カフェ・ノワール

@philomorph

序章 姫野百合華

-カフェ・ノワール


ぼくは明日また、きみに会おう

百万年のちにもきみに会おう


序章 姫野百合華


 僕の名は結城信夫。慧傳(えでん)学園高校一年生だ。「信夫」は「ノブオ」ではなく「シノブ」と読む。「折口信夫」と同じだ。


 四月の第二週の月曜日の放課後、僕はその日も美術室から借り出したパイプ椅子に座って、テニスコートのフェンス越しにテニス部の女子の練習をスケッチしていた。


 正確に言うと、主将で生徒会長の姫野百合華を、だ。


 彼女の練習を見物しているのは僕だけじゃなくて、男子生徒のみならず女子生徒まで含めて十数人はいたから(テニス部に入部しようと思っている生徒もいただろうけど、姫野さんのファンとおぼしき上級生の生徒の方が多かった)、ちゃんとスケッチという目的があって(大部分は方便だけど)、美術部とテニス部の顧問の先生に断ってある僕の行為は至って公明正大なものと言えた。


 スケッチの対象が生徒会長で女子テニス部主将の姫野百合華個人であることを除けば、だが。


 僕は、肉眼でスケッチするだけでなく、デジタル一眼レフに望遠ズームレンズを着けて、写真にも収めていた。


 その被写体ももっぱら姫野百合華であったが、あまりに露骨に目立ちそうなので、他の女子部員も適当に撮っておいた。どうせ帰宅してからパソコンに転送して整理するつもりだった。


 ギャラリーの中にもさすがに僕ほど露骨なパパラッチは見あたらなかった。なにしろ僕には、顧問公認という大義名分があった。


 やがて五時のチャイムが鳴り、顧問の北本先生が、

「今日はこれまでにしましょう」

と、声をかけた。


 姫野さんが、

「みんな、お疲れさま」

 と言って、部員たちに軽く頭を下げると、


「お疲れさまでしたー」

 と、部員全員が揃って答えた。


 姫野さんは踵を返すと、タオルを手に取って顔の汗を拭い、他の部員たちと談笑しながら、更衣室に消えていった。


 すると、ギャラリーの生徒もぞろぞろとフェンス際から散っていった。


 僕は、しばらくパイプ椅子に座ったまま、今日までに描いたスケッチを見返していた。そこに描いてあるのは、姫野さんのテニスウェア姿だけで、他のテニス部員の姿は一枚も描いていない。


 姫野さんを描きたいためだけに、僕は先週からこのコートに通っていたからだ。


 (やっぱり動くものを描くのは難しいな、写真の方がてっとりばやいんだけど、雰囲気を捉えるには実際にスケッチしないと…)


…などと思い返していた刹那、

「なにしてるのかしら?」


 真後ろからよく通る女性の声が響いたかと思うと、両肩を手で掴まれていた。  


 僕は心臓を掴まれたように驚いて後ろを振り返ると、僕の肩越しに身を乗り出して、スケッチブックをまじまじと覗き込んでいる女性と間近に顔を合わせてしまった。


 鼻先に長い亜麻色の髪の毛が触れそうになり、シャンプーの香りが鼻孔に拡がった。亜麻色の髪…それは!


 僕は肩を掴まれた上体を大きく捻って、ようやく僕の後に立って僕にもたれ

かかってきている女性の顔を確認して、今度は心臓が止まりそうなほど驚いてしまった!


「あら、この絵、ひょっとして私かしら?」

 僕の膝に開かれたスケッチブックを見て、無邪気な声をあげたのは、姫野百合華その人だったんだ!


