第19話 矢車菊と薔薇

「マキ…ナ…?何を…やっている…?」


ローズのか細い声が、水面に落ちる雫のようにぽつりと港に響いた。


「あぁ…ローズか。邪魔をしに来たのか?それもいいだろう。君への贖罪は、この機会に終わらせてしまおう」


「何をやっていると聞いているんだ!!答えろ!!」


そのローズの声は港中にいた全ての人間に聞こえるほど大きく、悲痛なものだった。


「何だ?ってオイオイ…どうなってんだよ…」


当然、少し離れた場所で戦っていたゼロの耳にも入っている。


「おい!戦いの最中によそ見など…!」


「チッ…!ルシアァ!!こいつを止めろ!!」


ゼロが叫ぶと、カトレアの傍から銀髪のメイドが現れる。


「なっ…!どこからッ!」


「よくやった。そのまま相手を頼む!」


ゼロは駆け出す。大切な息子のために。


「御意」



……………………………………………………



「なぜ何も答えない!いったい何があったんだマキナ!!よくも弟を…!!」


「弟?ああそうか。そうなのか。…ああ、だからなのか?クックック…」


「何が可笑しい!!」


ローズはかつてないほどの怒号を飛ばす。


「この感情がようやく理解できたよ。嫉妬さ。思えば私はいつも誰かに嫉妬していた。女王様の力、手腕、好きな人を独り占めできる権力。そして…家族だからと、好きな人と気兼ねなく触れ合える君に」


「嫉妬だと…!?」


「ベルナデッタ様。はっきり言って私は嬉しかったのです。たった一人でこの地に赴き、彼と二人きりになれたことが。いつも貴女の監視があり、私は気になっていた彼と話すことすら難しかった。しかしここでは別だったのです。…そう、別『だった』のです」


セントーレア…いや、マキナの目にかつての忠誠はない。あるのは醜い欲望と絶望だけだった。


「…すぐに馴染んでいく三人を見て、私は言いようのない感情に襲われた。何故だ?何故ゼノは私ではなく彼女達を頼る?何故憎き貴様を頼る?そしてあの夜、貴様がゼノの姉であると知った」


「見ていたのか…!」


「私は何も手につかなかった。初めはそれが貴様への罪悪感からだと自分に言い聞かせていた。だがすぐに気付いたよ。これは嫉妬だと。今まで見せたことのない笑みを貴様に向ける彼を見て、私は自分が自分でなくなるようだったよ」


「もういい!聞きたくない!!」


ローズが耐えきれず剣を抜いた。


「これ以上彼が穢されないように、誰も彼に触れられないようにするにはこれが一番手っ取り早いだろう?…ですよね、ベルナデッタ様。貴女だってそうしようと思ったこと、何度もあるはずでしょう」


「そんな…!だからってこんな…!」


「臆病な貴女と違って、私はやり遂げる。この場で彼と果てる。…だがその前に…貴様と決着をつけねばなるまい。貴様との因縁を地獄に持ち込むつもりはないのでな」


マキナも仕込み杖を抜き、ローズに向き合った。


「…ベルナデッタ、ゼノを連れて離れてくれ。ゼノが君を許したなら、私も許そう。…君も既に私達の家族だ。…少なくとも私は貴女を認める」


動かないゼノの体を抱えて、ベルナデッタは立ち上がる。涙を拭い、ローズに深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。必ず…生きて帰ってください。ゼノは…私がどうにかします」


「ああ。今は貴女を信じている」


ベルナデッタがなるべく急いでその場を離れようとする。しかし、去り際に一度立ち止まった。


「…セントーレア。最後の命令です。…ここで死んでしまいなさい」


当のセントーレアは何も答えなかった。彼女は既に、レグーナ王宮親衛隊のセントーレアではなく、悲しき恋を終えたひとりの女、マキナなのだから。しかしベルナも返答を待たず、港を離れた。


