐの高さに見えた。
「らうんじ」でぽつねんと坐っている熟年の男性に、もしやと思い、
「Eさんですか?」
と声をかけてみた。
「そうです」
浅黒い引き締まった顔の睫毛の長い奥深い瞳に出会った。
「私、昭和二十一、二年頃、安田屋の裏の方に疎開していたS家のM子さんと親しくしていました。あなたと同じ、昭和十三年生まれの弟さんがおられたから、遊ばれたのではないかしら。この写真の中にいる坊や、見覚えない?」
「東海バス三津駅」と右から横書きされた表示板を背に、S家の姉弟と、私の兄妹達の写っている写真を見せた。
「東海バスの駅、どこにあったのかなぁ?」
「すぐそこよ。今はタクシーの駐車場になっているわ。その横を上ると私の住んでいた家なのよ」
小学三年の二学期に東京に帰ったというEさんには断片的な記憶しかないのだろう。ただし、N君という上級生と野球をして遊んだ思い出がある、とのことだった。N君は、私の弟と中学時代に野球部でバッテリーを組んでいた。と、いうことは、Eさんは弟と遊んだこともあったかもしれない。
私の住んでいたところは、あっけらかんと一本の樹木もなくなり、コンクリートで固められ六階建てのホテルに様変わりしていた。
午後一時からY旅館の一室で、文学講座がが始まった。頬杖をついた太宰の写真が飾られていた。太宰を敬愛した田中英光の作品、人となりが話された。
次にEさんが立って三津時代の父との思い出を語られた。
弟のKさんは作家となっていると、三冊の著書を手に持ち示された。『オリンポスの黄昏』という本の帯に「父への抵抗……和解」と書かれていた。
「次に当時三津浜に住んでいた土屋さんから」
と、紹介され、私は皆さんの前に立った。
覚悟を決めて通信教育で書いた「青春の頃」の三津浜での様子を記した箇所を読み上げた。田中家一家と同じ時期、同じ浜風に当たっていたことだろうと思われたからだった。
三月十日と五月の大空襲で父は家族疎開を考え、持ち家を売却してしまった。ところが、都民が次々流出するのは困る、と言うことであろうか、〈老人のみ、それに付き添う者一名〉と疎開の条件が改められたので、仕方なく私たちは、家族を疎開させ、ご主人だけ暮らしておられた隣家に移り住んだ。
ところが、借りていた家のご家族が疎開地から戻られるというので、とりあえず私たち家族は親類の伊豆三津浜の別荘に移ることにした。
先発隊として兄と私は三島から伊豆長岡に、駿豆バスで伊豆長岡温泉まで、そこからは田舎道を歩いた。峠の隧道を抜けると奥駿河湾の眺望が展けた。
三津の別荘は小高い丘の椎や椿の木立の中に階段状に建てられていた。座敷から島と岬の間に裾を引く雪嶺の富士山が望めた。折しも金波銀波の夕波は、この世のものとも思えぬ美しさであった。突堤に魚を釣る人の姿がシルエットとなっていくまで、兄と私は立ちつくしていた。昨日までの東京の暮らしが嘘のようであった。
兄は浜松高専(現静岡大学)に、私は県立大仁高女に、弟は内浦小に転入しました。父は、廃墟の神田昭和通りにバラック建ての工業薬品を扱う商会を設立した。戦後の復興期で父の仕事も順調な滑り出しであった。
東海バスで大仁の女学校まで通ったが、戦後まもなくの木炭バスは馬力が足りず、三津坂に差しかかると乗客は降ろされ、そして私たちは急坂のけもの道を息を弾ませて歩き隧道の向こうで待っているバスに、また乗り込むという具合であった。そんな時あご髭を伸ばし長い杖をついた仙人のような老人に時々出会った。
「右左と前へ前へ足を運べばいつか目的地に着く。乗り物など当てにするな」
その老人がバスのこぼした木炭をすかさず拾っているのを走り出すバスの窓から見て私たちは笑ったが、今の私も「もったいながりや」なので若い人に笑われているかもしれない。
