第七話 日本語ってなんですかい?


 白河邸にはプロテインが存在しない。それは光彦の身体の隆々ぶりを見るに、恐るべきことだった。

 オレはてっきり、お高いプロテインを泥棒の魔の手から逃れさせるためにどこかにひそひそ隠しているものだと思っていたが、それは違う。

 昔エロ本隠してたベッドの下には何かトゲトゲしてて黒塗りのカタナみたいな変なのしかなかったし、あるとしたら天井裏とか怪しいと思ってたんだが。

 オレは、漫画とパステルカラーに溢れた部屋の中にて思わず零す。


「どう見てもここにもプロテインはない……まさか光彦がナチュラル食品オンリーでこの身体を作っていたとは……」

「はは。この積み上がった漫画本の山を見た第一声がそれって、やっぱりかさねちゃんはどこかトんでるね……」


 続けて僕はここに上がる度にこの大量の本が未だ重みで床を抜いていないことを不思議に思うよ、とぼやく光彦をオレは見つめる。

 まさか、コイツを包んでいるその分厚い肉の鎧にあの癖になる味した粉が関わっていないとは、驚きだ。そして楽しなくてこのキレということは、彼は余程コントロールされた食事を採っているに違いないのだ。

 光彦の意外な修羅を発見したオレがおののいていると、かやの外にあったお嬢様がぽつりととんでもないことを言った。


「そうね。筋肉なんてブサイクなものでしかないのに……」

「あ、お嬢様。それ、ステノラグニア筋肉性愛のヒトには絶対言ってはいけないヤツです」

「へ? ステラ……何?」

「筋肉が、ブサイク……それ、本気で言ってんのか?」

「ほら」

「わ」


 自称吸血鬼な彼女のあまりの暴言に、オレは思わず怒髪天を衝くことになる。ツインなテールも揃ってぷんぷんだ。


「イクス。それは違う!」


 そうそれは、あまりに流行りに囚われた間違いだった。

 確かに、三咲のEカップの注目度を見るまでもなく、ふっくらした身体にだって魅力はたっぷりあるのだろう。

 よく分からないが、スポーティと呼ばれる肉と脂肪を削いだばかりの痩身も、この富み過ぎた時代には美しく映るに違いない。

 それを考えれば、時代外れのデカいばかりの筋肉が、野暮ったいと思われてしまうのも仕方がないとは思う。だが、思うだけだ。

 なにせ、筋肉とは絶対的に。


「格好いいんだ!」


 そう、間違いない。力こそ、パワーなんて名言をオレはどこかで聞いたことがある。それってつまり、力ってものは代えがたいってことだろ、多分。

 そんな力の源である筋肉の凄まじさを、当たり前過ぎて皆忘れているのだ。それが、オレには悲しい。だから、その価値を思い出してもらうためにも、とオレはイクスを誘う。


「だから、一緒にトレーニングをしよう!」

「えー? どういうことよ」

「それは一緒にやれば分かると思うぞ! まずはスクワットからどうだ?」

「わ、引っ張らないで……って、この子力強いわねっ!」

「おおっ、イクスは筋肉なしでこのパワーとは、見どころあるぞ!」

「そんなのあってたまるもんですか!」


 そうして、オレとイクスは筋トレするしないで、けんけんごうごう。引っ張ってみれば意外な力で耐えられて、追いかけてみればオレより素早いみたいだ。

 なるほど、彼女は素晴らしい素材だ。これに筋肉を付けたら最強に違いない。そう思って目の色を変えたオレ。


「お待ち下さい」

「わっ、と」


 もっとを求めて足に力を込めようとしたそんな時、しかしその前にうそっこメイドさんが現れて行く手を遮る。オレがどうしたのか首を傾げると、彼女は光彦の手を引き、言うのだった。


