定業

 三日三晩の間、統木すばるきの花嫁が付き切りで看病をしても、佳鈴声よしすずこえの容態はそれ程には好転しなかった。

 熱こそ下がったものの、体を起こせばすぐに疲労で臥せってしまう。

 食欲の乏しい佳鈴声のために少量で十分な栄養が摂れるようにと、花嫁は手ずから御神木の果実を剥いて彼女の口元に差し出す。

「召せ」

「もう半分もいただきましたから……あとは二人に差し上げてください」

 しかし佳鈴声は手に乗るような水菓子の半分しか食べれないでいる。

 申し訳なさそうに目を伏せるその姿に、花嫁はきゅっと眉を寄せる。

 それでも無理に食べさせるのは病人の負担になると知っているので、花嫁は水菓子の乗る皿をそばに侍る今言いまこと雲手弱くものたおやの方へそっと押した。

「わーい、花嫁様が皮を剥いてくれた水菓子なんて嬉しいなー」

 今言が努めて明るく、だからこそ白々しい声と笑顔で分け与えられた水菓子を頬張る。

 そんな場違いな気遣いが空回っている同僚に雲手弱は重たそうに額に手を当てて首を振った。

「あの、花嫁様も二人も、こんな暗い所にずっといないでいいですよ? もう熱も引いて、眠ってるばかりですけど自分のことは出来るくらいには回復していますし」

 海勇魚船わたないさなふねの中でも底に位置して日の届かないような隅の部屋に付き合わせるのは申し訳なくて、佳鈴声が躊躇い勝ちにもう付きっ切りでなくてもいいと伝えてくる。

 花嫁はすっと目を細めた後に後ろの女房達に振り返った。

らは退いてよし」

「いや、花嫁様残してウチらだけどっか行くとか出来ませんから」

 どう見ても佳鈴声のそばを離れるつもりはないという態度の花嫁から自由にしていいと言われても、やった、行きますね、なんて応える程度の気持ちで今言も雲手弱も仕えてはいない。

 二人だって生きているのだから、食事もすれば厠にも行き、眠りもする。しかし、交代ではあってもどうしてもその間はこの場を離れなくてはならないからこそ、今言も雲手弱もそうでない時間は全て費やすと決めている。

 花嫁に至っては人と違ってそれらを一月二月絶っても何の問題もないために、昼夜と問わずにずっと佳鈴声の床の横から離れない。まるでその御神体であり本来の姿である樹木のように根を張っているかのような振る舞いだ。

 そんな花嫁の態度を思って佳鈴声は指先を震わせる。

「それは看取るためですか?」

 佳鈴声の真っ平な声で零した呟きに花嫁はぴくりと目淵まぶちった。

「よく臥せるわたしですから、きっとよく分かるんでしょう。命が次第に細まっていくのが実感としてあります。本当に、わたしはもう永くないのでしょうね」

 淡々と、今日の波は穏やかですねと見たままを語るように、佳鈴声は自分の見立てを述べる。

こころに身は応うべし。生くる先を見ぬ者が如何にして生き永らえむかは」

 そんな佳鈴声の弱気を花嫁は叱咤する。

 心が生きる事を諦めれば体もまたそうかと死に抗う事を止めてしまう。

 人は生まれてより常に死に招かれているのだから、生きるにはそれを振り解いていかねばならない。特に死が近い時に奇跡を起こすには不可欠な因である。

「でも、目の前にあるものは、そのままに見なくては」

 緩やかに佳鈴声は瞼を閉じる。

 一つ、二つと病に細くなった息に、花嫁は耳をそばだてる。

 物思いにふける佳鈴声はそれだけの間を置いて、静かに瞼を持ち上げて、真っ直ぐに愛鏡まなかがみに花嫁の姿を映した。

「それが貴女に歌を捧ぐわたしの、何よりの誇りなのですもの」

 ありのままに世界を観る。それが出来ない人のなんと多い事か。

 人はそれぞれの思想で世界を認識する。当たり前の事である。そしてそれは分別でもある。

 人は自分勝手に物事を振り分けて、好きもの、嫌なもの、善きもの、悪しきもの、佳きもの、醜きものと世界を空想する。そうする事で世界を認知している。

 それらを取り払って、そこにあるものを唯そこにあると観る。その次に世界のありのままの神秘に心を満たす。

 その末に至るのが佳鈴声の歌である。

 彼女は自らの死も厭うでも呑まれるでもなく、確かな事実として観ている。

 そのように言われては、花嫁も感情のままに生きるのを諦めるななどとは言えない。佳鈴声にとっては、諦めるでも願うでもなく、生も死も全うするものと正しく据えられているのだから。

