下コハリの手帖~見晴国怪異譚~

桃波灯火

第一章

八ノ一、蔓と花の少女

「おい、お前さん」

 農夫はおもむろに立ち上がった。俺の気配を感じ取ったのだろう。視線が交錯する。

「おい」

 農夫は怪訝な顔をしてこちらに近づいてきた。俺が言葉を返さないのに違和感を覚えたのかもしれない。

 ――それにしても不思議だ。先ほどから、口を開こうにも思うようにいかない。けれど、自分の意識とは無関係に動いたりするのだ。

 農夫が目の前に立つ。こちらの顔を覗き込むと、ため息をついた。

 農夫が作業に戻る、俺には目を向けず。

 「待って」、そう言おうとした。「ちょっと」、手を前に出そうとした。「あの」、一歩踏み出そうとした。

 言えない、動けない。思うようにいかない。


 あれ? 俺は、だれだろう。


 言いたい、動きたい、そのような欲求が薄れていくのが分かった。意識が空中に溶け出していく感覚。混ざって、伸びて、一緒になる。

 ふと、農夫より後ろ―――畑を越えたあぜ道にいる人物と目が合った。その人物は数舜、僕と目を合わせてから後ろを向く。

 「待って」、声をかけようとした。俺はあの人を知っている気がする。しかし、やはりか声が出なかった。

 その人物は私から離れていく。

 僕を……、いかないでくれ……

 その人物が離れていくのと比例するように、俺の意識は世界に溶けていった。 



 どれくらい歩いただろうか。それが分からなくなるくらいには歩き続けている。

 疲労は足裏から頭に上ってくるように伝わってきており、にじみ出た汗はゆっくり顎まで滑ると、不快感を残して足元に落ちた。

 見上げれば空は木々によってふさがれていた。薄く生き生きと羽を伸ばした葉を透過させ、木漏れ日が注ぐ。

 時刻は正午。陽は真上にあった。

 一時の晴れ舞台に上がった植物たちは、次の時を待ってうごめいている。春が終わり、新緑の季節だ。

 汗をぬぐおうと左手を上げる。

 ……おっと。

 左手には包帯を巻きつけていたのを忘れていた。汗を吸わせると臭くなってしまう。カバンから布切れを取り出して汗をぬぐった。とくに首回りを念入りに。

「これはまた難儀な服を手に入れてしまった……」

 一番上のボタンなるものを外す。まだ嫌な感覚は抜けない。さらに二つ目も外す。

 街道で出会った商人に売りつけられた上下服。上は白のチュニック、下はスラックスというらしい。

「あぁ、気持ち悪い」

 チュニックの腕周りにあるボタンも外してしまう。この締め付けは何なのだ。

 あの商人は異国の基本服だと言っていたが、これほど着心地が悪いものが普及されてたまるか。

 思わずため息をこぼしてしまう。

 ――そろそろ飲み水が底をつきそうだ。どこか補給ができる場所を探さなければならない。

「あの商人、覚えておけよ……」

 恨み節を垂れ流し、足元の悪い道を歩く。

 ガサッ。

 ふと、右斜め前方で草むらがうごめいた。その後すぐに、パァンッと轟音が耳を突き刺した。反射的に地面に腹ばいになる。すぐに体をひねると、転がって移動。背中が木の幹を打つと、音がした方向と対面になるように木の裏へ。

 あの音は―――銃声。

「待て! 動物じゃない、お前が撃とうとしているのは人間だ!」

 自分の叫び声が響く。しかし、返答が来ない。しばしの沈黙、葉のこすれる音が世界を支配した。

 ……いなくなったのか?

 ここをすぐに離れなければ。できれば水と食料をもらいたかったが、撃ってくるような奴なら仕方がない。あきらめて去ろうとしたとき、「あの」と耳元で声がした。

「ッ!」

 間髪入れずに声のした方向へ肘を打つ。間はほとんどなかったと思う。しかし、ドッという鈍い音とともに受け止められた感触。

「驚かせてすまない、近づいたのは軽率だった」

 敵意はなさそうな声。ゆっくり振り返ると、一尺ほど自分より高そうな背の男がいた。

「狩りをしていたんだ、君を動物だと勘違いした。すまない」

 男が頭を下げる。ボロい着物を着た背中には、大きな銃があった。

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