「これ以上暴れられては本が崩れてしまいます。それでは白河様……お願いします」

「はぁ。どうして僕がこんなことを……ほうら、かさねちゃん、キミの大好きなサイドチェストだよー!」


 そして、オレの前で行われるのは光彦のポージング。その、服の上からでも分かる程の血と汗の結晶であるところのぶっとい筋肉を魅せられてオレは思わず声を上げる。

 というか、声をかけざるを得ない。こんな凄いもの、観衆がなかろうが魅力を分かりやすく言語化しないとダメだよな。


「おおっ! 胸板がシャツを突き破らんばかりにぱんぱんだ! それにハムストリングスもキレすぎてて、まるで筋肉幹線道路みたいだな!」

「最早褒め言葉が凝りすぎてて意味分かんないね……」


 微妙な表情をしている光彦を他所に、目の前で始まった小ボディービル大会にきゃっきゃ喜ぶオレだった。

 なんか忘れてる気がするけど、そんなのどうでもいいな。未来の筋肉より目の前の筋肉だろう。オレのツインテールも、うっきうきだ!



「……お嬢様、大丈夫ですか?」

「ちょっと本気で逃げたわよ……流石に同類ね。あまりのバカぶりに他の吸血鬼の眷属かただのバケモノ英雄級の人間じゃないか、って疑念もまだ少しはあるけど」

「……ここに揃っているだけでもヤンデレに筋肉フェチですか。やっぱり吸血鬼は変わったヒトが多いですね」

「ちょっと、ワタクシはヤンデレなんかじゃないわよ! それに、やっぱりってどういうことよ!」


 だから、そんな二人の会話はオレには聞こえない。





「ふうん。片足を引きずっている老翁の吸血鬼? それなら、ワタクシに心当たりがあるわ」

「そうなのか」

「ええ」


 オレの言葉にちょっと綺麗過ぎてボディにいささか迫力が足りていない自称吸血鬼は碧い目を瞑ってから頷く。

 漫画の山で――どうやらイクスの趣味らしい。ジャパニーズカルチャーはクールね、とか言っていた――狭くも塵一つない綺麗な屋根裏部屋にて出された紅茶で喉潤しながら、オレはあの夜出会ったお爺さんのことを話していた。

 言付けされた以外にも中々印象的だったな。そもそも外の国の人ってだけであまり見ないのに、イクス並みに日本語ペラペラだったし。

 吸血鬼とかよく分かんないし、ただのいい人っぽかったけどなぁ。でもあの人のこと知ってるってことは名前とかも分かんのかなと思っていると、イクスは紅茶の縁を白魚の指先でおもむろになぞってからその名を口にした。


「そいつは、ジョン・ドウ。生ける死人よ」

「なるほど、あの人ジョンっていうのかー。フルネームも短くて覚えやすいな」

「いや、かさねちゃん。気にするところそこじゃないよ。……イクス。生きてるのに死人ってどういうことだい?」

「お?」


 ぼやっとしたままだったオレを他所に、真面目に食いつく光彦。

 指摘されて、そういえば生きてるのに死人って変なんだな、って感じた。死人が生きてるなんて、自分がそうだからそんなにおかしなことだと思ってなかったんだよな。

 それを鑑みるとあの時ジョンに死とか軽く口にしちゃったのはマズかったか。気にしたようじゃなかったから助かったけど。

 オレがちょっと反省してると、イクスは話を進めていく。


ジョン・ドウ名無しの権兵衛。ただの、王族殺しの咎で処刑され、墓から名前も削られた吸血鬼が、未だにうろついてるだけのこと」

「どういうことだ? しかも王族殺し? それは……」

「ええ。アレの牙ならワタクシだって刺し貫けるでしょうね。次はワタクシだって言ったのは、つまりそういうことでしょう」


 王族。お墓から出てうろついてる。聞いたオレは、吸血鬼っていうのにも色々とあるんだなと思う。

 そして、遅れてオレは気づいた。王族殺しって、ダメじゃんって。それってつまりジョンが誰か殺してるってことだ。オレは思わず目を大きく見開いた。


「うん? ジョンは誰か殺したのか?」

「そうね」

「それは良くないな。しかも、イクスも狙ってんのか?」

「そうみたいよ?」

「そっか……」


 オレは思わず天を仰ぐ。そしてしばし。沈黙の中でぱたりという物音が聞こえたのでそっちの方へ向いた。

 すると、そこにあったのは、オレが前に小さかった頃に読んだ覚えがある人気コミック。古ぼけたそれは、さっきオレがちょっとどたばたしてたせいで耐えきれなくなって今落ちてきたのだろう。