「あ、こ、これは、その…」

 僕はあわててスケッチブックを閉じて言い訳しようとしたが、言葉にならなかった。


「キミ、美術部の一年生でしょ?北本先生から聞いてるわ。うちの練習をスケッチさせてくれって頼まれたって。そういえば私は先週の火曜は生徒会のクラス委員会に出てたけれど、たしか君もいたわね。元気のいい女の子と一緒に。君、一年のクラス委員?」


「え、ええ…はい、一年A組のクラス委員、結城シノブです(元気のいい女の子…黒輝のことだな)」


 ちなみに北本雪子先生は女子テニス部の顧問で、二十七歳独身、グラマーで結構美人だって言う評判だ。


 わりと気さくな先生で、僕が挨拶に行ったら、

「あたしも描いてくれるのかしら?」

 なんてどこまで本気か冗談かわからない台詞を言って、僕がスケッチするのを許可してくれた。


「キミ、テニスが好きなの?わざわざ練習をスケッチするなんて」

 姫野さんは僕の肩に掴まって、上体を乗り出し、大きな鳶色の瞳をまっすぐに僕に向けて問いかけた。


「ええ、まあ、どっちかっていうと自分でやるより見る方が、ですけど…」

 僕はしどろもどろになりそうになりながら、どうにか答えた。


 姫野百合華さんは生徒会長だけあって、真面目な表情になるとそれだけで言葉に圧力みたいなものを感じるんだ。


「あはは、それでテニス部をスケッチ?」

 姫野さんは柔らかい声で笑うと、やっと僕の肩から手を離して上体を起こした。


 僕はようやく圧迫感から解放され、大きく息をついてから椅子から立ち上がり、姫野さんと向き合った。


 姫野さんはいつの間にか制服に着替えている。シャワーを浴びたのだろう、シャンプーとボディソープの香りが長い髪と襟元からただよってくる。


 まだ僕たちの距離は椅子を挟んで五十センチほどしかなかった。


「ねぇ、そのスケッチ見せてくれないかしら…?」

 彼女は今度は椅子の背もたれに両手を突いて、僕の顔をじっと見つめた。


「そ、それはかまいませんけど…」

 僕はこちらにちらちらと視線を送りながら下校して行く生徒たちを気にしていた。


 同級生にでも見られようものなら、来週何を言われるかわからない。姫野百合華は学園のマドンナで、声をかけられるだけでも羨望の対象になるんだ。


「あの、ここじゃ人も通るし、もう下校時間ですから…」

 僕は下手な言い訳をした。


「それもそうね…君、電車通学?」

 姫野さんは口元に指を当てて、ちょっと考えてから僕に尋ねた。


「え、ええ、下り電車で二駅のとこですけど…」

 質問の意味が分からないままに僕は答えた。


「じゃあ、駅前の喫茶店にでも寄って行きましょうよ。そこで見せてくれない?それならいいかしら?」


 ええっ!姫野百合華と初対面でいきなり一緒に喫茶店へ!?僕はまたしても心臓が飛び出しそうになった。


「じゃ、じゃあ、椅子を美術室に返してこないと…」

 僕は夢うつつのままパイプ椅子を畳んで、美術室に持って行こうとした。 


「まあ、また来週もスケッチはするんでしょ?なら、そんなの更衣室に置いときなさいよ」

 姫野さんは予想以上に強い力で僕の手からパイプ椅子を取り上げると、女子テニス部の更衣室の中にしまい込んでしまった。


 入れ替わりに、北本先生がトレーナーからスーツとタイトスカートに着替えて出てきた。


「あら、結城クン、今週の成果はどうだったかしら?」

「ええ、まあまあ、です」

 僕は適当に答えておいた。

 

 北本先生が出て行った後、ほんの一拍子遅れて姫野さんが出てきた。左手に鞄とラケットを抱えて、部室に鍵をかけた。


「確かに生徒会長が一年生と並んで帰っちゃ、人目に付くかもね。ね、君、先に歩いててくれるかしら?駅までには追い着くわ。駅前でわかるように合図をするから」

 姫野さんは僕に言った。


 僕は駅に向かって、時々後ろを振り返って、姫野さんが着いて来ていることを確認しながら歩いた。姫野さんはクラスメイトか誰か知り合いと親しげに話したりして、ゆっくりと歩いている。僕の方を見ようともしない。


 本当にさっき自分で言ったように喫茶店にでもつき合ってくれるのだろうか、下級生をからかっただけじゃないのかな?、と、不安に思い始めた頃、僕は駅前商店街に入ってしまった。駅までもうすぐだ。


