第2話 異世界転生
──俺はまた目覚めた。
どうやら、まだ生きているらしい。
今度は小屋の中。外というわけではなかったようだ。
鼻を優しく抜ける、心地よい木々の香りが漂い、天井にはランタンがぶら下がっている。決して明るくはないが、焚火のような暖かな光で、ほんわりと部屋全体を包み込んでいる。
何とも温かな光景だろう。
「起きたか?」
急に誰かの声が聞こえた。
俺が振り向くと、湖のほとりで見た黒豹のような生き物が二足で立ち、ジーっとこちらを見つめていた。
俺は思わず「おわっ!?」と声を上げてしまったが、その黒豹は落ち着いた様子で、
「安心しろ、ここは安全だ。さっきは驚かせてしまってすまぬ。貴殿がラピードに狙われておったからな。それにしても間一髪であったぞ。この辺りは夜行性のモンスターも多い。気をつけねばならぬぞ」
と
(ラピード? あの化物のことかな?……ということは、俺は助けられたってことか……)
彼の話に、俺も恐る恐る応じる。
「あ、あの、大声を出してすみません……助けていただいて、ありがとうございます」
ここは素直に感謝を伝えるべきだろう。
それに日本語が聞き間違えじゃなく、ちゃんと通じるかの確認にもなる。
礼を言い頭を下げる俺に、黒豹は「気にするな」と片手を振った。
「ああ、それより、少し怪我をしているようだな。顔に疲労も出ている。少し待っておれ」
彼はそう言うと、
薬の調合だろうか? 何とも手際がいい。
俺は遠目に彼の様子を観察していた。
装備を外した薄手のシャツには、鉄のように硬そうな筋肉が浮かび上がっている。
(──にしても、ここで生活をしているのか……。そもそも黒豹って認識でいいのだろうか? 俺が知ってる黒豹とは明らかに違うし、動きはどう見ても人間だよな? それにここって日本……なのか?)
作業が終わったのか、黒豹が再び俺に歩み寄った。
「あの、一つ聞いても──」
「まあ、先にこれを飲め。軽い傷や疲労によく効く」
彼は俺に、木製のカップに注がれた緑色の何かを手渡してきた。
気泡が上がる緑色の液体。俺はためらいつつ受け取り、そっと口元に近づけた。
「……ぅぐっ」
ツンとくる強烈な匂いが鼻の奥へと突き刺さってきた。
軽い嗚咽に見舞われたが、ここは我慢すべきだと自覚している。
匂いもきついし飲みたくはない──けれど、助けてくれたし、俺のためにわざわざ作ってくれたのだ。
さすがにこの状況で断るなんて、そんな鋼の精神は持ち合わせてはいない。
嫌悪感を露わにする俺に対し、黒豹は大声で笑いながら口を開いた。
「ビハハハハ! 毒ではないから安心しろ、疲労回復によく効く。私の故郷に伝わる回復薬だが、まぁ、売り物ではないからな。味のほうは勘弁してくれ」
実に変わった笑い方だ。
彼は口元に自信を漲らせ、「ほらほら」と勧めてくる。
回復薬……そう言われても、この見た目には気が引ける。
俺が見知っている回復薬は、ゲームやアニメの世界で、口にしたくなるほどの色鮮やかな薬だった。
それに比べ、この緑色の気泡だらけの液体は毒薬としかいいようがない。
作った本人は違うとは言っているが、飲むにはかなりの勇気がいるのは誰が見ても明らかだ。
(正直……味以前の問題だよ。やだな、コレ)
でも、俺は覚悟を決めて一気に口に含んだ。
「ガハッ!」
予想を裏切らない不味さは、正しく想定通り。
俺の体の中を、上から下へと苦みという苦みが次々と流れ落ちていった。
しかし、不思議だ。口をゆすいだわけでもないのに、後味はまったく残ってはいない。
「──あれ?」
そのうえ、効果は目に見えて現れた。
痛みがスッと消えていく。
傷口が驚きの早さで塞がってくるし、あれだけ疲れていた体は一瞬にして軽くなった。
逆に力が漲ってきたようにすら感じる。
俺は自分の身体をあちこち確認し、黒豹は両腕を組んで口を開いた。
「自己紹介がまだであったな、私はガルベルトだ。貴殿の名は?」
「あ、はい。俺は晴世、
彼の自己紹介に、俺は咄嗟に外国人風に返してしまった。
「ハルセ殿か。ところで、貴殿は旅人か? この辺に疎いということは、ジルディールとか遠方の町から来られたのか?」
「ジルディール……ですか? ここって日本、ではないのですか?」