バスには魚や蜜柑を修善寺、大仁方面に売りに行く小母さん達も乗っていた。
「ちょっくり詰めとくんな」「この荷物棚にけけてくんな」「窓閉めにゃあと吹っとらうじゃ」「しょっ引き出してくれ」
などの伊豆の方言が行き交った。
バスの後部には男子生徒、女子生徒は前の方に、バスが揺れると、わざと男子生徒が前に押し倒すので、きゃあきゃあ大騒ぎになったりした。
伊豆の内浦・西浦は漁業と農業(蜜柑作り)の村であった。二年間は土地の同級生とは馴染めず、やはり東京から疎開してきた二人の友人、Y佳世子さんとS都さんと親しくなった。
佳世子さんの親は神田に塗料の卸店を再開するため先に東京に戻られ、彼女は親類の離家に残されていた。
彼女は朝登校前に住まいの階段と廊下の拭き掃除をした。だから、蔵のような古めかしい家は、ピカピカ光っていた。家主の御親類の役に立つように、親から教えられていたのだろう。
江戸の三大祭りのひとつ、神田祭が戦後の景気を取り戻そうと催されるというので、彼女と上京した。夜に神田駅に降り立ったら、お巡りさんに呼び止められた。夜遊びの不良少女と間違えられたのかもしれない。これこれこうで伊豆から親元へと説明をすると、
「気を付けて行きなさい」
と、優しく言われた。
祭りの提灯や法被姿は久しぶりの明るい光景であった。仮設舞台で正楽師匠の紙切りも見た。
佳世子さんのお店の小僧さんが、グリーンピースを聞き間違って大笑いしたこともあった。
「奥さん、ワンピースの配給ですって」
私の父の会社も神田紺屋町にあり、春、夏休みは父の会社を足場に外国映画を観たり(チャップリンの「ライムライト」は、とても混んでいて立って観た。最後のシーンは大笑いしながらそれでいて頬を伝う涙が止まらず、今でもあのテーマ曲が流れると懐かしく思い出される)、神保町や日本橋の方まで足を伸ばした。露店で外国人が片言で釘を買うのや、リヤカーで食用蛙を商う人など、すべて興味深く、私の好奇心を湧き立たせた。
父の会社は復員兵の若者を何人か雇い、汽車のような作りつけの二段ベッドに休ませ、茨城から来る担ぎ屋さんから闇米を買い、小母さんに炊事をさせ、たらふく食べさせていた。父が金庫から新しい札束を取り出して数えているのを見て、大金持ちだわ、と思ったものだ(回転資金だったのだろうが)。
三津浜へは国鉄沼津駅から来る方法もあった。東海バスが静浦、江浦、内浦、西浦、そして大瀬岬まで走っていた。この長汀曲浦の道を一時間も揺られると、乗り物に弱い私はふらふらになったが、父はよく沼津からのコースで帰ってきた。
土、日曜日に三津浜に帰ってくる父は家族に缶詰、チーズ、私にはナイロンの靴下などを持ってきた。父は英会話が出来たので、進駐軍から手に入れたのだろう。
「電車の中で炒り豆を食べていたら、アメリカ兵が『ウワッツ、アーユーイーティング?』と訊いたから、『ジャパニーズ・チューインガム』と答えたよ」
と、上機嫌で話したりした。
「息子や娘の教育期に伊豆住まいでは不便だから、東京に帰りましょう」
と母が父に頼んでも、父は、
「日本は一応平和になったが、いつまた戦になるかもしれないよ。ここは静かでいい。東京から来るとほっとする」
と言って、潮風の吹き抜ける座敷でくつろいでいた。朝鮮半島がきな臭くなってきた頃であった。
いつの頃か定かでないが、イギリスの軍艦が内浦沖に停泊し、水兵が上陸してきたことがあった。浜通りで父は水兵達と英語で会話を交わした。
当時、兄は浜松高専におり、自啓寮の寮長をしていて父はその寮に柱時計を寄贈した。そんなことでも、兄は巡り合わせがよく、私はその反対であった。