 その時、ふいに制服の袖を後ろに引かれた。思わず紗織の仕業かと思い(その場合はもう何をしようと手遅れなんだけど)反射的に両手を前に組んでいた。


「シノブ君、こっちよ」


 ついさっき聞いたばかりの声が僕を右に促した。

 言うまでもなく、姫野百合華さんだった。


 いつの間に追い着いたんだろう?僕がテニスコート脇でスケッチを見直していた時にも、気が付かないうちにシャワーを浴びて着替えて、僕の後ろに立っていた。


 まるで妖精の仕業のようだ。


 彼女がその時、僕のファーストネームを呼んだことに気付いたのもしばらく後になってからだった。


 姫野さんは、オフィス街の裏の狭い路地に僕の手を取って引っ張っていった。


 その時、僕は自分が無重力状態に置かれているような不確かな気分に陥った。姫野さんの手にすがるだけが僕にできる唯一のことだった……


 ……気が付くと、そこは僕も一度も来た覚えがない場所だった。確かにこんなところは、さすがにうちの生徒も滅多に姿を見せることはあるまい。


「ここでいいかしら?」

 姫野さんは、オフィスビルの建ち並ぶ一角の小さなビルの二階のテナントにある、喫茶店の入り口で僕を振り返って言った。駅前からはずいぶん離れた場所だ。


「僕は、姫野さんと一緒なら、どこだっていいです」

 僕は即座に答えて、その店への階段を駆け上がった。お世辞でなく、本気でそう思ったんだ。


「ここのコーヒー、おいしいのよ。こんなところにあるから、お客は会社員が多いけど…」

 姫野さんは先に立ってその店のドアを開いた。


 看板には"Cafe Noir"と店の名前が書かれていた。


「なんて読むんですか?『カフェ・ノイア』?」

 僕は姫野さんに聞いてみた。


「『カフェ・ノワール』。フランス語でカフェは喫茶店、ノワールは黒だから『黒の喫茶店』てことになるけど、カフェはコーヒーって意味もあるから、その場合は『ブラックコーヒー』って意味にもなるのよ」

 姫野さんは答えた。


「このあたりは何度も通った覚えがありますけど、こんなところにこんなお洒落な喫茶店があるなんて知りませんでした」


「ギルドの結界の中にあるからよ。普通の人は入れないわ」

 姫野さんはさりげない口調で言った。


 しかし、僕には姫野さんが口にした言葉が心に妙に引っかかった。

(『ギルドの結界』…『ギルド』『結界』って何のことだろう?)


 そうこうするうちに、姫野さんはドアを開けて店に入って行った。あわてて僕も後ろに続いた。分厚い樫の木造りと思しきドアは手動だった。


 予想通り、店はあまり広くはなかった。カウンターの他には四人がけのボックス席が四つあるだけだ。


 カウンターの中には口ひげと目尻のしわが目立つ小柄なマスターと、二十歳前後に見える、長身でポニーテールのファニーフェイスなウェイトレスさんが一人いるだけだった。


 カウンターを通り過ぎるとき、姫野さんは、マスターとウェイトレスさんに軽くお辞儀をして挨拶した。


「こんにちは、マスター、こんにちは、麻帆さん」

「百合華君、いらっしゃい」

「あら、百合華、いらっしゃい」

 マスターとウェイトレスさんは同時に答えた。

 

 姫野さんはどうやらこの二人と顔馴染みらしかった。たぶん常連客なんだろう。「マホさん」って名前の書き方も後から教えてもらったものだ。


 ところで、僕はその時、カウンターの奥に飾られた壺というか水差しというか、ともかくそれに目を止めた。それは濃紺地に白いレリーフのような模様が刻まれていて、妙に印象に残った。


 カウンターの横にはアンプと分厚い御影石に支えられたアナログプレーヤーが置かれ、その横に数百枚アナログレコードが並べられていた。ジャンルはわからなかった。ジャズ?それともクラシック?