「に? ほん? すまぬ、そのような国や街は聞いたことがないな。ここはアズールバル王国【王都リゼリア】だが?」
ガルベルトは俺の問いに答え、首を傾げた。
その様子に鏡写しとなった俺もまた、首を捻る。
(ん? ア、ズール……バル? え? 何それ……)
全く理解が追い付かない……いや、分かりようがない。
そもそも目の前の黒豹を動物と真に受けている時点でおかしい。
俺は彼のことをコスプレイヤーだと改め、頭の中で筋道を立てた。
「俺もアズールバルは聞いたことはありませんが、ここは日本で、あなたのその姿はコスプレをしているとかじゃ──」
「コ、コス……。ん? 何プレだと?」
「ここって、コスプレのイベント会場ですよね?!」
詰め寄る俺に、ガルベルトは目を丸くして後ずさった。
「コスプレ? イベント? ハルセ殿、一体何を言っておるのだ? ここは人の国アズールバル。貴殿も人の子であれば、この国で生まれたのであろう?」
「俺は……いや、その前に聞きたい。失礼かもしれませんが、あなたの獣のような見た目はコスプレではないって……ことですか?」
コスプレ疑惑をかけられていた、ガルベルトという名の人物。
俺の言葉にニッコリと目を細くし、声高らかに笑う。
「ビハハハハハ! だから、そのコスプレとは何なのだ? 初めてみるような顔をして、獣人族を知らぬわけではあるまい」
彼の返事に俺の目は点となる。
(──獣人族? よくアニメとかである設定……だよな?──え? 本当にここが異世界だとでも言っているのか?)
俺は思考を加速させた。
そもそも俺は年齢的にもおじさんだ。体も当然大きいはずだが、手足は短くまるで子供。この黒豹がれっきとした生き物であっても、何ら不思議ではないはずだ。
見たことのない風景に、悍ましい化物にも襲われた。
ここでは俺が知っている常識は通用しない。
まるで、まだ夢を見ているかのようだ。
困惑する俺に、ガルベルトが腕を組みなおして問いかける。
「貴殿、ひょっとして、記憶がないのか?」
(……記憶か。そう言えば、俺ってここにどうやってきたんだ? 何か忘れているような……)
ここに来る前の記憶──。
俺は昨日か一昨日か、時間感覚はわからないが、ほんの数日前まで確かに日本にいた。
名前は
クールとは名ばかりで人には裏切られ、都合のいい人として、数多の仕事を次から次へと押し付けられ、損な役回りばかりだった。
結果、人との関わりを避けたくなったといったところか。
……
………
…………
『お先に失礼します』
『あいつ、もう帰るのかよ。気楽でいいな、独身は』
『瀬野さん、明日はお休み取られてますけど、緊急時はすぐに出社してくださいね』
『はい、わかってます、お疲れ様でした』
力無い言葉を脱ぎ捨て、俺はいつも通りに、職場を出て駐車場へと向かった。
仕事を終えた満足感など微塵もない。必死に頑張ってどうにか就職はしたが、仕事と休みの境界線すら見つからない。ただひたすらに、心が落ち着くことはなかった。
日々、休みは一瞬で終わっていき、仕事は無限牢獄にでも居るかのような……そんな、いわゆる社畜ライフ。
全ての仕事を否定する気はない。
世の中には思い通りの仕事につき、日々励んでいる人々もいるし、世界は誰かの仕事が繋がって成立し、働く人がいなくなれば、必ず困ることも出てくるだろう。
この仕事だって、どこかで役に立っているのかも知れない──そう思えていたことも、今となっては綺麗ごとで、抜け出すことができない自分には反吐が出る。
俺は35歳を過ぎたあたりで急に、
今日は特にだ。ハンドルを握る俺の手にも力がない。
仕事と家を往復するだけの毎日。
これが生きるってことだとすれば甚だ疑問だ。
気が付けば、息をするかのように溜息ばかりが零れ落ちている。
俺はずっと我慢してきたし……歯を食いしばって、ずっと耐え続けてきた。
それが正しいと思ってきた。
だが、もう限界なんだろう。
どこかに消えてしまいたい──そう思えてくる。
いつもの通勤路、通り慣れた道。
路面のアスファルトも目に映る風景も、俺には同じ色にしか映っていない。
──彩なんて、最早感じないんだ。
坂道を上りカーブに差し掛かる。
そして、次の瞬間、俺は対向車のライトに目が眩んだ。
ガガーンッ!
