〈1〉第3話
目覚めると気持ち悪い汗をかいていた。浅い睡眠のせいでおかしな夢を見た。何やら戦っているようだったが……忘れてしまった。ただとにかく全身を伝う汗が気持ち悪くて、早急にシャワー室に飛び込んだ。
──なんて夢だ……。
もうほとんど記憶から詳細は消え去っていた。ただ、全身に嫌な汗をかくほどの悪夢だったような気がする。内容は覚えていなくても嫌な気持ちだけが残った。眠りが浅いせいで夢を見ることは少なくなかったが、たいていは日常の延長のような夢ばかり見ていた。
しかし何なんだろう。アニメの見過ぎ、というほど動画は好んで見ないし、趣味の読書では古典を選んで読む。ロボットアニメなんて噂程度にしか知らない。
「白い……巨人」
それだけが強く脳裏に残っていた。
シャワー室から出て頭をぶるぶると振り、濡れた犬のような髪をタオルで拭う。全身を拭き上げてから新しい下着を身に着けた。それから制服を着る。汗ばんだ身体は快適になったが、気持ちはまだ晴れない。日向の中ではなかなか見ないタイプの夢だっただけに、後味の悪さだけがいつまでも残っていた。
時計を見ると、まだ半分休憩時間が残っていた。短い間に見た夢だったようだ。
日向はそのまま仮眠室を出て食堂へ足を向ける。細身で華奢な体つきの割にはよく食べると言われているが、幼い頃から家族全員が同じタイプで普通に暮らしてきたのであまり実感はない。ただ、同僚と割り勘をするのはなんとなく気が引ける程度には自覚はあった。
相変わらずカツ丼を注文し、窓際の片隅で早食いをする。早食いをするから大食いなのだと以前誰かに言われたことはあるが、カツ丼をしっとり食べる気にはなれない。丼ものはやはり「ガツガツ」という感じで食べるものだろう、という妙なこだわりで、今日も日向は十分未満で平らげた。
「おやおや、主席サマは休憩ですか」
覚えのある歪んだ声に顔を上げると、そこに瀬川涼介の姿があった、今から食事のようで、手にはまだ何も持っていない。
「主席サマ」とか「エリート様」などという言い方をするのは涼介だけだが、それほどに根深い嫉妬心があるのだろう。ただ、日向は気付かない。自分が主席入局だったことは知らされたが、二番手が涼介であることも知らないし、興味もなかった。
「瀬川さんも休憩ですか」
「短い方のね」
宇宙局には三つの休憩がある。六時間眠れるシフト休憩と、仮眠や食事を摂る三時間休憩、主に食事を摂るだけの一時間休憩だ。
「俺は食べ終わったんで、もう行きますね」
気を遣ったわけでもなければ、涼介を避けたわけでもない。言葉通り、日向は自分が食事を終えたからもう少し休んでから仕事に戻ろうと考えただけだ。だが、それが涼介の癇に障ったらしい。
「あらまあ、雑魚とおしゃべりする暇は無駄って?」
挑発するように涼介は腰を折って、座った日向を覗き込む。日向の目には何の色もない。
「何か用事でもありますか?」
「用事がないと話しかけちゃいけないのかな」
「そういうわけではないですが……」
確かに今すぐこの場を立ち去らないといけない理由はない。ただ、日向としては自分を嫌っていることが目に見えている涼介と仕事以外で接する意味も見出だせなかった。
「もうすぐ休憩が終わるので。失礼します」
それは事実だし、どうしても用事があるのなら引き止めるだろうと思い、日向は再度席を立とうとする。今度は涼介も止めなかった。ただ苦虫を噛み潰したような不機嫌な表情を顕にしているだけだ。
軽く会釈をして丼の乗ったトレイを持って立ち上がる。片手で椅子を仕舞い、食器返却口までトレイを運んで食堂を出た。一度も振り返らなかった。
日向が食堂を出てから涼介は苛立ちが膨らんでいくことに気付く。
「……くそっ」