 僕たちがあまり広くはない店内に入ると、僕は姫野さんに導かれて、一番奥の席に姫野さんと向かい合って座った。店の奥には、タンノイの巨大なスピーカーが狭い店内をますます狭くしていた。


 側面の壁には古いアップライトピアノもあった。ジャズ喫茶というのはこういう雰囲気なんだろうか?、と僕は思ったが、入ったことはないし、今音楽は流れていない。


 席に着くとすぐに、さっき会ったウェイトレスの麻帆さんが水を運んできた。


 切り子細工の入った高価そうなタンブラー(後で聞いたところ、ボヘミアングラスだった)を銀のトレイに載せて片手で支え、テンポは遅くないがバランスの崩れることのない、優雅な歩き方だった。


 こっちを見て微笑を浮かべながら、僕たちのテーブルまでやってきた。


「いらっしゃい、百合華。あなたが男の人と一緒に来るなんて、珍しいじゃない?」

 麻帆さんは、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべて、姫野さんに囁いた。


「あーら、そーだったかしらね?」

 姫野さんはしゃーしゃーとした口調で笑いながら答えた。


「初めまして。私は白籏麻帆。君のお名前は?」

 麻帆さんは僕に尋ねた。


「あ、はい、結城シノブと言います」

 しゃっちょこばって僕は答えた。


「ご注文は何にいたしましょう?」

 麻帆さんは微笑を浮かべて言った。

 僕はメニューを開いてみた。


「何でも好きなものを頼んで。私が誘ったんだから、ここは私の奢り。もっともこの店のメニューは、コーヒーとショートケーキしかないけど」

 姫野さんは、微苦笑を浮かべて言った。


「ブレンドとケーキのセットはサービス価格となっております」

 麻帆さんが付け足した。


 僕はメニューを眺め渡した。上から、Bブレンド、Aブレンド、その下にキリマンジャロとかコロンビアとかストレートの銘柄が並んでいる。


 そういった銘柄の後に、アイスコーヒー、カフェ・オ・レ、右下にショートケーキ各種、ケーキセット、となど書いてあった。


 あいにく僕はコーヒーには詳しくない。銘柄も他にブルーマウンテンとかモカとか知っているくらいだ。


 ここは無難にブレンドとケーキのセットにしておこう、と思い、ふと疑問に思った。ブレンドが二種類あるのはともかく、なぜAブレンドよりBブレンドの方が上に書いてあるんだろう?


