しるし

黒石廉

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 キーボードを叩く。

 言葉がうねる。

 KRAFTWERKの歌が脳内に流れる。

 僕は暗い心のなかで輝く言葉をつむぎだす。

 輝きは外の光にさらされ、消えていく。


 彼は器用だ。彼自身そう考えている。

 何をやってもそれなりのところまでいく。

 勤勉で頭の回転が速いという評価をされることはしばしばある。しかし、それだけである。

 すべてがそれなりである。何一つ突き抜けられるものがない。それは彼自身が一番よくわかっていることだ。

 おそらく偏執的なまでの情熱か圧倒的な才能が必要なのだろうが、どちらも彼にはない。

 たくさんの言葉を知識として蓄えているが、それは上っ面でしかない。

 彼自身わかっているが、それを認めるのが嫌で仕方がない。だから、彼は小説を書き始めた。


 田中は背を丸めて歩いている。

 地面を見つめながら歩くのは、昔の知り合いに会いたくないからだ。目を伏せていれば、万が一視界に彼らが入ったとしても気づいていないふりをしてそっとその場を立ち去ることができる。

 本当ならば家から一歩も出たくないが、外に出ずに口に糊する方法を彼は知らなかった。知り合いが誰もいないところに行きたかったが、身重の妻を出身地から引き離すほど身勝手な行動を取れない小心者である。

 だから、田中は地面を見つめながら歩く。小銭を拾ったときに彼がことさらに嬉しがるのは、自分が地面を見つめる真の理由が一瞬であるがぼやけるからだ。

 田中は何度か小説を書こうとして、そのたびにフォルダとたいした容量のないファイルだけを残してきた。何度目かわからぬが、またフォルダをつくった。文学がどうのと真面目に考えていた頃よりも力が抜けたせいなのか、今度は完結済フォルダというものを作ることができるようになっていた。ただし、田中の書き散らかしたものが注目されることは当然なかった。


 スマートフォンをいじる。

 アイデアがまろぶ。

 騒音が消えていく。

 僕は闇のなかで舞い散るものを集めてかためていく。

 結晶は外気に触れて塵芥となる。


 彼はそれなりに器用で小賢しい男であるので、通りいっぺんの分析はしたうえで物語を書き始めた。

 一話の文字数を考え、流行の設定を考え、それに沿ってとりあえず数話書いてみた。

 そこでかなりの時間放置し、結局すべて書き換えた。

 話は歪な形に修正され、彼が分析して取り入れようとしていた流行の設定はすべて消えてしまった。

 彼はそれを自分のチンケなプライドのせいだと最初は考えていたが、そうではない。

 単純に彼には流行りものを書いて人を惹きつける才能がないだけだったのだ。

 才能がないと認めるのが嫌だから、プライドのせいだと考えるというのは、なかなかねじくれたプライドの現れ方である。

 自らを矮小化しながら、それがただの逃げでしかない。現実の自分はさらに矮小な存在であるということに彼が気がつくのはもう少し先のことである。


 いくつかの物語を書き上げたあたりで田中は自分の才能の無さから目をそらすことができなくなってきていた。あわよくば家から出ないで名誉とあぶく銭が得られないかというあさましさだけが残った。

 田中は書けなくなると本の世界に逃げ込んだ。

 本の世界はとても心地よいものであった。

 下を向いていられるから、誰とも目を合わせないで良い。


 えんぴつを走らせる。

 文字が滴る。

 異言が身体を支配する。

 僕は審神者となる。

 顕現した神は誰の信仰も受けることなく霧散する。


 彼は自らのちんけなプライドを優しく撫で回しながら、ひたすら書いた。

 たまにモニタの前でうそぶくことがあった。

 「これはなかなかどうしてコスパの良い趣味だ」

 彼は熱に浮かされたように文字列を生み出しているとき、他のことをしていない。

 電気代くらいしかかからない「コスパの良い」暇つぶしである。

 彼はそうやっていつも逃げ道を作っている。

 いつの日か、筆を折るとき、自分の傷の嫌な味を舐めやすいものに和らげるのだ。


 田中は日々外に出続けた。

 隠棲できる年でもないのに隠棲することを望みながら口に糊するために働いた。

 「この子が生まれたら空気の良いところで子育てするのも良いかもね」

 ある日、田中は精一杯の笑みを浮かべながら妻にささやいた。

 妻を騙し、自分を騙しながら、どこかで自分が変わることを望んだ。

 田中の数少ない友人は大方若くして鬼籍に入っていた。ヴァージニア・ウルフについて教えてくれた年上の友人は田中との長電話を楽しんだ数日後に亡くなった。田中は死因を知らされていないが、希死念慮に苦しんで入院していた彼女を見舞った後に一人あんみつを食べたことは憶えている。お互いの論文をよく読み合っていた年下の友人の死は会いたくない知り合いから聞かされた。発見時、死後一週間以上経っていたそうだ。田中は彼の任期がしばらく前に切れていたことを知っていた。諦めるときはどちらからでも知らせようぜという約束は結局どちらも守ることがなかったわけだ。


 僕は再びキーボードを叩く。

 夢と現の境、情熱と冷笑の相克の中、何かを生み出そうとする。

 足す。削る。置き換える。削る。削る。ファイルを削除しようとして思いとどまる。

 何も生み出せない自分を呪い、何かを生み出せる他人を呪い、自分だけが祝福されることを望み、他人が祝福されることを憎む。何一つ手にしていない自分の境遇を呪い、他者を呪い続ける。

 憎しみにまみれた自分の姿こそが人間の本来の姿だと肯定し、それでいながら憎しみをひた隠しにする。

 浄化のためなのか、憎しみの増幅なためなのか、わからない。

 何をやっているのかもわからない。僕は糞だ。

 でも、僕はひたすらキーボードを叩き続ける。


 ある日、妻が苦しいと言った。診察室から彼女は戻り、彼らは希望をうしなった。田中は成長する最後のチャンスも同時にうしなったことになる。奮発して予約してあった個室に元気な泣き声は響かない。すすり泣きだけが壁に染み込んでいく。

 名前などつけなければ良かったのだろう。そうすれば〈彼〉は〈それ〉でいられたのだ。名付けることによって、〈彼〉は自身がその目で見ることができなかった世界に存在するようになってしまった。

 すでに一部崩れてしまっていた〈彼〉の顔を田中は思い出すことがある。

 田中は〈彼〉に謝り、世界のすべてを呪う。

 ある日、彼は包丁を買って、そっとカバンにしまい込んだ。


 彼はソウゾウの世界で遊んでいる。

 物語をつくり、美しい言葉が紡ぎ出せないかと悩む。認められる日を夢見る。認めれたらどのように自慢をするかを考えている。

 そして、そのあとにきまって激しい自己嫌悪に陥る。

 衝動に突き動かされるように言葉をつむぎながら、その行為を認めることができない。彼は嘲笑うことで心の安寧を得ようとする。

 自分に才能があればと考えたことが幾度もあった。

 努力でなんとかなるということを信じるにはもう色々なものを見すぎてしまった。

 そういうとき、彼は自分を呪う。嫉妬心から他人を呪う。

 彼は上っ面の知識のおかげで嫉妬と呪いというものが我々の世界で人々を突き動かしてきた大きな要因のひとつであることを知っている。

 「自分は一人の人間である」

 彼はそうして自分のどす黒い感情を肯定し、他の人々を呪い続ける。

 そのうえで彼はそれをひた隠しにする。邪悪な心を理性と習得した学問によって抑えつけている。だから、自分は理性的で外形的には善なる存在であるのだと主張する。

 誰もいない部屋で一人主張するその姿はいかほど滑稽なものであろう。

 彼は何かを書いてしまうと感情が解放される。そして、書き上げたものを見て再び暗い情念にとらわれ、この世のすべてを呪い、また熱に浮かされたように呪いを言葉に変えていく。

 

 僕は問う。その先に何があるのか。


 田中は日々夢想する。あの包丁をふりまわして駆け抜けたらどうなるだろう。

 夢想するだけだ。

 田中は包丁を振り回すことなどできない。だから、物語の中で人を殺し続ける。嫌いな知り合いをモデルにしてそれを無惨に殺すという幼稚なことをして溜飲を下げたこともある。そして、田中は自分の中で呪いを増幅させていく。

 しかし、それだけである。田中は今日も地面だけを見つめながら外を歩いている。世界の破滅を祈り、同時に自分の愛しいものだけは無事でいられるようにと愚にもつかぬ夢想にふけりながら時を過ごすのである。


 彼はいつの日か、虎になることができないかと思っている。

 自分自身が李徴ほどの才能もなく努力もしてこなかったことを棚に上げ、ただひたすら虎になりたいと望み続ける。

 本能のままに生きる虎は美しい。善と悪の間で悩み続ける自分などよりはるかに美しい。だから虎になりたいと彼は考えている。しかし、それは身の程知らずな願いだ。

 願いは何もかなわず、彼は今日も自分のままである。


 僕は暗闇の中、色も分からぬ糸を紡ぐ。故郷ではない場所へ帰ることを夢見ながら言の葉を織り続ける。

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しるし 黒石廉 @kuroishiren

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