拳でテーブルを叩いて、両手で髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。それから天井を仰いで深呼吸し、トレイを取って注文口へと向かった。
そんな複雑な心境になっていた涼介のことなどつゆ知らず、日向は休憩室で〈観測室〉のメンバーのシフトや休憩時間を確認し、頭に叩き込む。これは毎回のルーティーンだ。日向と入れ替わりの人員が休憩に入る前に〈観測室〉に戻る。自分に割り当てられたコンピュータのモニタをいくつかチェックし、休憩前と変わりがないことを確認した。
しかしやはり〈ひとみ〉の三番モニタの左下のもやが気になる。
──白い巨人。
不意に先程の夢を思い出した。すぐにバカバカしい考えを打ち消す。これはただのスペースデブリだ。〈計測室〉でもお墨付きをもらったただのゴミの集まりなのだ。それが白い巨人になるわけがない。そもそもスペースデブリは無機物だ。何故戦う必要があろうか。
日向は故意にそこを意識しないように努めながら、他のモニタにも目をやる。宇宙にはゴミだらけだ。過去に打ち上げて回収されなかった人工衛星、打ち上げや帰還の途中に失敗したシャトル、そして数々の遺骨や遺品たち。
そもそも宇宙葬について、日向はあまり賛成ではない方だった。確かに地上には土地がない。農地はビルになってバイオテクノロジーで野菜を育てているし、商業施設は遊技場だけでなく居住区も兼ねている。
二〇三〇年を過ぎた頃から突如として人口増加に転じ、人が住む場所さえ圧迫されている。そうなると死者の場所などなくなっていく。墓を掘り返し、遺骨を散骨機に乗せて宇宙にばら撒くという考えは安直だが、理に適っているだけに敢えて反対票を投じる気にもなれなかったのは事実だ。
そんな自分がまさかその宇宙ゴミを観測する仕事に就くとは因果なものである。もちろん、見ているのはゴミばかりではないのだが。
〈観測室〉では宇宙ステーションとのやり取りも頻繁に行うし、発射されるシャトルや衛星のその後を追ったりもする。観測機〈ひとみ〉はその役目を一身に背負い、四角い箱のような形状のすべての面に付けられたカメラからの画像を地球に送っているのだ。
言ってみれば〈観測室〉は宇宙全体を見渡して変化や脅威がないかを観察する部署であり、〈計測室〉ではまだ何も起こっていない段階から将来を見据えて地球付近を通る隕石などの計算をして、場合によっては軌道を逸らしたりする役目を担っている。
光と影のような関係だが、連携や情報の共有は一番重要だった。何しろ〈観測室〉には落下してくる隕石の軌道は追えても、それを逸らす手段は持っていないのだ。直接的に宇宙からの脅威に介入できるのは〈計測室〉ということになる。さすがは花形部署だ。
「日向」
モニタに見入っていると、奈沙が声を掛けてきた。
「はい?」
姿勢を正し、声のした方に振り返る。
「休憩はしっかりしたか?」
しっかり、と言えるかどうかはわからないが、悪夢に起こされて涼介に声を掛けられた以外はいつも通りの休憩だ。
「はい」
そう答える。奈沙はふんと鼻を鳴らして、連絡事項を伝えた。
「先程〈計測室〉から情報の共有があった。お前の気にしていたスペースデブリから、一部剥離があったらしい。大きな隕石にはならないが、成層圏で燃え尽きずに地上に落下しそうだということだ。危険はないが、一応知らせておくという」
「そうですか。ありがとうございます」
剥離。そして落下。地球の引力に引かれ、ゴミの塊の一部が墜ちてくるという。衛星の一部か、遺骨の一部か。もしくはその両方か。
小石程度の大きさであっても、勢い良く人間の頭部でも直撃すれば大怪我をするだろう。
「場所はわかりますか?」
「安心しろ。なんとこの施設の敷地付近が可能性の範囲に入っている。民間人の住む場所に落ちる可能性もなくはないが、かなり低いと見ていい」
「安心しました」