兄は浜松高専を卒業した後、最後の旧制大学を目指し、暫く内浦中学の理科の先生を勤めた。
母は三津浜の家を守り、姑仕えをした。私の祖母は安政四年生まれで、食堂の椅子に座るのをいやがり、自分の部屋で箱膳を使っていた。
高台の家はモーターでタンクに水を汲み上げるのだが、モーターが焼け付き、下からバケツで水を運び上げると言うことがしばしばであった。落ち葉掃きも半日はかかると言うことで、言うならば母は別荘番であった。
事実、別荘であるから、親類の人が見えると母は食事を作りお世話をした。
別荘の持ち主、S重康(妻が私の父と従姉弟、元陸軍中将、責任を取ったのか?、ノモンハン事変後退役、当時は自動車統制会会長)は、この別荘に来ると普段着としてカーキ色の軍服に着替え、靴下に電球を入れて繕ったりしていた。私が教師となって、漢字の「上」の筆順を「縦横横」と間違って教えて、熱心な父兄に指摘され落ちこんでいた時、「行書でならそれで正しいんだよ」と慰めてくださった。
私と又従兄妹のY正敏(当時文理大生、後地球物理学者、風の研究の第一人者。現筑波大学名誉教授)は、この時期、ここを拠点として西浦の地形と気象のフィールドワークをしていた。
こんなことがあった。大仁の女学校に転入してまもなくローマ字のテストがあった。当時の私はローマ字と英語の区別もわからず、ABCの3文字しか知らなかった。ちょうど別荘に来ていたY正敏に一夜漬けで特訓を受けた。
佳世子さんが東京に帰ってからは、都さんと無二の親友となった。夏休みは終日浜辺で過ごした。風呂の木蓋を浮き代わりにしたり、あるいは係留してある観光船の底を息を詰めて潜水したりした。
後の話になるが、内浦小学校に勤務した時(二十代後半)、淡島まで千五百メートルの遠泳に児童と一緒に参加し、「女教師も一名参加」と新聞の地方版に載ったことがあった。
その都さんも昭和二十二年、東京に帰ってしまわれた。東京におられたお父さんお兄さんの家事手伝いのためで、東京は食糧事情も悪いからと弟さん妹さん達はお母さんと三津にしばらく残られたとのことである。
毎日楽しく都さんと過ごしていたので、胸にぽっかり穴が空いたように淋しかった。
そのうちに三津の西隣、長浜部落のO治代さんと通学バスの中で親しくなり、お互いに家を訪ね合うようになった。彼女も静岡で空襲に遭われ、転校生であったので、土地の人たちとは馴染めなかったようである。お父さんは静岡の女学校で国語の先生、内浦に来られて中学の先生、後に村長さんにもなられた。治代さんは末っ子。お姉さんのN子さんは内浦、西浦の小学校の先生を続けられた。
治代さんは背が高く、色白、丸顔の美人であった。彼女とうちの座敷の籐椅子で向き合っている姿や、浜辺での写真が私のアルバムに残っている。カメラが趣味の兄が撮ったものである。
夏休みに、兄の東京豊多摩中時代の友人O一成さん(海軍兵学校、当時横浜国大生)が台風の雨の中、海水パンツ一丁で走って三津の家に来られたことがあった。後に一成さんから兄に来た便りに「MISS HARUYOはどうしていますか」と書かれてあった。夏の終わり、私たちに一成さんが本をくれた。治代さんには「フォスター名曲集」、私には「楽典の基礎」であった。美人の治代さんへが主で私へは従であった。
私が高校二年の時、祖母は一週間眠り続けた後、おだやかな九十二歳の天寿を全うした。
ある時、大仁高校の校門の上り坂で、
若く明るい歌声に
雪崩も消える花も咲く
