8.見覚えのある面影
―雅人―
ホールの扉を開けると、何か軽い物がぶつかった感触がした。
「おい、ちゃんと荷物片せよー」
転がっていったペットボトルを拾い、荷物置きに使っている長机の隅に置く。オレンジの炭酸飲料だから、恐らく奏多が飲んだものだろう。
「すいません、どっか転がっていったと思ったんやけど」
思った通り、奏多が急いで謝りに来た。寝癖なのか前髪があらぬ方向に跳ねている。
「ちゃんとしろよ、リーダー。今日は新しい振り付けの先生が来るんだからなー」
「ねーねー、雅兄っ。どんな人が来るの?」
聞きつけた千隼が絡んでくる。
「さあ、俺もまだ会ってはないんだよな。電話で話してるだけで」
「名前はー?」
「松岡さん、らしいけど」
答えながら、脳裏にこの間の出来事がよぎる。
まさかそんな。ドラマの世界じゃあるまいし。松岡なんてよくある名前じゃないか。
そう言い聞かせてみるものの、うっすらと期待している自分がいる。おかしな緊張感で心臓が痛い。
その時、ホールの扉が開いた。
入って来た人物の姿を認めた瞬間、全身が強張る。
「あ、よろしくお願いしまーす」
柔らかく挨拶をして入って来たのは紛れもなく、ついこの間街中で会った―朝陽、だった。
よろしくお願いします、とメンバー達が元気よく挨拶を返す中、固まったまま突っ立っている俺に朝陽の方も気づいた。
あ、と朝陽の唇が開く。
「あの時の」
「はい!じゃあ時間無いし始めましょうか!」
余計な事を口走りそうになった朝陽を遮る様に手を叩く。
「松岡先生ですね!マネージャーの石黒です、よろしくお願いします!」
「あ、はい」
俺の勢いに気圧されたのか朝陽がたじろぐ。
朝陽は何か言いたげに俺を見てきたけれど、必死で目を逸らした。
一通り振り入れが終わった。
「じゃあ、とりあえずこんな感じで」
朝陽は涼しい顔をしていたが、横から見ていてもあまりに振り付けの難易度は高くメンバー達は一様に焦った表情を浮かべていた。
「フォーメーションは明日もう一回確認するから、まずは個人練習しっかりね。振り付けで分からないとこは今日中に確認しておいてくださーい」
お疲れ様でした、と挨拶を交わした後、メンバー達はそれぞれに振り付けを確認したり、個人で練習を始めていく。
ホワイトボードに書かれたフォーメーションの図を消している朝陽に近づいた。
「お疲れ様でした、……松岡さん」
「あー、どうも。お疲れ様です」
左手にイレーザーを持ったまま、朝陽が振り返る。
……左利きなのか。でも、ペンは右手で持っていたような……。
つい記憶の中の"朝陽"と比べてしまう。余計な考えを振り払うように、スケジュール表を朝陽に見せた。
「これ、今後の予定なんですが」
「はい、見ておきますね」
「もしも都合悪いところがあれば、教えて頂ければ。これ、僕の名刺なんで」
連絡先の書かれた名刺を渡す。
「あー、はい。じゃあ俺のも」
「はい、ありがとうございます」
朝陽の名刺も受け取る。
「あ、そういえば」
「はい?」
朝陽は何故か、少し屈んで声を潜めた。
「……この間はどうも」
「はいッ?」
声が裏返る。顔を見ると、悪戯っぽい表情を返された。
「さっきはびっくりしました。マネージャーさんだったんですねえ」
「そ……いや、こちらこそ。まさか本当にあんただったとは」
ついぞんざいな口調になってしまい、咳払いする。
「その……この間はすみませんでした。人違いしてしまって。あんまり知り合いに似ていたものだから」
「……へえ、そうなんですね」
朝陽はホワイトボードの文字を全て消し終えると、自分の荷物を片付け始めた。
貰った名刺に視線を落とす。ダンサーとしての活動名なのか『ASAHI』としか書かれておらず、名前の漢字が分からなかった。
「じゃあ、今日はこれで失礼します」
ホールを出て行こうとする朝陽を思わず呼び止めた。
「あの」
「はい?」
「……一つだけ聞きたい」
怪訝な表情になった朝陽に、ゆっくりと問う。
「本当に、俺のことが分からない?」
二重の奥の瞳が、揺れたように見えた。
「……すみません、あの」
「いや、いい。すみません」
何か言いかけたのを遮る。
「すみません、忘れてください。何でもないんで」
「何でもないようには見えないけど……」
「いや、本当に。また明日お願いします」
半ば強引に朝陽をホールから追い出した。
思わず、ため息がこぼれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます