第36話
シーは見た事の無い顔になる。悲しいとも苦しいとも取れる形で眉を曲げていて、でも紅潮していて、胸が締め付けられていると言うんだろうか色んな感情が一気に押し寄せて、自身さえどんな顔をすればいいのか分からなくなっているような、そういう顔。でもそれは確かに、いつも無表情を貼り付けている器用さとは無縁な、心からの表情だと分かった。
シーはその表情のまま暫く沈黙して、発しようとした言葉を引っ込めてを何度か繰り返すと、やっとの事で俺から目を逸らしながら言う。
「……困らせないでよ」
否定的では無い、かと言って肯定もしていない、酷く困惑した声だった。
シーが好むような言葉じゃないと分かっていた俺は、それでも内臓がずしりと重くなったような疲労感を隠して尋ねる。
「返事は今すぐじゃなくていい。でもこれが俺の本心だ」
「タイミングが悪い。戸惑わせたくて言ったでしょ」
「今しか無いと思って言った」
「分かった、分かったから今あんまりじっと見ないで。
いや、案外いけそうか? シーはもう俺から顔ごと視線を逸らすと、手でパタパタと顔を仰ぎ出した。ウルフカットの隙間から真っ赤になっている耳が覗く。
いやいや浮かれてる場合じゃない。炎天下を走ったり歩いたりと散々移動して来たんだ。倒れられたら洒落にならない。
「水でも買って来るか? お前結局、懐中電灯しか買ってないだろ」
「いいって本当に。やめて」
コンビニへ引き返そうとしたら、団扇代わりにしていた手で腕を掴まれた。気の所為か、声がやや尖っている。シーはそのまま俺を正面へ引き戻すと、手を離して言った。
「それに、それとうぐいす旅館に向かうかの判断は別問題」
シーは冷静を取り戻したのか、逸らしていた顔を俺に向ける。まだ頬は微かに赤いが、
「私は、誰か一人の為になら、他者や他のものを軽んじても構わないって感性が乏しい。望む結果が欲しい為に削るべきは、それを望む自分自身だって思うから。だから私自身が納得するまで、調べる事はやめない」
俺は肩を竦める。
「分かってるよ。これぐらいで引き下がる奴だったら、ここにいない」
そしてうぐいす旅館については、図書館でおきつね様を調べる合間に二人で検索してある。ここからたった一駅先にある、高速道路沿いの山中にぽつりと放置された温泉旅館だ。
シーは、コンビニの袋から取り出した懐中電灯を俺へ渡す。
「ちょっと電話するから待ってて」
「おう」
親に帰りが遅くなるって一本入れるとか? もう太陽も沈んで真っ暗だし。
シーは取り出したスマホに、直接番号を打ち込み出す。親の番号を登録してないなんてあるだろうか。今時友達の番号だってメッセージアプリで登録し合ってるから、番号をいちいち手入力する相手なんて、赤の他人ですと明かしてるような事になる。
「誰にかけるんだ?」
「元カレ」
「はっ!?」
入力を終えたシーはスマホを耳に当てる。咄嗟に身を乗り出していた俺は沈黙を押し付けられ、耐え難い歯痒さと混乱の中シーが話し出すのをじっと待った。
だが幾ら待ってもシーは口を開かない。シーも相手が応じるのを待つようにスマホへ目をやっていたが、不意にあっさりスマホを持つ手を下ろし電話を切った。
「いいよ。行こう」
「いやいやいや! 説明しろよ!」
歩き出そうとするシーの正面に立ち行く手を阻む。
「元カレ!? お前彼氏いたのかよ!? いつ!? どんな奴だよ!? 聞いた事
「冗談だよ。廃墟に行く前に元カレに電話したいって心境意味不明だし」
「だからそれを説明しろって言ってんだっ!」
「だから冗談。家にベース置いて来る。山に入るには流石に邪魔」
シーは背負っている楽器ケースを指すと、家へ歩き出した。シーの家は駅のすぐ側なので、向かう方向は変わらないが。
呆然としていた俺は、すたすたと離れていくシーへ慌てて追い付くと顔を覗き込む。
「じゃあ誰にかけたんだよ? 手打ちしてたから親じゃねえだろ?」
シーは必死に尋ねる俺が面白そうに、小さく噴き出した。
「だから、元カレじゃないって」
引き締めた表情で「後で話すよ」と付け足すと、ふざけていい時間は終わりだと言うように話さなくなる。
何でそんな冗談を言われたのかさっぱり分からないまま駅に近付いて来ると、俺も冗談を飛ばしたい気分じゃなくなって来て口を閉ざした。
うぐいす旅館に行けば何か分かるのだろうか。分からずとも、シーは諦めてくれるだろうか。
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