鋭く激しい金属音が鳴り響いた。
俺の車はガードレールを突き破り、宙を舞っていた。
(あぁ……なんか、やけに動きがゆっくりに見えるな)
俺に慌てた様子はなかった。
死ぬ間際って、時間の流れがゆっくりになるって聞いていたけど、本当だったんだ。
(──これで終わりか。心配ばかりかけて、親孝行もあんまりできなかったな……)
浮かんできたのは母親の顔だった。
母子家庭に生まれた俺は、散々苦労をかけっぱなしだった。
大人になってからというもの、仕送りはしていたが、笑っている姿を見せることは自然と無くなっていた。子供の笑顔が一番の親孝行とも言うらしいが、そう考えるなら、あんまりどころか全然できていない。
なんだったんだろう、俺の人生。子供の頃はよかった。
過去に戻ることができたら……やり直すことができたなら、こんな人生には二度としない。
(──絶対に……絶対にだ。もっと、笑っていたかったな……)
意外にも人生最後の時間、走馬灯とでも言うのか。
──結構、長い。神様も残酷なものだ。
しっかりと後悔しろとでも言っているのだろうか。
(あれ? これは何だろう……)
どこからともなく現れた白い光の塊が、俺の体を包みこんでいく。
だんだんと周りが見えなくなってきた。
(俺の人生もこれまでのようだ……)
…………
………
……あれ?
俺は無意識のうちに、ここに来るまでの記憶を辿っていた。
(そうか、思い出したぞ。俺、あのとき事故ったんだ……。やっぱり、この展開だと、死んだ?)
目の前にある、夢か現実か分からない光景と苦しかった過去の記憶。
二つの世界が同じ線上かなんて分からないし、今となってはどうでもいいことだ。
──ただ、一つだけハッキリした。
俺は前の世界を離れて、この世界に降り立ったということ。
今いる世界は、もう前の世界とは違う。
そう納得することに何ら支障はないし、後悔もない。
悔いがないからこそ、俺はここで目覚めた時、自分に起こったことに冷静でいられたのかもしれない。普通なら驚くことでも、前よりマシだと、寧ろよかったじゃないかと、無意識下で思っていたのかもしれない。
(ま、強いて言えば、母さんを一人残してきたこと……。それだけは、心残りと言えばそうだ)
でももう、俺は今ここにいる。
あの世界の歯車としての役割を演じる必要はなくなったんだ。
(──きっと、母さんなら「頑張りなさい」と背中を押してくれる……)
俺は唇の端を吊り上げ、ぎこちない笑顔を作った。
これから自然と笑えるように、それが俺の親孝行であり、前世への償いでもある。
それに形はどうあれ、夢は叶った。
こうしてもう一度、新しい世界で人生をやり直すことができる。
新たな門出、異世界転生とでもいうのか。とにかくここからが本番だ。
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