 ぱかりと開かれたそのページでは、敵の手によって味方が殺されたことに嘆く主人公の姿が見て取れた。主人公は、悲しみ、怒ってる。


 オレは、ああだからそういうの良くないんだよな、って思う。


 ずっとオレを観察していたようだった、サオリさんは、そこで紅い唇をおもむろに開いた。


「……重様。それを聞いて貴女はどうしたいのですか?」

「そんなの、ダメだって言って、止めないとな」


 それは、当たり前のこと。悪いことなんて、しないほうがいい。だって、そんなことするとお母にぶたれるし、そうじゃなくたって誰かが悲しむから。

 そんなの、ヤダな。別に、皆幸せになればいいとまでは思わないけど、誰かが辛いとイヤだとはオレも思うんだ。

 そう思い、善は急げとこの場から発とうとしたオレに、隣から太い声がかかる。


「いや、やめるんだ、かさねちゃん。これ以上、キミは関わっちゃいけない」

「む、光彦。どうしてだ?」

「だって、キミが危ないから」


 危ないからやめろ。そりゃ当然だろう。

 光彦は、優しい。だからそんなことを言うんだ。まったく、危ないからいいんだって服のきわどさを語ってた、昔の変態エロエロぶりはどこへ行っちゃったんだろうな。


「あはは」


 全く、そんな優しい言葉でオレが止まるわけないって、ちょっと考えれば分かるだろうに。

 オレは、笑った。


「はは。バカだなー、光彦は」


 大っきくなってもそんなところは変わってないんだな。心配とかありがたいけど、オレには要らないものだ。

 だって、ちょっと危ないからってそんなもんでやりたいことをやらないなんて、あり得ない。オレはそんな危ない奴だって、コイツ忘れちゃったんだな。

 寂しいが、だったらもう一度思い出して貰えばいい。オレは、言った。


「危ないからやるんだろ? ぶつかるのを怖がってちゃ、なんも変わんないぞ? 誰もやってないなら、オレがやる。それに、どんな力持ち相手にだってダメなことはダメって叱ることは大切だろ?」

「それは、そうだけど……」


 なんだかコイツゴネるな。あ、そういえば今のオレって可愛く可憐なばかさねちゃんだったじゃないか。フェミニズムだかジャポニズムだか知らないけど、女性に弱いところのある光彦じゃ、そりゃやめろと言うな。

