第29話 火の前で
もろもろの手順が終わり、私たちのグループは目の前のぐつぐつと煮える鍋の中身の完成を待つだけとなった。隣には問題児の妹ちゃん。彼女は甘口のカレールーをじっと見つめている。
「ぐつぐつ……カレーのにおいはいいものだね」
カレーの匂いを嗅いでいる妹ちゃんは、クールな顔ながら楽しそうな雰囲気なのがよくわかる。
「カレー好きなの?」
「うん。スポーツマンでカレーが嫌いな人はいない」
「そうとは限らないと思うけど……カレーは好きなのに辛いのは苦手なんだね」
「あれ、先輩にその事話したっけ」
「百瀬さんに聞いたの」
「へぇ、お姉ちゃんと仲良いんだ」
妹ちゃんはカレーを軽くかき混ぜてから、私のほうに振り返った。無表情な彼女だが感情は分かりやすい。私とは違って何も隠さずはっきり言う、純粋で単純な子だから。でも今は彼女の考えていることが分からなかった。
「先輩は幸せ者だね」
「え、いきなりどうしたの」
なぜいきなり私を幸せだと言ったのだろうか。話の流れ的に百瀬さんと仲が良いからみたいだけど、彼女と仲が良いことと幸せ者であることに何の因果関係があるのだろうか。
「お姉ちゃんと友達になれる人は幸せ者だよ」
「お姉さんがすごく好きなのね」
「好きだし、尊敬してる。お姉ちゃんの妹な私は、先輩より幸せ者かもね」
この子は何も取り繕わない性格だ。そんな彼女にここまで言わせるなんて、彼女から百瀬さんはどう見えているのだろうか。
「どういうところを尊敬してるの?」
「まず優しいところかな。私は頭が悪いからさ、お姉ちゃんにたくさん迷惑かけたと思う。普通なら嫌われても仕方ないくらい」
今でさえ危うく山火事を起こしかけるレベルだ。しかも一切の悪気なく。幼い頃はそれはもう大変だったろう。
「でも、お姉ちゃんはずっと私のお姉ちゃんでいてくれた。ずっとそばにいて面倒を見てくれたし、バスケの試合で勝った時は褒めてくれたし、どんな時も寄り添ってくれた。中々いないと思うよ、あんなお姉ちゃん」
百瀬さんがそういう態度を取るのは想像に難くない。というか、人を嫌ったり誰かに怒ったりしてる姿が想像できない。
自分を肯定してくれる存在が近くにいて、何があっても味方でいてくれる。だからこそ妹ちゃんはこんな良くも悪くも真っ直ぐな性格に育ったんだろうな。
「それと、人のことをちゃんと見てくれるところ。誰かの苦しみを機敏に察してくれるんだ」
「……そうね」
百瀬さんは私が覆い隠そうとしたもの、私自身が気付いていなかったものに気が付いてくれた。完璧であったはずの私の綻びを見逃さなかった。
彼女の前で涙を流してしまったのは、きっと彼女には人を見る力があるって分かったから。ジッと私の心を見据える目に観念して、自分の弱みを曝け出してしまえた。
「葵さんもそうだったみたいだけど、苦しい時はいつも隣に居てくれるんだ。先輩もそう思う時があったみたいだね」
「……よく分かったわね」
「意外とわかりやすい反応してるよ、相神先輩って」
そうなのだろうか。それとも姉譲りの人を見る力が彼女にもあるからなのか。どちらにしても私は百瀬姉妹には心が見透かされてしまうようだ。
「そして、心が強いところ」
「……うーん、それはよく分からないわね」
「まぁ、お姉ちゃん自身がそう思ってないみたいだからね」
妹ちゃんは追加の薪をくべながら控えめに笑った。百瀬さんの心が強い……私はあまりそう思えない。彼女が優しくて人を見る力があることは認めている。
でも、揺らがない強い心があるとはとても思えない。私とナンパ男達の間に入ったはいいけど、結局押されていたし、グループを組んだ時だって動揺していた。向こう見ずな優しさはあるけど、それに釣り合わないメンタルな人。私の評価はそんなところだ。
「普段はそんなにだけど、一度決心したなら何があっても揺らがない。実現させるために努力を惜しまないし、どんなに苦しくても自分の足で進み続ける。そんなところを尊敬してるんだ」
「そっか……私にはまだ分からないけど、妹ちゃんが言うならそうなんでしょうね」
話した回数も顔を合わせた回数もそんなに多くない。でも、姉を語る時の彼女は特別な表情をしていた。そんな気がする。
ずっと近くで見ていた家族からここまで尊敬される、私の知らない百瀬さん。そんな彼女も知ることができたのなら、私の目に映る景色の色は増えるのかな。
最初はヤヨちゃんに声が似ている事以外どうでもよかった。でも、あの日、久々に人前で涙を流した時から、私は百瀬さんのことを知りたいと思っている。私自身のことを知るためにも。
百瀬さんとの友情が私を変えてくれるかも知れない。そんな淡い期待が、純粋な妹ちゃんがここまで尊敬しているという事実の裏付けによって強くなる。百瀬さんが妹ちゃんがいうような人間なら、本当に何かが変わるかもしれない。
「相神先輩、お姉ちゃんはそういう人なので、友達になれてとてもラッキーなんです。そこの所よろしくお願いします」
「うん、そうね。私も百瀬さんと友達になれて良かったって思ってるわ」
これは紛れもない私の本音。百瀬さんと友達になってから、空っぽで退屈だった日々が少しだけ色付いた。明日の自分に希望を持てるようになった。
まだ何かが解決したわけじゃない。自分の心を完全に理解できたわけじゃない。でも、少しでも前を向いて歩けるようになったのなら、今はまだそれでいいと思える。
「カレー、そろそろかしら」
「うん。いい匂い」
日が傾き、広場が橙色に染まる。たくさんの生徒達が行き交う道を、完成したカレーの鍋を持って歩き、百瀬さん達が待つ場所に向かう。
この林間学校の三日間はいい思い出になりそう。甘いカレーの香りを嗅いだら、そんな予感がした。
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