第31話 「られ」と「る」



 ああ、腹が減って死にそうだ。クリスマスイブの夜、駅前はやたらとキラキラしていて、憎たらしい。仲良さげな男女、ケーキの箱を片手に家路を急ぐサラリーマン。ああ、腹が立つ。いや、立つ腹もない。お腹が空いた。ひもじい。死にそうだ。死なないけど。

 俺は古いアパートに帰る。やすらぎ荘という名前のおんぼろ物件だ。今にも壊れそうな錆びだらけの階段をのぼり、二階の一番奥の号室を目指す。そこが俺の住まいだから。

 人が、いた。

「あの、」

 共用廊下に座っていたその男は、俺に気付くなり立ち上がり、尻を払った。黒いコート。白いマフラー。寒そうに長身を丸めながら、男は俺に話しかける。

「いきなり、すみません。怖いですよね」

「はい。……なんですか?」

 俺は後退りしつつ、階段を走り降りるための心構えをする。このアパートの廊下に電気はないから、近くの電灯だけが頼りの、そんな明るさだ。男の顔立ちの良さには、俺はとっくに気付いていた。

 ああ、腹が、鳴る。

 男は嬉しそうな笑みを浮かべた。

 そして、少し恥ずかしそうにこう言った。

「あの、僕のこと、食べてくれませんか?」

 ああ、やはり。そうか。そういうことか。

「い、嫌です。俺は、もう、」

 俺はよだれが口の端から垂れるのを拭う。奴に向かって突進して、今にもしゃぶりついてしまいたい。ああ、駄目だ。腹が減ると、なんにも、かんがえられなくなってきて……………。

 男はコートを広げた。白いセーターをめくり、自分の腹を見せつけてくる。へそのない身体。俺はもう我慢が出来なかった。

 急ぎ男のもとへ駆け寄り、頬に噛みつく。男は嬉しそうに笑った。俺は自分のコートのポケットから、手探りで鍵を取り出し、ドアを開けた。

「あ、そんな、がっつかなくても」

「これが狙いだったんでしょう」

 飢えた俺と、食われたい男。俺は男を玄関ドアの内側に押し付け、次は指に噛みついた。爪と髪は食べない主義だが、この際どうでもいい。

「あんた、俺のことをどこで知ったんだ」

 俺は男を食いながら尋ねる。男は食われながら答える。

「電車で。……『そうだろうな』と思ったから、つい、あとをつけてしまって」

「ストーカーじゃねえか」

「はい。そうですね。すみません。……何度か、声をかけようとしたんですけど、勇気が出なくて」

「今日は?」

「…………その、もう、我慢出来なくて。つい、……あ、痛……っ」

「手首、弱い?」

「はい…………」

 それなら、と俺はすするようにして奴の手首を咀嚼していく。甘い血の味。柔らかい肉の、滑らかな舌触り。皮膚のしょっぱさ。コリコリとした骨の噛みごたえ。

 《核》だけを残して、俺がそいつを食い終えたのは、小一時間ほど経った頃だった。台所で口や手を洗うついでに、顔も洗っていると、男は復活した。

「ありがとうございます。こんなに丁寧に食べてもらえたのは、初めてです」

「……がっついちゃったけど? つか、あんた、その顔なら選り取りみどりだろ」

 案外、そうでもないんですよと、葛絵(かずらえ)は言った。



 この世界には、「食べられたい人」と「食べたい人」が存在する。俺は「食べる」側で、性欲や普通の食欲みたいに、なかなか我慢は難しい。同様に、葛絵のように、「食べられたい」側も、欲求を抑制することは困難だ。そのため、恋愛のマッチングアプリのように、近隣で好みの対象を探したり、デリバリーの業者なんかもある。「られ」る人の特徴としては、へそがなく、《核》まで食べてしまうと二度と再生しない。その場合は食べた側の人間は、即刻死刑だ。

「いつもなら、アプリでいろんな人と会うんですけど」

 葛絵は、服を着ながら言った。

「でも、その、……相性って、『一目見て』分かるものじゃないですか。だから、……すみません。押しかけてしまって」

「いや、俺も…………………腹は減ってたから。丁度良かった」

「ずっと我慢してらしたですもんね」

「……お前、いつから俺のことつけてたんだ?」

「一週間ほど前からです」

「気持ち悪い」

「すみません」

 是非、また食べてくださいと葛絵は、名刺を残して部屋を出ていった。俺は煙草に火をつける。強く吸い込むと、まだ残っている血の味の感覚がした。



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