第9話 十文字香の手記 その四

 寺桜院学園高校は海に突き出した岬の上に建つ。学生寮に四つの校舎と体育館、そしてグラウンドで岬の大半を占めていた。グラウンドの端には人工芝が貼り付けられ、外側に向けてなだらかな坂になっている。その先には高いフェンスがあり、すぐ向こうは断崖絶壁だ。


 このフェンスは以前もっと低かったのだが、昨年の夏、女子生徒が乗り越えて海に転落し死亡する事件が発生したことで、高く登りにくい物になった。何故そんな事件が起きたのか、その原因についてはいまだにわかっていない。


「ちなみに夏風くん、あの女子生徒がどうしてフェンスを乗り越えたのか、見解はある?」


 グラウンドを横断しながら問う私に、杖をついて隣を歩く夏風走一郎は答えた。


「見解らしい見解はないよ。情報が少なすぎて推理どころじゃないから。あの件に関しては学園も警察も話したがらないし、死んだ人間の秘密をほじくり返す趣味もないしね。でもまあ個人的には、新聞部の主張した受験ノイローゼ説はいい線行ってるんじゃないかと思うかな。当てずっぽうの要素が多すぎるのは気になるけど」


 これは褒められているんだろうか、それとも馬鹿にされてる? 私が何とも複雑な思いでいると、夏風走一郎はグラウンドの端、この先は人工芝の貼り付けられたなだらかな坂になる地点で立ち止まった。そして金属製の杖の先で坂の下を指して、辺りに聞こえよがしの声で私に言った。


「ああよかった、ここに居なきゃどうしようかと思ったんだけど、やっぱりここだったね」


 隣に立って見下ろせば、坂の中程には人工芝に寝転ぶ制服姿の男子。顔だけをこちらに向ける眼光の鋭さは、思わずたじろぐほどだ。中肉中背で決して個性的な風貌ではない。しかし彼もある意味この学園内の有名人だった。不良生徒として。


 なのに夏風走一郎はひるむ気配すら見せず声をかけたのだ。


「三年六組の五味くんだよね。五味民雄たみおくんでよかったかな」


 そう、五味民雄。これまで幾度となく教師に反抗し謹慎を食らい、だが一度として反省の弁を述べたことがない。教師たちからは退学にするよう声が上がったらしいものの、理事長が首を縦に振らなかったと言われる。彼の保護者と理事長の個人的な交友関係が理由であるとの噂もあるが、本当のところは不明だ。


 しかしその五味民雄であっても、今回のことはさすがにこたえたはずだ。何せ奈良池教諭の死体の第一発見者であり、しかもその奈良池教諭と前日に口論しているのを多数の生徒に目撃されている。誰がどう考えても疑わしいと言えるだろう。警察からも事情聴取を受けているはずだ。


 そんな男に近づくなど警察の捜査を邪魔しかねないし、それがなくともこちらの身が危険だ。私の意図からは外れた行動。けれど夏風走一郎は平然と言葉を続けた。


「いかな君でも、いまこの状況ではクラスに居づらいだろうしね、教室には居ないと思ったんだ。だとすればどこか。トイレにでも閉じこもるか。いいや、君はそんなキャラクターじゃない。だったらここなんじゃないか、そう考えたら案の定」


「何がキャラクターだ。ふざけんな」


 怒りを押し殺した五味民雄の声。いま一番触れられたくないことを言われたのだと、全身から発せられる殺気が物語っていた。


 だが夏風走一郎は相変わらず爽やかな笑顔を見せている。


「残念、ふざけているつもりはまったくないんだけど」


「おまえに俺の何がわかるよ」


「もちろん全部はわからないさ。でも君が僕を知っている程度には、僕だって君のことを知っているんだ。居場所を探し当てられる程度にはね」


 そう言われた五味民雄はしばらくこちらをにらみつけていたが、やがて顔をそむけ、頭の後ろで手を組んで再び寝転んだ。


「おまえらなんぞに用はねえ。どっか行け」


 明確な拒絶。取り付く島などない。にもかかわらず、夏風走一郎はこんなことを言い出した。


「この新聞部の十文字香さんが、どうしても君に話を聞きたいらしいんだ」


「え、えええええっ!」


 あまりの驚きに、私の声は裏返ってしまった。


「ちょ、ちょっと夏風くん!」


「あれ、十文字さんは今回の事件のことが知りたいんじゃなかったっけ」


「それはそうだけど、だけど何も」


「僕は別に君の代わりに推理してあげるなんて一言も言ってないよ。僕も考えるけど十文字さんも考えなきゃ。そのためには情報がないとね。さあ五味くん、教えてくれないか。昨日の朝、何があったんだい」