「私はBブレンドと、ガトーショコラ、あるかしら?」

 僕が迷っているうちに姫野さんが注文した。


「ええ、あるわよ。Bブレンドとガトーショコラのセットね」

 麻帆さんが確認した。


「あの、ケーキの種類って言うのはどこに?」

 僕はおずおずと聞いてみた。


「こちらに書いてございます」

 そう言って、麻帆さんは入り口に掛けてあるホワイトボードを示した。


 そこには「本日のケーキ」として、「ガトーショコラ・アップルパイ・ポアムース・モンブラン・フレーズルージュ」と書いてあった。


「…じゃあ、僕はAブレンドとガトーショコラを…」

 そう言いかけたとき、麻帆さんが遮った。


「大変申し訳ございません。ガトーショコラはただいまの注文で品切れとなりました」

 麻帆さんは、ちょっとおどけてみせてそう言った。


「…そうですか。じゃあ…」


 僕は甘党でショートケーキはアイスクリームと並んで大の好物だ。種類も結構知っている。

 けれど、「フレーズルージュ」って名前は初めて見た。


「あの、『フレーズルージュ』ってどういう意味ですか?」

 僕は姫野さんに聞いてみた


「フランス語で、『フレーズ』はいちご、『ルージュ』は赤、『赤いいちご』って意味だけど、どんなケーキかは食べてみてのお楽しみ」

 姫野さんは悪戯っぽく笑った。


「じゃあ、Aブレンドとその…フレーズルージュを」

 僕はそのケーキを頼んでみることにした。


「承知しました。Aブレンドとフレーズルージュのセットでございますね。少々お待ち下さい。」


 麻帆さんはどこか満足そうにそう言うと、マスターを振り返り、

「マスター、ケーキセット二つ、Bワン、Aワンです!」

 と、叫んだ。


 どうやら今までのやりとりを黙って聞いていたらしいマスターは、メジャーカップでコーヒー豆をすくうと、電動ミルに放り込んでスイッチを押した。


 ガリガリと豆の砕ける音が静かな店内に響いた。


 麻帆さんは、ショートケーキの入った冷蔵ケースに目をやると、ホワイトボードの「ガトーショコラ」と「フレーズルージュ」の文字を拭き消してしまった。


「フレーズルージュ」も最後の一個だったらしい。


「シノブ君、運が良かったわね」

 それを見て、姫野さんが笑って言った。


 僕は奥のコーナーに古びたセピア色の若い美女の写真が張ってあるのに気付き、気になった。どことなく麻帆さんに面影が似ているような気もしたのだが…


「ねえ、百合華さん、あの女の人の写真、誰のか分かりますか?」

「ああ、あれ?あれはねえ、マスターの青春の想い出」

「?…なんだかよく分かりません」

 その話はそれだけで終わった。


 まもなく、麻帆さんがケーキを運んできて会話は中断された。そこで初めて僕は、「フレーズルージュ」なるケーキの正体を知ることが出来た。


 表面にはホイップクリームの上にこれでもかとばかりに真っ赤ないちごが盛りつけてあった。また側面にもスライスしたいちごが貼り付けてある。


 なるほど、これで「赤いいちご」か。その下にいちごのムース層、その下にまたスライスしたいちごとホイップクリームの層。一番下にスポンジの層。これを考えたケーキ職人は、よほどいちごが好きだったに違いない。


「驚いているようね」

 百合華さんが声をかけてきた。


「え?」

 僕は初めて我に返った。


「いやぁ、見事なケーキだなぁ、と思って驚いてしまって…」

「ふふふ、キミ、甘党ね。ここのケーキはね、麻帆さんの実家から持って来てるの。この同じ通りの少し先にあって、店の名前が『フレーズ・ルージュ』…」

 姫野さんはなぞめいた口調で語った。


「『フレーズ・ルージュ』…このケーキの名前と同じ…?」

「まあ、詳しいことは麻帆さんに聞いた方が早いわ。彼女のご両親がやっておられるの。そこにも喫茶室があって、紅茶が美味しいのよ。ここでは紅茶は出してないしね。そのうちに行ってみましょう、一緒に。その店も同じ結界の中にあるから、君は今入る資格が出来たばかりだけど」


(『結界』…また『結界』って言った。『結界』って一体なんだ?)


 僕が姫野さんの言葉に再び疑問を感じているとき、麻帆さんがトレイにコーヒーを載せてやってきた。


「お待たせしました、Bブレンドです」

「はい」

 姫野さんが答える前に麻帆さんは姫野さんの前にカップを置いていた。


「Aブレンドでございます」

「は、はい」


 僕の目は今度はコーヒーカップに注がれていた。僕のは地の色が緑、姫野さんのは紫の色違いで、素焼きの地の上に白い模様がレリーフのように描かれている。僕には初めて見るデザインだ。


「こ、このカップ、特別なんですか?初めて見るものですけど…」

 僕はおずおずと麻帆さんに聞いてみた。


「こちらのカップはウェッジウッドのジャスパーウェア・レディ・テンプルトンカップでございます」

 麻帆さんは、エレベーター嬢のようにわざと抑揚をつけて気取って答えてから含み笑いした。


「ウェッジウッド」って名前は聞いた覚えがあったけど、その後はちんぷんかんぷんだった。


「さあ、冷めないうちにお飲みなさい。コーヒーは『焙煎二週間、挽き三日、淹れて二十分』って言って新鮮なほどおいしいのよ」

 姫野さんが自分のカップを手に取りながら、僕にも勧めた。


「は、はい」

 僕は、テーブルの上の砂糖壺から砂糖を掬おうとした。


「ちょっと待って、砂糖を入れるのは」

 姫野さんの手が突然僕の手を遮った。僕はあわてて自分の手を引っ込めた。


「えっ?どうして?」


 僕は姫野さんの顔を驚いて見た。姫野さんは一瞬だけ厳しい顔つきをしていたが、すぐにそれを崩して、

「赤の他人だったら、こんなお節介はしないんだけど、キミだから言うわ。最初の少なくとも三分の一はブラックで飲んでごらんなさい。残りは砂糖を入れようが、クリームを入れようが好きなように」