 どう説得しようかな、と悩むオレに、またサオリさんから冷たい声がかかった。


「――――そのために貴女が死んでしまうとしても、ですか?」


 死んでしまう。そういえばそんなことは考えてなかったな。まあ、しかしそれを勘定に入れてみたとしても、やることはなんも変わらないだろ。

 オレは、黒サテンに白フリルが嫌に似合っているサオリさんの無表情を見ながら、語る。


「ジョンはいいヤツっぽかったし、そんなことはないだろうけど……そうだな、もし信じて裏切られたとしても」


 オレは、光彦とは違う。他人が信じられないのに信じるのは大変なのだろうが、オレは他人を信じたいから簡単に信じられる。だからオレの信頼にはそんなに価値はないだろう。

 けれども、それが無意味じゃないとは信じたい。だからせめて、貫かないとな。オレは口角を持ち上げ、諭す。


「そん時はオレがバカだったってだけだろ?」


 後悔なんて、するはずがない。まあ、オレは天才だからそんなことはあり得ないだろうな、とは思うのだが。




「どう封印されたのか……まるで太陽みたいな吸血鬼ね……忌々しい」

「ふふ。まるでお嬢様と正反対ですね。相性最高です」

「……サイアクの間違いじゃない?」






「とはいえ、向こうから来なきゃそうそう出会えるもんじゃないよなー……どっかに居ないかなー?」

「重ちゃん、ここのところ何かずっと学校帰りにきょろきょろしてるよね。何探してるの?」

「んー? すっげえ悪いこと考えてる爺さん」

「重ちゃん、なんのためにそんなヒト探してるの!?」


 何故かびっくりして胸をぼよんとさせてる三咲を横目で見ながら、おれはきょろきょろ。しかし、どこにもあの特徴的なつばの広いカンカン帽は見当たらなかった。

 偉そうに光彦たちの前で啖呵を切っときながらオレは、しかし数日の間のんべんだらりと日々を過ごしていた。

 それもまあ、仕方がないだろう。ジョンじいさん、名前とこれまで何やってたかぐらいしか情報ないし。ああ、でもそういえば眉唾だけど吸血鬼だったな。

 だとしたら夜に探してたほうが効率良かったか。でも、育ち盛りのばかさねちゃんは、どうにも十時過ぎにはすやすやしちゃうから難しいよな。

 オレがそんなことを考えながら、三咲とくっちゃべりながら帰路を歩んでると。


「Hi! excuse me?」

「わ」


 ハーイと手を挙げて、英語使いらしき赤髪そばかすの少女がこっちへとやって来た。

 三咲は驚いた様子で声をあげていたが、これにはオレもびっくり。どうしようと、オレは慌てて得意ではない英語を使って返答しようとするのだった。


「えっと、あいきゃんすぴーくじゃぱにーず!」

「重ちゃん、それって当たり前! 流石に重ちゃんだって日本語は上手に喋れてるよ!」

「でもオレこの間現国赤点とったぞ? 出来るとは言ったけどオレは本当に日本語を話せているんだろうか……」

「ああ、なんでか自信がどっかいっちゃった! 重ちゃん、重ちゃんの信じる私を信じてー!」


 何か名言っぽいことを口にする三咲の隣でお母のげんこつを思い出して落ち込むオレ。

 前世を含めて学生生活はかれこれ二十年近くだ。その間ずっと、文系としてオレは国語を学んでいる。そんなオレが日本語を喋れていないとは思い難いが、どうなのだろう。

 なにせ、赤点なんて人生はじめてのことだったからなあ。今やちょっとしたトラウマだった。天才も挫折するんだな、初めて知ったよ。


 そんな風にちっちゃいオレは落ち込み、隣ででっかい三咲が慌てる。そんなコントラストが面白かったのか、声をかけてきた少女は突然笑いだして言った。


「ふふ、キグーですネ。ワタシも日本語喋れマース! さっきのはちょっとしたオフザケデース!」

「騙された! 中々やるねこの子! ……重ちゃん?」

「……三咲、この子の日本語、オレより上手かったりしないか?」

「まだ落ち込んでたー! 大丈夫だよっ!」

「ふふ、やっぱりパパが言ってた通り、オモシロイヒトデース!」

「ん? パパ?」


 天才というレゾン……なんとかトルが揺らいでしまって中々立ち直れないオレ。しかし、そんなザマでも耳は働いてその言葉は聞き取れた。

 パパが言っていた。どういうことだろう。彼女みたいな外の国の人と最近であった覚えは。

 ああ、沢山あったな。その中で男性と言ったら一人きり。とはいえ彼は父といった年齢ではなさそうだったけれど、果たして。

 首を傾げて尾っぽを揺らすオレに、オレより一回り幼い彼女はくすくす笑いながらはつらつと言う。


「ハイ! ワタシはジョンの娘、ジェーン・ドウ、デース!」


 まあワタシはあのヒトとオナジじゃないですけど、と続けて常識的な尖りの八重歯を日差しの元光らせながら、ジェーンはオレたちに笑いかけるのだった。



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