 五味民雄はじっと寝転んだまま返事もしない。これはさすがに無理だろうと私が夏風走一郎に諦め顔を向けたとき。


「それはボクも聞きたいなあ。詳しい話してくれへんやろか」


 いつの間にそこに居たのだろう、黒いTシャツに黒いジーンズの上から白衣をまとった、おかっぱ頭で背の高い痩せたメガネの男。人工芝に腰を下ろし、五味民雄の方を見つめていた。


 これはさすがに気になったのか、五味は上体を起こし、白衣の男をにらみつけた。もっとも、その目には怒りより困惑が浮かんで見えたのだが。


 白衣の男は心外だとでも言わんばかりの顔で口を尖らせた。


「いややなあ、そんな胡散臭うさんくさいヤツを見るような目で見らんでも」


「いや、実際に胡散臭いだろ」


 何とも困った顔の五味に、白衣の男はさもビックリしたかのような表情を浮かべた。


「どこが? こう見えてもボク、子田ねだ病院の心理カウンセラーやねんで。県警から依頼されてここまで来た訳よ。で、いまカウンセリングを必要としてるといえば、警察から容疑者扱いされた生徒やないのかな、て思うたからわざわざ君を探して学校中走り回ったのに」


「小さな親切、大きなお世話だ」


 五味民雄はそうつぶやき、再度寝転んだ。これに猫なで声で懐柔を始めた白衣の男。


「なあ~、そう言わんと。話したらイロイロと楽になるもんよ。自分が見たこと話してごらんな。自分で気ぃつかへんかった事実が見つかったりすることもあるし、少なくとも損はせえへんから」


「うるせえよ!」


 五味民雄は不意に立ち上がると、凄い剣幕でまくし立てた。


「さっきから聞いてりゃゴチャゴチャゴチャゴチャ、俺は何も知らねえんだ! 知らんと言ったら知らん! 前の日の月曜日、生物の授業サボったら奈良池に廊下で捕まって、ガミガミ文句言いやがったもんで適当にハイハイ言ってたら、火曜の朝一で生物準備室に来いって半狂乱で叫び出したんだよ。無視しても別によかったんだが、昨日の朝はヒマだったし顔だけでも見て笑いものにしてやるか、て思って行ってみたら、アイツ死んでやがった。それだけだ。何もおかしなところはない」


「ふむ、なるほど」


 白衣の男は納得したかに見えた。ところが夏風走一郎はそんな回答など予測していたのか、さも疑わしそうにこう言うのだ。


「ただ問題は、それを証明してくれる証人がいない。奈良池先生との口論はたくさん目撃されているのに、君が奈良池先生の死体を『たまたま発見』した場面に出くわした人物が他に誰一人として居ないんだよね」


 それは確かに事実なのだが、この言い方に五味民雄はカチンと来たようだ。


「だったら諦めろって言うのか。証人も証拠もないから俺が犯人扱いされても仕方ないって受け入れろ? ふざけんじゃねえ! やってねえもんはやってねえんだよ!」


 叩き付けるような五味の怒声を受けてなお、しかし夏風走一郎の周囲には爽やかな風が吹いていた。口元が笑みを浮かべた。


「それじゃあ五味くんに残された道は一つだ。もし今回の件に真犯人がいるのなら、君の手でそれを見つけること。そうしない限り、君はこの学園内で延々と後ろ指を差され続ける。さすがにそれは不本意なんじゃないかな?」