 と、言った。


「は、はい…(僕だから?姫野さんと親しくしてもらっているって思っていいのかな?)」

 と、答えたものの、僕はブラックコーヒーって苦手なんだ。苦かったり、変に酸っぱかったり、えぐみがあったり。


 でも、他でもない、姫野さんの言葉だから、我慢して三分の一くらいは飲むか。香りは好きなんだけど…このコーヒー、いい香りだな…


 ゴクリ、と僕は一口飲んだ。見ると姫野さんも一口飲んでいた。その表情は陶然として見えた。


「悪魔のように黒く

 地獄のように熱く

 天使のように純粋に

 口づけのように甘く…」

 姫野さんは唱えるように呟いていた。


「何ですか、それ?誰かの詩ですか?」

 僕は問うてみた。


「ゲーテがコーヒーを讃えた詩よ。不条理に満ちた詩でもあるけど…」

 姫野さんはもう一口ブラックコーヒーを飲んでから答えた。


「『口づけのように甘く』…甘い?コーヒーが?コーヒーが甘いのは砂糖を入れるからじゃないんですか?」

 僕は再び問うた。


「もう一口、ゆっくり味わってごらんなさい」

 姫野さんは、またあの人を魅する目で僕を見つめて言った。僕は言われたとおりにした。


「甘い…苦くてちょっと酸っぱいけれど…甘い。確かに甘いです」

「ねっ、コーヒーって本来甘いものなのよ。世の中のコーヒー通って言われている人達には、コーヒーはブラックでしか飲まないって人も多いけれど、それは間違っていると私は思うわ。クリームを入れてもいい。砂糖を入れてもいい。けれど、ブラックだけでも美味しくなければ美味しいコーヒーとは言えないと私は思うわ…ちょっと一口ちょうだい」


 そう言って百合華さんは僕のカップを手に取ると、一口ごくりと飲んだ(うわっ、間接キッスじゃないかこれは!)。カップを元に戻して姫野さんは言った。


「コロンビア・モカハラー主体のブレンドね。私にはそれ以上わからないけれど。甘みの強いブレンドだわ」

 唇をぬらして語る百合華さんはどこかエロチックだった。


「こっちのも飲んでみる…Bブレンド」

 百合華さんは自分のカップを差し出した(また間接キッス!)。僕は素知らぬ顔で一口飲んだ。


「…うーん、コーヒーの味がします」

「あはは、そりゃそうよね。紅茶の味がしたんじゃコーヒーじゃないわ。コロンビア・ブラジル主体のブレンドよ」

 百合華さんは苦笑した。


「…ところで、BブレンドとAブレンドってどう違うんですか?Aブレンドの方がちょっと酸味と甘みがあるようには感じたんですが」


 僕は最初から思っていた疑問を百合華さんにぶつけてみた。

「それはね…Bブレンドはだいたい毎日同じくらいの味のブレンド、だからベーシックブレンド」


「だいたい?」

 僕は百合華さんの微妙な言い様を問い詰めた。


「あ、それはね。ここのマスターは自家焙煎所を別に持っていて、そこで焙煎した豆を店に持って来るんだけど、生豆の保存状態、焙煎の状態によって同じ豆でも同じ味には仕上がらないの。だから、配合比率なんかを微妙に調整して出しているのがBブレンド」