「さぁ、始めようか。友よ」


「マキナ…!!容赦しない…!造作もなく殺してやる…!」


「ああ、きっとここで果てるさ。君の想いをぶつけてみるといい」


風が吹いた。それを皮切りに、ローズが仕掛けた。


「マキナァァァァ!!!!」


「吠えるな駄犬!!」


黄金の炎と白銀の水。対極の魔法がぶつかり合う。


「どうした?奥義は使わないのか」


「見たいなら見せてやる!」


ローズの今ある全ての魔力が込められた結界が広がっていく。二人の周囲を塗り潰し、彼女達だけの『世界』を作っていく。


「久しぶりに見たが…随分と粗くなったな。この結界を維持するのにどれだけ耐えられる?3分か?5分か?」


「知ったことか。1分あればそれでいい。それだけの時間でお前を殺す」


「ハハハ…そうでなくてはな」


剣と魔法の交錯。かつてこれ程の術師による決闘があっただろうか?いや、きっとない。道を違えた二人の想いはすれ違ったまま、二度と交わることはない。


「出し惜しみは無しだ。今すぐにでも殺してやる…!」


「やってみるといい。君にできるのならな」


結界の中、二人を邪魔する者は誰一人として存在しない。かの叛逆者でさえ例外ではない。


「ローズの心情顕現魔法…?いつの間に完成させてたんだ…?いやそれよりも…!チッ…!入れねぇか…!死ぬなよ…!赤女はルシアが相手してる。ベルナデッタとゼノは和解した。俺にできることは…とりあえずレグーナの軍勢を蹴散らすか。コイツらに何言っても止まらないだろうし…」


叛逆者が刀を抜く。その刀は先程までの物とは異なる。黒く、光すら逃さない暗黒の刃だ。


「父さん!」


後方からの少女の声。リンだ。


「おう!久しぶりだなリン!元気か!」


叛逆者の目が、父親の目に戻る。柔らかな目線で愛娘を見つめる。


「元気だけど…!ゼノが…!弟が…!」


「…ああ、お前がそばにいてやってくれ。この騒ぎは俺が鎮める。全部終わったら、家族みんなで祝おう。ゼノの結婚をな」


「死なないよね…?大丈夫だよね…!?」


リンが今にも泣き出しそうな顔をする。


「大丈夫だ。アイツは俺の息子だぞ?そう簡単に死ぬはずがねぇ。俺だって、心臓が破けて滅多刺しにされた経験くらいある。だから大丈夫だ。お前が笑いかけたら、アイツも目が覚めるだろうよ。だから泣くな」


「泣いてない!」


「ハハ!反抗期の娘は怖いなぁ!…ほら、分かったら早く行け!」


「…うん!」


リンは駆け出した。その背中は以前より大きく見えた。


「さて…こんな大舞台、何年ぶりだろうな。…お前が隣にいてくれたらどれだけ楽しかったことか。なぁ、クロード。お前はマリーと仲良くしてるか?すげぇやつだよ、アイツは。お前が俺のガキ達と殺り合うって最初から分かってたんだ。それでも止めなかった。お前も少しは誠意を見せてくれよな」


もちろん返事はない。しかし、返事を待つ者もいない。


……………………………………………………


結界の中、誰も邪魔はできやしない。この場でどちらかが死ぬまで、二人は止まらない。


「ローズ。私はな、いつも君のことが羨ましいと思っていたんだ」


「何を今更…っ!」


怒りに身を任せて剣を振るローズの攻撃は一歩届かず、何度も空を切る。


「ベルナール先生が気に入っていたのも君の方だった」


「その先生も今の貴様を見れば失望どころでは済まないだろうな!」


「それこそ今更さ。私が誰かの期待に応えられたことがあったか?」


マキナの声は酷く悲しい。その静けさに感化されるように、ローズの心の怒りも悲しみへと移り変わっていく。


「…っ…知ったことか…!」


「剣先が揺れているぞ。これは訓練じゃないことくらい分かっているはずだが」


「フン…貴様が泣いているから揺れて見えるだけだ」


「ならきっと雨が降っているのだろう」


「分からず屋め!」


剣の舞踏は止まることなく、決して止められないのだ。


「分からず屋?ああ、誰も私を理解できやしないからな。とうに諦めたよ」


「悟ったようなことを…!それで罪を洗い流せると思っているのか!!」


ローズが踏み込む。


「ならば君が処刑人になればいいだろ!」


マキナが足を引っ掛け、ローズを転ばせる。


「ッ…!」


「終わりだ。全て吐き出して果てるつもりだったが、こんなものか」


雨の中、二人の影が薄くなっていく。



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