 五味民雄の眉が不審げに寄る。


「……俺に犯人捜しをしろってのか」


「もちろん、そのために僕たちは協力を惜しまないよ。そうだよね十文字さん」


 またいきなり話を振られて私の頭はパニックを起こしそうになったが、勢いに押し切られた返事くらいはどうにかすることができた。


「え、ええもちろん。できる範囲のことなら」


 すると夏風走一郎は満足そうに微笑み、その顔を白衣の男にも向けた。


「カウンセラーさんもいいですよね」


「へぇえっ? いやいやいやちょっと待って。ボクも仲間に入らなあかんの?」


 あまりに突然の展開、白衣の男は動揺していた。けれど夏風走一郎はお構いなしだ。


「五味くんのカウンセリングがしたいんですよね」


「カウンセリングせないかんのは五味くんだけやないんやけど」


「なら五味くんは放置しますか。この先、突拍子もない行動に出る可能性もありますが」


 白衣の男の顔には「これは厄介なことに巻き込まれた」と書いてあった。しかし大きなため息をつくと、その目にほんの少し好奇心の光を浮かべて男はたずねた。


「要は何をしたらええんかな」


 この問いに夏風走一郎はさも当然といった風にうなずくと、婉曲表現も使わず遠慮もなしにそのものズバリを問いただす。


「奈良池先生の死因は何だったんですか」


「いや、それは」


「マスコミや保護者会には既に事実報告をしているんですよね。いまさら僕たちに知られて困る情報じゃないでしょう」


 無用の動揺を引き起こさないため、そんな理由で生徒たちに伝わるべき情報が規制されるのは、この学園ではよくある話だった。もっとも、そんなやり方が常に上手く行くとは限らない。だからこそ校内新聞のスクープには価値がある。


 夏風走一郎の笑顔の圧力にあらがいきれなかったのか、カウンセラーは苦笑を浮かべた。


「警察はトリカブトによる中毒死やと発表してるけどね」


「トリカブトかあ」


 意外に平然としている夏風走一郎の隣で、このとき私の心はグラグラと沸き立っていた。


「トリカブト? じゃあ毒殺ですか。殺人じゃないですか!」


「そうとも限らないよ」


 夏風走一郎の顔を見ていると、まるでたいした発見ではないと言わんばかりだ。私にはそれが気に入らなかった。


「だってトリカブトだよ? 猛毒だよ?」


「たしかにトリカブトは猛毒だ。でも所詮ただの野草。奈良池先生は園芸部の顧問、植物に詳しい人なら、そこいらの山でいくらでも見つけられるはずだ。それも大量には必要とされない。ポケットに忍ばせる程度の量があれば、人一人を死なせるくらい造作もないだろう。乾燥させて長期保存しても毒素は残る」


「いやだから、それはつまりどういうこと」


 私は混乱してれて苛立っていた。そんな私をなだめるように、夏風走一郎はまた爽やかな笑顔をこちらに向けた。


「かねてから準備してあったトリカブトで誰かが奈良池先生を殺したのか、それとも自分で用意したトリカブトで先生が自殺したのか、現段階では不明だってことさ」


 言葉の内容はかなり恐ろしいはずなのだが、それを単なる世間話のように平然と口にする。その温度差に頭がクラクラしそうだった。


 このとき、斜め下から声が聞こえた。


「遺書はあったのか」


 坂の下からうなるような五味民雄の言葉に、夏風走一郎は楽しげな目を向けた。


「いい観点だね五味くん。確かに自殺なら遺書があっても不思議じゃない。もちろん、それを『誰が書いたか』は詳しく調べられるべきだろうけど」


「遺書はなかったよ」


 カウンセラーは両足を放り出して風を浴びていた。まるで遠足に来た子供のように。


「現場からは遺書も、それらしいメモ書きも見つかってない。ただなぁ」


「ただ、何か別のモノがあった訳だ」


 のぞき込むように見つめる夏風走一郎に、白衣のカウンセラーはまた苦笑を浮かべた。


「ホンマ鋭いね、君。奈良池教諭の死体の側にはチョークが落ちててね、それで『N』の文字が書かれてあったんよ」


「N……?」


 何かが頭のセンサーにでも引っかかったのだろうか、夏風走一郎の顔から一瞬笑みが消えた。カウンセラーはこう続けた。


「NもしくはZやろうね。警察内部ではダイイングメッセージ説もあるみたいやけど」


 ダイイングメッセージ。死にゆく被害者が最後の力を振り絞って、この世に残る者に託した情報。奈良池先生がそれを書き残したのだとすれば、大きな手がかりとなるのでは。


 なんて私は思ったのだけれど。


「それはないんじゃないかなあ」


 一笑に付した夏風走一郎を、白衣のカウンセラーは興味深げに首をかしげて見つめていた。


「ほう、それはまた何で」


「もし本当にダイイングメッセージなら、どうしてアルファベットなんだろう。奈良池先生が英語しか話せないのならわかるけど、普通なら日本語で書いた方が早いですよね。特定の誰かの名前を伝えたいのならなおさら。何故アルファベットなのか。何故そこでひねる必要があるのか。自分の命の火が消えそうなときに、随分と余裕のある話だと思いませんか」