「じゃあ、Aブレンドは?」

「Aブレンドは毎日、状態がいいと思った豆を適当に混ぜたアドリブブレンド」


「それでメニューはBの方がAより上に書いてあるんですか」

「まあ、そんなところね。このくらいで百合華先生のコーヒー初心者講座、わかったかな?」


「は、はい、ありがとうございます」

「話してるうちに二十分以上経っちゃったわ。本来の目的を忘れるところだったわ。絵を見せてもらうんだったわよね。早くケーキも食べましょう」

「はいっ」


 それから、僕たちはショートケーキを黙々と突き崩しにかかった。


 僕のは、件のフレーズルージュだ。まさにいちごの固まり。コーヒーマニアのための喫茶店に相応しく、素晴らしく美味しいケーキだった。


 「フレーズ・ルージュ」と言う名のケーキ屋の、他のケーキも期待が持てた。「一緒に行ってみましょう」という百合華さんの言葉を僕は信じた。


 麻帆さんがタンブラーの水を換えに来た。百合華さんが唇についたチョコレートクリームをナプキンで拭っているのを見て、僕も自分の口の周りを拭った。


「シノブ君、鼻の頭にクリームが」

 麻帆さんが突然言った。


「えっ?」

 僕は慌てて拭った。


「う・そ・よ」

 麻帆さんが言った。麻帆さんは笑いながら歩み去った。


 麻帆さんには悪戯好きの妖精、という雰囲気があった。百合華さんを見ると、百合華さんもクスクス笑っていた。


「うふふ…ごめんなさい。本題に入りましょう。絵を見せてくれる?」

「…はい」


 僕はスケッチブックの最初のページを開いて百合華さんに渡した。僕が描いた、最初の百合華さんの絵だ。ベンチで下級生と談笑する百合華さんのクロッキーだ。


「これが私の絵?…いえ、この髪型は確かに私ね」

「水曜日、顧問の北本先生の許可を取って初めて描いた絵がこれです。」


 さらに数枚、同じようなクロッキーが続いた。

「ふーん、動きのある被写体をよく捉えられるわね」

「そんなことありません。まだまだです」


 百合華さんが一枚めくる。

「これは…何?」


「あはは、レシーブのシーンを生で描こうとしたんですが、うまくいきませんでした」

「そんなことないわ、動きがよく出ている」


 百合華さんがまた一枚めくる。しまった!


「あ、こ、これは見ないでください!」

 僕は慌てて言った。 


「どうして、すごくよく描けてるじゃない?」


 それは、デジタル一眼レフで撮った姫野さんの写真をトレースして、デッサンを起こしたものだった。それだけならまだしも、プリーツスカートがめくれてアンダースコートが見えている。僕はそれを百合華さんに説明して謝った。


「シノブ君はなぜこの絵が悪いと思うの?」

「そ、それはその、盗み撮りみたいなことをして…」


「あら、キミは許可を得て撮影したんだから、別に盗み撮りではないでしょう?」

「で、でも、下着が見えてるような写真を絵にしたのはやっぱり…」


「アンダースコートは下着ではないわ。それに、この絵が第三者から『セクシー』

と思われるなら、私は光栄だな」


「え、そうですか?でも、この絵は皐月祭の展示用に描いているんですよ。百合華さんはこの絵が展示されてしまってもいいんですか?」


「私は構わないわよ。他の部員がモデルで、同じ構図で展示されたらどう思うかはわからないけど」


「実は百合華さんしかモデルにはしてないんですけど…」

「なら、問題は全くナシよ。でも、なぜ私なのかしら?」


「そ、それはその…(ええい、言ってしまえ)百合華さんに憧れているからです!百合華さんの絵が描きたいんです!」


「ふふ、ありがと。言葉通りに受け取っておくわ。でも、今日ここに一緒に来たことは内緒にしておいてね。禁則やぶりだし」


(禁則?校則に「帰りに喫茶店に寄ってはいけない」、なんて規則があったっけ?)