の歌で知られる石坂洋次郎の『青い山脈』の映画のロケが行われた。演ずるのは杉葉子と池部良。テニスのラケットを持って転がるテニスボールを追って、ヒマラヤ杉の間を池部良が降りて来て、ボールを拾った杉葉子にばったり出会うという場面であったように思う。田舎の女学生にはまぶしいようなシーンであった。撮影中、私たちは遠巻きにして見守った。始業合図が聞こえても、身動き出来ず、やっと授業に戻ったら、物理のS先生が教壇で笑いながら待っていてくださって、私は罪人のように、頭を低くして席に着いた。
私の好きな課目は美術であった。女学校から高等学校を通して美術を選択し、クラブ活動も美術部で、デッサンや油絵に熱中した。父もカルトンやキャンバスを東京から抱えて持ち帰って来てくれた。
土曜日は朝から美術室で過ごした。澄んだ空、校庭の櫟のみどり、小鳥の囀りを聞いて、このまま死んでもよいとしあわせ感一杯であった。
私の住む三津浜の別荘は、明治の画壇に活躍し、黒田清輝らとフランス留学、後上野美術学校教授となった久米圭一郎が建てたものであった。
O鎮雄先生に美術部の生徒達が連れられて上京したことがあった。上野の美術館で、
「ほら、おまえの家を建てた久米圭一郎の絵だよ」
柔らかいタッチの風景画であった。博物館は北京の紫禁城を模したものであることもその時先生から教わった。
Wひさ子さんは、美術好きの友人であった。お父さんは戦死、レイテ湾で上陸前に船が沈められ、遺体が揚がらず、遺骨と言っても石ころが入った箱が届けられたそうだ。お母さんが伊豆長岡小前で文房具店をなさって彼女以下三人の姉妹を育てられていた。
でもそのお母さんも亡くなられ、彼女は高二の時中退した。ある時、下り電車より降りてきた大風呂敷を背中に背負った彼女に出会ったことがあった。文房具の仕入れをして来たらしかった。私たちは彼女をまともにみることが出来なかった。親の脛を齧ってのうのうとしている私はしあわせなんだと思った。でも、彼女は中退するとき、O先生より、先生の使われた絵の具箱一式を頂いたと後に私に話した。そんな彼女は初志貫徹、絵を描き続け、ご主人の協力もあって今は舞妓を描いて日展、示現会入選を幾度も果たしている。
ひさ子さんが中退するよりは前のこと、こんなことがあった。美術教室でその日も私はひさ子さんと放課後、絵を描いていたのだろう。O先生が、
「今日、大仁ホテルで梅原龍三郎と武者小路実篤が対談される。美術関係の郡下の先生方が聴講するから、君たちも来てもよいよ」
と誘ってくださった。
大広間の前方に龍三郎、実篤が向き合い、龍三郎の色紙(裸の女性が桜か梅の一枝をかついでいた)を見せながら、絵の背景について話していたのを覚えている。私とひさ子さんは二人、末席にセーラー服でちょこんと座っていた。
会が終わった時は、夕方になっていた。三津浜行き直通の東海バスは終わっており、電車で伊豆長岡まで出て温泉場行きのバス、あとは、徒歩で三津坂の隧道を抜けて帰るしか方法はなかった。
O先生から、「A君も三津の方だから一緒に帰りなさい」と言われた。
ちょうどAさんが、芸大の受験に備えてO先生の元で、石膏デッサンの勉強に来ておられたのだ。
それまで準備室で黙々と描いておられる姿は見ていたが別に親しく話をしていたわけではない。何しろ私は十六歳、当時の女学生は、男の人と並んで歩くなど考えられなかった。そんなところを他人に見られたら何を言われるかわからない、道徳的に許されないと思っていた。でも夜道を一人で歩く勇気もない。さらに言うならAさんに申し訳ないが、髪をバサつかせて、服装はどうだったか忘れたが、異次元の世界から来たような不可思議な雰囲気の人だった。
大仁駅前で、「ちょっと」と言ってAさんは赤ちょうちんの店に入ってしまった。私は駅前の公衆電話に飛び込んで家に遅くなった訳を説明し、
「これから伊豆長岡温泉から夜道を歩いて帰らなくてはならないから、一刻も早く迎えに来てほしい」