 なるほど考えてみれば夏風走一郎の言う通り、確かにダイイングメッセージ説には無理があるのかも知れない。


「じゃあ、やっぱり奈良池先生は自殺ってこと?」


 思わずつぶやいた私の言葉に応じたのは、意外にも五味民雄だった。


「違う。他殺なのは間違いない。そういうことなんだろ」


 それを聞いたときの夏風走一郎の嬉しそうな顔ときたら。


「いいね、五味くん。君、推理研究会に入らないかい」


茶化ちゃかすな。結論を言え」


「茶化しているつもりはまったくないんだけどなあ。君は推理研究会に向いてると思うんだよ、本当に。ああ、ハイハイ結論を言えばいいんだね。話は簡単さ。もし奈良池先生が自殺なら、そもそもダイイングメッセージを残す必要がない。遺書でも書けば済む話だろう。一方、他殺の場合はどうか。チョークでダイイングメッセージなんて残しても、犯人に消されてしまう可能性が高いよね。どちらの場合であれ、Nの字が残っている時点でおかしいんだよ」


 これに細身のカウンセラーは眉を寄せた。


「なるほど、しかし現実にはNの文字が残ってた。ということは」


 夏風走一郎は静かにうなずく。


「そう、つまりそのNの字を書いたのは奈良池先生じゃないことになる」


 私は思わずうわずった声を上げてしまった。


「真犯人! 真犯人が書いたってこと?」


「ああ、そうなるね。目的が警察の捜査の攪乱かくらんなのか、もしくは他の誰かへのメッセージなのかは不明だけど、奈良池先生を殺した人物が書き残した可能性が極めて高い。したがって奈良池先生は、自殺ではなく他殺であると考えられるんだ」


 事もなげな夏風走一郎の言葉に私は息を呑んだ。本物だ。この名探偵は本物なのだと。しかし、そこに異を唱える声が。


「待て、だったら俺が書いた可能性もあるってことだろ」


 にらみつけるような五味民雄の視線に、夏風走一郎は満面の笑顔を向けた。


「おや、君が書いたのかい」


「書く訳あるか!」


「じゃあ、そういうことだよ。もし君が真犯人なら、あえて現場に証拠を残すなんて親切な真似はしないはずだから」


「……親切だと」


「親切じゃなきゃ大間抜けだね。この犯人は自分が捕まることなんて何とも思っていないのか、もしくは捕まるなんてあり得ないと考えているのかも知れない。まあ、こんなのが意外に厄介な相手だったりする場合もあるんだろうけど」


 何か楽しげですらある夏風走一郎。その言葉を聞いて困惑を浮かべる五味民雄と、私はおそらく同じ意見だった。殺人犯が親切とはどういうことだろう。本当に親切な人間が人を殺したりするはずがないではないか。ならば大間抜けなのか。いや、しかし。


 誰も言葉を続ける者がなく、ただ崖下に打ち付ける波の音が響くグラウンドの隅に、女の人の声が聞こえた。


「入地さーん」


 振り返ればグラウンドを駆けて来る若い婦警の姿が。それを見て白衣のカウンセラーは慌てて立ち上がった。


「ああ、しまった。すっかり忘れてたわ」


「もう、勘弁してくださいよ。勝手に居なくならないようにって、あれだけ言ったのに。子田病院から連絡入ってましたよ」


 駆け寄ってきた小柄な婦警はプンスカ怒っている。入地と呼ばれたカウンセラーは小さく両手を挙げて降参のポーズをした。


「まあまあ阿四田あしださん、抑えて抑えて。生徒さん方の前ですから」


「生徒さん方って……あれ」


 阿四田婦警が目をとめたのは五味民雄だ。


「カウンセリング終わったんですか?」


「いやあ、カウンセリングいうか何ていうか、まあイロイロありまして。詳しいことは追い追い説明しますわ」


 そう言うと突然、入地カウンセラーは阿四田婦警の肩を抱き寄せた。


「ちょ、ちょっと入地さん!」


「ほんじゃお三方、今回はこの辺で失礼をば。また今度会いましょ」


 そしてそのまま阿四田婦警を引きずるように、グラウンドの向こうへと去って行った。

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