 最後の一枚は今日描いたサーブのクロッキーだった。

「前のスケッチとだいたい同じ構図じゃない?」


「ええ、でも、写真から起こすのと実物を描くのでは動きの捉え方が違いますから」

「ふーん、そう言うものなの…」

 

 百合華さんは二枚のサーブの絵をしばらく見比べてから、パタンとスケッチブックを閉じた。


「面白かったわ。皐月祭の絵、楽しみにしているわね。さあ、そろそろ出ましょうか」

「は、はい、ありがとうございます」


「ところで、君は家でレギュラーコーヒーを淹れているのかしら?」

「ええ、電動コーヒーメーカーで、豆じゃなくて粉でですけど。この店で売っている豆を使えば、美味しく淹れられますか?」

 僕は百合華さんに聞いた。


「…マスター?」

 百合華さんは振り向いて、僕たちの会話を聞いていたマスターに回答を促した。


「うーん、少しはましかも知れんが、出来れば豆は焙煎して二週間以内、挽いて三日以内が基本だからな。それに、ドリップもコーヒーメーカーよりハンドドリップの方がいい。うちはネルドリップを使っているが、ペーパードリップでも慣れればそこそこの味は出るよ」

 マスターは訥々と説明した。


「じゃあ、必要な機材、どれだけあれば揃いますか?僕、ハンドドリップに挑戦してみます」

 僕は無性に冒険心に駆られて言った。


「機材はみんなここに揃っているよ。ミルとカリタ式ドリッパーとサーバー。ところで、家族の人数は?」

「二人です」


「じゃあ、ミルはハンドミルでいいだろう。ドリッパーとサーバーも二人用。それからペーパーだが、これはどこでも売っている。あとは豆だな」

 マスターがカウンターに並べた機材は意外にこぢんまりしていた。


「豆はたくさん買わずに、なくなったら買いに来ればいい。あるいは冷凍庫にしまうとか。うちは百グラムずつ売ってるよ」


「そうですか…じゃあ、Bブレンドとキリマンジャロを百グラムずつください」

「毎度。今後ともよろしく。あ、これはうちで月に一回やっているコーヒー講座の初級向けテキストだ。百合華君も熱心な生徒でね…」


 マスターが横目で百合華さんを見ると、

「えへへへ…」

 と、彼女は舌を出して笑った。


 百合華さんがコーヒーに詳しかったのは、マスターに教わっていたからだったのか。


「あ、それからこれはお祝いだ」

 と、言ってマスターは、空色の箱を取り出した。


「…お祝い?」

 僕はいぶかしがりながら箱を空けてみた。それは…空色の地に白いレリーフを貼り着けたティーカップだった。


「あ、これはさっきのコーヒーカップと同じデザイン…」


「そう。ウェッジウッドのジャスパーウェアだ。ジャスパーウェアとはもともとジョサイア・ウェッジウッドが『ポートランドの壺』という紀元前の出土品のデザインを復元して作ったものだ。ここにある壺がその復刻品だがね。もともと呪物だから復刻品でも魔力がある。お前さんにやったカップも同じ製法で作られているから多少なりとも魔力がある。お前さんの身を守ることだろう」


(『呪物』…『魔力』…?)


「あ、あの、どうしてこんな高価なものを僕になんか?」

「並行輸入品だからそれほど高くはない」


「いえ、そう言うことじゃなくてですね…」


「ギルドに入会したお祝いよね」

 麻帆さんが口を挟んだ。


「そういうことだ」

 マスターが頷いた。


「?…『ギルド』って?」

「まあ、そのうちわかるわ」

 百合華さんが言った。


「シノブ君、帰りましょうか。散財させてごめんなさい。マスター、麻帆さん、お邪魔様」


 出口に向かう百合華さんの背中に僕は声をかけた。

「あ、あの、『フレーズ・ルージュ』には?」


 百合華さんは振り返って微笑みながら言った。

「もちろん、一緒に行きましょう。約束は守るわ。日曜日がいいわよね。ね、麻帆さん。じゃあ…」


 百合華さんがカフェ・ノワールを去るのを見送る僕の袖を引っ張る人があった。振り返ると麻帆さんだった。


「な、なんでしょうか?」

「ちょっとキミ、百合華にずいぶんとご執心のようだけど、気を付けた方がいいわよ」


「気を付けた方がいい?何をですか」

「彼女は『チェリーボーイキラー』って有名なのよ。キミ、可愛い顔しているから格好の餌食ね」


「そ、そんな、僕は百合華さんに憧れているだけで…」


 あれ、僕はいつの間に姫野さんのことを「百合華さん」って呼ぶようになっていたんだろう?

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