「え……えっ? 鈴声が死んじゃうって、そんな、どうして!?」

 しかし二人にとっては触れずにいただけのとっくに分かっていた結果ではあっても、今言と雲手弱のような普通に生きている人間にとってはそうではなく、年若い女房達は酷く動揺する。

 声を出して戸惑える今言はまだましだろうか。雲手弱は声も思いも出せず、受けた衝撃にただただ身も心も止まってしまっている。

「病魔がいるからですか? それなら神蛇かむち様に祓っていただきましょうよ! いつも気軽にお願いしてるんですから、こういう時こそ頼りましょうよ!」

 急き立てる今言に花嫁は困り顔を見せる。

 花嫁が袖の内から白い手を床に差し出すと、佳鈴声の布団の中から飼い主に擦り寄っていた蛇が身を伸ばしてくる。蛇は花嫁の玉のようにすべすべした手にしゅるりと細長い体を絡ませる。

「その身を上祖かみおやに預けよ」

 蛇の子は花嫁の命令を受けて黒い瞳を透き通らせ、先が二つに裂けた舌を盛んに出し入れする。

 蛇の子は花嫁の顔を見た後に鎌首をもたげて佳鈴声の姿を無機質な目に映す。

「我が眷属にたましいを降ろせども手は打てず。本態にても為せる事なしとは既に伝えぬ」

 清淡神蛇命きよあわのかむちのみことを身に降ろした蛇はまるで興味がなさそうに出来る事は何もないと宣った。

「この娘の身の内蝕みける邪鬼は疾うに去りぬ。この娘のくに能わざるは身の弱りたるのみ」

 神蛇の権能は浄化にある。病魔が身に潜んでいればそれを祓うのは神蛇の本地であるけれども、病魔は既になく、しかし弱った体が回復しないでいるのは神蛇の力が及ぶ所ではない。清淡神蛇命は悪しき魔を浄める神であり、生きる者を健やかにする神ではないのだ。

 そんな事実を冷淡に突き付けられて今言は顔を青褪めて陰を落とす。

「え、じゃ、じゃあ、鈴声はどうしたら助かるんですか!?」

 今言の叫びに耳控みみひかえられて神蛇を降ろした佳鈴声の蛇はうっそりと頭の向きをそちらへ向けた。

「命繋ぐとせば、精を付け身を癒やす他にあるまい。それも弱りし身では難しかろうが」

 一縷の望みを託すとすれば、佳鈴声自身の回復力にしかない。

 神蛇が告げた事実を花嫁も知っていたからこそ、執拗に神樹の果実を佳鈴声に食べさせていたのだ。

 それも佳鈴声の弱った喉は満足に飲み下せなくて、半分も残してしまっている。

 その一切れを食べて呑気に笑っていた自分に嫌気が差して、今言は床に手を付いて項垂れる。

「今言、そんなすぐに死ぬのではないから……」

 佳鈴声は自分の身を案じて打ちひしがれる同僚が哀れでならなくて、そんな気休めをつい口にする。

 そんな彼女の零した言葉に反応して神を降ろした蛇の子は首を捻る。

 花嫁が咄嗟に手を伸ばすよりも、神蛇が眷属の身を通して声を発する方が、残念ながら先だった。

なんじの命は九星の一巡りは持つまい」

 神蛇が不思議そうな声音で、本人も薄々と、花嫁ははっきりと気付いていた命の限りを漏らす。

 佳鈴声の命が保ってあと九日だと宣言されて、今言と雲手弱は今にも気絶しような思いで絶句していた。

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