と、頼んだ(母が出たように思う)。
そしてAさんと電車、バスを乗り継ぎ、温泉場から歩き出した。もちろん数歩遅れて歩いた。初めのうちは温泉宿や商店の灯りが賑やかであったが、道が大きく分かれ三津方面に進む頃には農村地帯で家もまばらで暗かった。右手の山懐に戸沢という部落の灯りがちらちら見えた(太宰治の「斜陽」の描写は伊豆長岡からバスで十五分ほど行って山の方に向かって登っていくと小さい集落があり、そのはずれに山荘があると描かれているが、ちょうど戸沢あたりと言うことになるのではないか。そして小説ではその山荘からは海が見えるとなっている)。
そして人家はほとんどなく、暗い道が続き、私はひたすら家人の迎えはもう来てもよさそうだと前方を伺いながら歩いた。三津の隧道の中をAさんと歩くのはどうしても避けたかった。
都さんが話していたことを思い出した。都さんのお父さんは家族を疎開させ、東京に残られていた。時折、三津浜へ来られたのであろう。この隧道に向かう時、蛍を集めてハンカチに入れ、懐中電灯代わりにされたと言うことだ。
そのとき前方に人影が見え、兄が近づいてきた。Aさんが兄と言葉を交わした。二人がしゃべりながら歩くすぐ後を私はホッとしながら歩いた。三人の足音がやけに響く暗い隧道を難なく抜け、三津坂を下っていくと、漁り火が見えてきて三津部落の家々の明かりが拡がっていった。
高校二年の時、担任のT先生から進学希望の用紙が渡された。美術部でやはり絵画に熱心であったひさ子さんと共に迷わず「美術学校」と書いた。ところがT先生に職員室に呼ばれ言われた。
「よい奥さんになる方が幸せだよ」
父からも、「水だけ飲んで生きるつもりか。薬学部を受けるなら進学してもよろしい」と言われ、それから私は本気で、化学の単位も取った。
しかし、私の高校卒業頃、父は持病が悪化し仕事も下火となり、私は進学を諦めざるを得なかった。
母のたっての願いで採用試験を受けて小学校の先生になった。最初の勤務は、西浦小学校江梨分校(複式学級)であった。『二十四の瞳』の大石先生のような気分で純真な子供達との初々しい出発であった。——
ふと目を上げると、後ろの席にAさんとK先生の姿が見えたので、
「当時を私よりよく知っている方が見えていますので、私はこの辺で……」
と、席に着いた。
Aさんが紙袋を持って人をかき分け前に来られた。E一郎さんの前にかがんで紙袋より額入りの少年の肖像画を取り出し、
「これは貴方の顔ですね」
E一郎さんは首を傾けて怪訝な表情をされた(N子先生はK二君は丸顔だから、この面長の少年はE一郎君だと後に証言)。
「貴方のお父さんが描かれたものを私が戴いてありました。これは貴方が持つべき人だからお返しいたします」
S先生が「え!?」と、覗き込まれた。
状況を把握したS先生が、額を持ち上げ、会場のみんなに示された。
「田中英光より一枚絵を貰ってある」とAさんより聞いていたが、英光が我が子を描いた絵とは、知らなかったので私もびっくりした。会場にも静かな感動が拡がっていった。
『疾走』によると
—戦中から戦後にかけて数年間、作家、田中英光が私の郷里の伊豆・三津浜に疎開していた。私もそのころ田舎の教師をしながら戦後の鬱屈した日々を過ごしていた。最初の出会いは記憶にないが、時々訪ね安酒に酔うこともあった。(中略)師太宰治の影響か油絵を時に描いていたようで、小さな息子さんの肖像をサムホールに描いたものを見せて頂いた。私の絵を「もっと大胆にフォーヴィックに描きなさい」と批評しながらご自身は優しい稚拙な絵を描いておられる。上手ではないがいい絵だ。お世辞ではなく本心でほめたところ、「あなたに進呈しましょう」と、私は有り難く頂戴。後年知人に所望されたことがあったが、青春のかたみとして大事に保存している。(中略) 田中英光、太宰の墓前で自殺。しかもその時刻はちょうど私が新宿を訪ねたころであった。名状しがたい感慨におそわれた。