表情一つ変えずに日向はそんな言葉を口にする。もちろん心からそう思っているのだが、いまいちその心境が周囲には伝わりにくいのだ。
それを知っている奈沙は、相変わらずだな、と心の中で呟いた。
五年前、自分も入局三年目という時に、日向の教育係を担当した。子犬のように黒目が大きく、アドバイスにも忠実だった。いちいちメモをとり、「〜ということですね?」と確認してきた時は、さすがに主席入局者は違うのだなと思ったものだ。
主席入局の日向に付いたのは、自身もその三年前の時の主席入局者だったからだ。祖父の七光だと思われたくなくて、猛烈に勉強した。女性だからとバカにされたくなかったということもある。女性初の主席入局者ということで、それはそれで性別による差別感が身に沁みたが、宇宙局では基本的に男女平等だ。だから奈沙は入局わずか八年で〈副長〉の肩書を持っている。ただし、これ以上上にいくことはないだろうけれど。
教育係を担当した時の日向は、真面目で用心深い性格だった。〈観測室〉の仕事はそう難しいものではないが、非常コールの際にはとても重要な立ち位置になる。まさに万一の時の頭脳であり、瞬時の判断が迫られるのだった。
日向にはセンスがあった。そして勘も鋭く、洞察力もあった。毎日毎時間モニタの確認をするのがメインという地味なくせに疲れる仕事も、文句も言わずにこなした。何より、日向は夢中になると寝食を忘れて仕事に没頭する癖がある。それを管理する方が大変だった。
「まだ大丈夫です」と言う日向に、何度休憩の重要性を説いたことだろう。どんなにショートスリーパーと言えども、まったく寝ないで済む人間などいない。下手をすると、睡眠不足で死亡する例もあるのだ。奈沙は仕事の内容よりも、休憩の重みや日向に倒れられたら困るということを滾々と説明した。
あれからもう五年か、と思うと感慨深くもある。日向も三年目でその年の主席入局の職員の教育係を経験しているが、その人物は今はもういない。退職したのだ。「自分は宇宙局には向かないようです」というのがその理由だった。日向の教育がどう関係しているのかはわからなかったが、宇宙局では自主的に辞めると言う者を中途半端に引き止めはしない。だから彼は既に一般的な民間企業に勤めているのだろう。
その時に日向が言った言葉がある。
「俺の教え方が悪かったのかな?」
初めて聞く日向の自己を省みる言葉だった。真実は辞めた本人にしかわからないが、日向なりに気には掛けていたのだと知り、奈沙は意外さに驚いた。
「お前のせいじゃない」
奈沙はそう言った。真相がわからない以上、悩んでも仕方がない。試験の成績が良くても、現場の空気に馴染めなかったりすることもある。見る限りでは日向はしっかりと教育係をこなしていたし、問題はなかったと思う。言い方がドライなのは日向の癖だし、いちいち気にしていたら身が持たない。早々に「この人はこういう人なのだ」と理解させる必要がある。
その点では日向はわかりやすい方だ。悪意もなければ嫌味もない。ただ純粋に後輩に仕事を教えていた。しかも非常にわかりやすかった。だからきっと、辞めた職員も日向を恨んだりはしていないだろう。ただ自分の肌に合わない職場に入ってしまったことを実感しただけだ。
彼が辞める時も、日向は「そうですか」と無感情に言っただけだった。何も掛ける言葉はない。仕事も淡々とこなし、ミスと呼べるミスもせず、物忘れもしない日向は、それからも黙々と仕事をした。辞めた職員のことはもう頭の外に出したようだ。
奈沙自身、あまり感情を表に出す方ではない。だから誤解もされるし、敬遠もされた。それでも気にせず仕事を続けて今に至る。〈副長〉の自分を追い越して〈局長〉に座るなら日向だろうと感じていた。そして、そう願ってもいた。
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