そのころ、ようやく芸術らしきものの存在に気づき、絵画とは限らず全力で疾走するものにあこがれた。
本屋の多量の文庫本の中の一冊「オリンポスの果実」をみると体の中を青春がよぎっていく。—
講座が終わっても読書会の四人の仲間は何となく立ち去りがたく、
「お茶でも飲みましょう」
と、「らうんじ」に残った。向こうの卓に、講師のS先生、E一郎さん、安田屋の女将さん、K先生、Aさんが坐っていた。Aさんは三人に恵贈するためにご自分の画集に達筆な墨書で署名されていた。
読書会のリーダーのMさんは八十八歳だが老女などとは言えない何事にも前向きの人である。油絵も嗜んでいる。
「私も画集譲っていただこうかしら。土屋さん、頼んでくださる?」
私は立ち上がってAさんの卓に近づき、声をかけた。
「ああ、いいですよ。K君、うちへ行って画集を取って来てくれる?階段の下にあるから」
その時、Mさんが、
「何故Aさんをご存じなの?」
という、冒頭の会話となったわけだ。
Aさんは、私が高校を出た頃は芸大生で、絵の好きな私は、二度ほど小海のお宅を訪ね、『ゴッホより弟テオへの書簡集』を借りたり、絵を見てもらったりした。その時、「教科書的図画だね」といわれた。これは五十年も前のことである。年金を頂くようになった六年前から長年の夢であった絵筆を再び持っているが、今もそれから抜けない絵を描いている私である。
その頃のAさんは、縄をベルト代わりにしたり、柿の木に登って実をもいでくれたり、天衣無縫な人だった。それが今日はシルバーグレーの髪に黒縁眼鏡、グレーのズボン、スマートで気さくな国際人になられていた(この十日後にも渡仏の予定と聞いた)。
一週間後、E一郎さんより安田屋玄関前の記念写真に添えて「いろいろ教えていただきありがとうございました」と礼状が届いた。
後日、久しぶりに三津坂の隧道を歩いて抜けてみたいと思った。長岡駅から三津シーパラダイス行きの伊豆箱根バスに乗り、一番前の一人がけの席を占めた。運転手さんに声をかけた。
「隧道の手前の停留所はどこですか?」
「三津坂だよ」
「隧道の中を歩いてみたいんだけど」
「やめた方がいいよ。昔の造りだから狭いので、車が来たら危ないよ。体中光るものを付けてりゃいいけどね」
「バスの通る方は新しいでしょ、もっと古い方を通りたいのよ」
「なおだめだね、獣道になってるよ(のちに三津のお寺さんにこの話をしたら、「長靴を履かないと水浸しだよ」また、N子先生は、「昔、生徒を連れて通ったとき、中が暗いから棒を持って壁を確かめながら歩いたことがある」と言われていた)」
やっぱり無理か、杖が欲しいこの頃だし、下り坂は膝が笑ってしまうだろう、と考えているうちに、バスは緑の射す隧道口に向かっていた。大曲りを下ると、青葉潮の海が見えてきた。長岡駅から二十分足らずで内浦の学校前に着いてしまった。
長い人生には大なり小なり起伏がある。それを乗り越え前へ前へ進んで行けば、隧道を抜けたその先に忽然と青い海が展けるように、あの日あの時が輝いてくる。
平成十六年九月二日 第六稿 土屋 薫
隧道の青春 @philomorph
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。隧道の青春の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます