ある教師の死

青冬夏

ある教師の死

 一


  


   次のニュースです。


   昨日未明、都内某所において交通事故が発生しました。車同士の正面衝突による交通事故とみられ、うち一方は死亡したとのことです。死因については現在調査中とのことですが、関係者の話によると、持病であった心臓病が急激に悪化して亡くなったのではないか、と言われ──。もう一方は意識不明の重傷で、現在も意識を彷徨っているとのことで──。


 


 


 二


 


 「……眠っ」


 芳野明里が瞼を擦りながら呟く。




 都内某所にある高校。芳野明里は現在この学校に来てから、二年目の教員だった。


 彼女は主に世界史担当の教員で、現在二クラスを教えている。そして、二年目にしてクラスを受け持つという、今職員室で注目されていた女性教師だった。




 「眠い……」




 明里が瞼を擦りながらノートパソコンを開け、電源を入れる。そこに映った、整った輪郭、一重な目、そして短髪な女性が網膜に写った。




 キーボードでパスワードを入力していると、隣から話しかけられる。明里は横にチラリと目線を向ける。そこに同期の長谷竜也がいた。彼もまた教員歴二年目で、担当科目は数学だ。




 「ん? どうしたの?」




 明里が鋭い目尻となった竜也の目を見て話す。


 「今日の放課後で行われる、会議の資料です」




 そう言い、竜也は明里に書類の束を手渡してくる。「ありがとう」と言って彼女は受け取る。その素振りを見た竜也は隣に座り、机に置かれていたプリント類を整え始めた。




 「二年目だね」と明里。


 「そうだな」


 「どう? 生徒の様子」


 「どうも。そっちは?」


 「こっちも変わらないよ。真面目に受けてくれてるよ」


 「そう」


 当てのない会話が二人の間で交わされる。少しの間だけ沈黙が降り、明里のタイピングの音が響く。




 「そうだ」と竜也。


 「ん?」


 明里が竜也に目線を配らずに呟く。




 「今朝のニュースさ、見た?」


 「どういう?」


 「ほら、この周辺で起きた事故」


 「ああ~。車同士が正面衝突した?」


 思い出すように明里が言うと、竜也が「そう」と頷く。




 「それがどうかしたの?」


 初めて明里が竜也に目線を向けると、竜也は明里の目線に合わせて話を続けた。




 「さっきまでそこら辺にいる先生たちと話していたんだけどさ」そう言い、チラリとドア付近で立ち話をしている教員たちを竜也が一瞥する。「あの事故で亡くなった人、ここの学校に勤務する教員らしい」




 途中で声を潜めながら言う竜也に対し、「え? そうなの?」と少し驚くような口調を明里が出す。


 「噂話だし、まだ本当かどうか知らないんだけどね」


 「なんだ噂か……」


 明里が背もたれに寄りかかって呟く。




 「ただね、君が出勤する前に警察がここを訊ねてきたから、恐らくそうなんじゃないかって」


 「だから、そう言う噂が広まってるの?」


 竜也の話を受け継ぐように明里が話す。彼は顎を撫でながら頷いた。




 「まあどっちみち」竜也は背もたれに寄りかかった。「もしあの事故で亡くなった人が、うちの学校で勤めていた教員だとしたら、そのうち校長から言われると思うし」




 そう言い、彼は重なったプリントを持って立ち上がる。


 「じゃ、俺、印刷室に行ってくるから」


 明里にそう言い残し、竜也は職員室を出た。




 「……事故、ねぇ」


 明里は職員室を出る竜也の背中を見届けた後、再び背筋を伸ばしてパソコンの画面と対峙した。


 


 二


 


 午前の授業が全て終わり、明里は一階の職員室に戻っていた。




 自分の座席へ戻り、側に置いていた白いリュックからお弁当を取り出し、机の上に出していく。チャックを閉めた後、後ろから誰かから話しかけられた。




 「はい」


 少し高めな声で明里は対応する。彼女の網膜に写ったのは、学年主任の雨宮絢香先生だった。


 彼女は少しルックスが整っておらず、分厚い唇が特徴的で、顔に刻まれた皺が年を感じさせた。




 「確かこれ、あなたのクラスだったわよね?」


 そう言い、絢香が見せてきたのは緑色のノートだった。そこに明里が受け持つ、三年三組の字が綺麗に書かれていた。




 「そうですけど……。忘れ物?」


 受け取りながら明里が言う。


 「ええ」


 「どこに落ちてたんです?」


 「職員室前の廊下」


 「あ、なるほど」


 「渡しておくから、持ち主のところまで返してね」


 そう言い、何の特色もない口調で絢香が言い残してその場を去る。明里がその受け取ったノートを机の上に置き、書かれている名前を一瞥する。




 「……愛沢愛花……」


 書かれていた名前を小声で読み上げる。明里はお弁当をかき込んで食べ終え、お弁当をリュックにしまい入れる。絢香から渡されたノートを手に持ち、椅子から立ち上がって職員室を小走りで出た。その時の時刻は──、午後十二時二十分。彼女は僅か、十分ほどで昼食を終えたのだった──。


 


 


 三年三組。明里が受け持つクラス。


 内装は至って普通の教室であり、無機質。今は昼食の時間であるために、三年三組の生徒達が好きな形で昼食を摂っていた。




 明里は目的の生徒に足を進め、窓際の最前列の席に移動する。


 その生徒がこちらに気がついた時、明里は気さくに声を掛けた。




 「愛花さん」


 明里が声を掛けた時、愛沢愛花と言う、顔つきが子どもっぽく色白な女子生徒が彼女に目線が向く。目がクリクリとしていて可愛かった、と明里はその時に思った。




 「どうしました?」と愛花。


 「職員室の前にあなたのノートが落ちていたって、別の先生が私に伝えてくれて」




 そう言い、明里は愛花に渡しながら言う。彼女はそれを受け取った。


 「ああ、ありがとうございます」


 「じゃ、また後でね」


 そう言い、明里が教室を去ろうとした時、愛花が彼女を止める。




 「どうかしたの?」と明里。


ドアのところまで愛花が小走りで明里のもとへ向かってくる。その時に髪と胸が一緒になって揺れた。


「あの……、こんなことを言っちゃダメだと思うんですけど……」


「うん?」


「うちの学校に、警察が出入りしたことって本当ですか」


明里にとって少し予想外のことに驚きつつ、彼女は愛花の目を見た。




「それ、どこで聞いたの?」


「うちのクラスの男子が誰かから聞いた話を話してて。その話を半信半疑で聞いていたんですけど、事故で亡くなった一人がうちの学校に勤めてた先生だって言っていて、それで……」


 話が纏まらず、しどろもどろになっている愛花を一瞥した後、明里は彼女の肩に触れた。




 「……その話、多分だけど本当なんだ」


 そう言った時、僅かながら愛花の目が見開く。


 「やっぱり……」


 「でも、安心して。私のクラスに根拠が乏しい噂を広める人なんていないと思うか……」


 「そう言う話じゃなくて」




 愛花が明里の言葉を遮った。彼女はきょとんとした表情で、愛花の少し涙ぐんだ表情を見た。


 「その人……、夏までにいた私のクラスの担任だったらどうしよう……、って」


 愛花の肩が微かに震えた。明里は彼女の頬を触り、小顔を掴んだ。




 「大丈夫。もし亡くなった人がその先生だったら……、先生が必ず報告しておくから。──たとえ、その先生じゃなくても」


 涙目になっている愛花を、明里が強く真っ直ぐな目線で見ながら言う。愛花は深く「うん」と頷くと、自分の座席へ戻っていった。


 その背中を一瞥した後、明里は教室を去った。


 


 


 


 古谷徹。明里が三年三組を受け持つ前のクラス担任。


 彼は四月の初めから三年三組のクラス担任であったが、生徒達が夏休みに入ると、一身上の都合で教壇から降りた。その後、三組の生徒達と仲が良く、他の教員たちより三組の事情を知っていたため、明里が古谷徹の後を任された。




 彼はなぜ辞めた?




 職員室に戻り、自分の席に座って考え込む明里は、そのことに頭がいっぱいになった。拳を自らの頭に何度か軽くぶつけていると、隣から声が掛かった。




 「あーあ。今ので脳細胞が沢山やられた」


 「へ?」


 聞き覚えのある声が明里の鼓膜に届き、彼女は隣に目線を向けた。そこにいたのは同期の竜也だった。




 「……揶揄いじってるの?」


 椅子に腰掛ける竜也に対し、明里が目を細めながら言うと、竜也は顔の前で掌を振った。




 「まさか。そんなわけ」


 そう言いながらパソコンを広げる。明里は頬を赤らめた。


 「なんか悩み事?」


 「あ、ちょっとね」


 「生徒のこと?」


 「いや」


 「じゃあどういう?」


 竜也に覗き込まれるように言われると、明里は少し躊躇った。が、悩み事もないだろう、そう思って話した。




 「私のクラスの生徒が言っていたんだけどさ、今朝のニュースで報じてた事故のことなんだけどさ」


 「うん」


 「あの事故で亡くなった人が、私の前に勤めてたクラス担任じゃないのかって、心配してた」


 明里が両手で顔を支えながら言うと、竜也が「え?」と驚く。




 「勿論根拠なんてないよ。でもさ、あの人って夏に一身上の都合で辞めたじゃん?」


 「そうそう」


 「その〝一身上の都合〟がもし持病のことだとしたら、今朝の事故で亡くなった人なのかもって……」




 恐る恐る明里が言うと、時計の針が残り十五分となった時、職員室と校長室を繋ぐ扉から校長が出てくる。銀フレームの眼鏡を着用した、坊主頭の校長。


 校長が現れたことにより、職員室が一気に静かになる。校長が各々の教員たちに座るよう指示を出すと、その指示に従って次々と教員たちが座っていった。




 空席が少し目立った職員室が静まりかえったのを、校長が確認した後話し出した。


 「……えーと」校長が咳払いをした。「皆様方も今朝のニュースで知っている通り、我々の周辺にて車同士の正面衝突事故がありました」


 そのことか、そう思いながら明里が校長にずっと目線を送る。


 「その事故で既に亡くなった方なのですが……、先程身元が判明しました。──古谷徹先生という、夏に一身上の都合で教壇を降りた方、だそうです」




 校長の口から〝古谷徹〟という名前が出た後、明里は胸の内を落ち着かせた。


 「……すぅ、はぁ、すぅ……」


 「芳野先生」


 校長に呼ばれ、明里は「はい」と立ち上がる。


 「……三組の皆さんに、お伝え下さい」


 校長の悲しみに暮れた声が、明里の鼓膜を揺らした──。


 


 三


 


 三年三組の前。明里が扉の前で足を止める。


 「……伝えて良いんだろうか」


 脳裏に先程の光景が掠める。




 「私のクラスは、人の〝死〟を受け止めてくれるだろうか」


 「私のクラスは、古谷先生を労ってくれるだろうか」


 「私のクラスは……」




 そんな疑問が頭の中で埋め尽くされる。


 「教壇に立ってから二年目。私にとって、クラスを受け持つのは初めてだった。そんな私に対し、三組の皆は親しくして貰えた。だから、だから今の私がいる。多忙でも、生徒の嬉しそうな顔を見ると、それが〝生きがい〟って思えてくる」




 独り言を呟いた後、明里はドアを開ける。


 いつも通りに教壇に立ち、号令を掛け、日直の合図に合わせて礼をする。




 心臓の鼓動がドクン、ドクンと脈打つ中、明里は乾ききった口腔内を唾で湿らせ、口を開いた。


 「帰りのホームルームを始めます。……と言いたいところなんだけど」


 そう言い、クラスが一瞬どよめく。明里は悲しげな表情を生徒達に見せた後、話した。




 「今朝の事故、皆はもう知っていると思うけど」そう言いながら、明里は窓際の席に座る愛花を一瞥した。


 「その事故で、以前三組を務めていた古谷徹先生が、お亡くなりになりました」


 明里のその一瞬の言葉で、クラスが鉛のような重たい雰囲気に包まれた。そんな雰囲気のもと、明里は話し続けた。




 「彼が亡くなったということを聞いて、皆はまだ心が落ち着いていないかも知れない。きっと、彼のことを少なからず憎んでいた人もいただろうし、彼のことを好きだった人もいたと思う。そのことを聞いて、憎んでいた人は正直嬉しくなったかも知れない。好きだった人は悲しくなったかも知れない。……けど、けど……、このことは絶対に忘れないで」


 そう言い、明里は一旦言葉を切って、また口を開いた。




 「〝命〟は、失ったら二度と手に入れることの出来ない、唯一無二の〝存在〟ってことを、忘れないで」


 一字一句、丹精を込めて明里が話す。


 彼女の言葉が、どんよりとした教室の雰囲気を夕日と共に溶け込んだ──。


 


 


 


 放課後。生徒達が全員帰宅し、時刻が夜七時を回る。明里が「お疲れ様です」と職員室を出て、正面玄関に向かう。そこで靴に履き替え、外に出る。




 校門を通り、明里がふと思いついて後ろを振り返る。


 「……立派な建物」




 口の隙間から明里の声が漏れた時、「先生」と声がした。明里が暗くなった辺りを見渡すと、後ろに見覚えのある生徒──愛花がいた。まだ家には帰っていなかったのか、まだ制服姿で鞄を肩に掛けていた。




 「こんな時間に、何かあったの?」


 安心感の積もる声で言う。


 「帰りのホームルームで先生が話したこと……、あれ、本当なの?」


 愛花が恐る恐る言う。その時の目が潤んでいた。




 明里は彼女の顔を真っ直ぐ見て、「うん」と深く頷く。


 「……そっ、か……」


 彼女の目が下に降りる。その時に彼女の目から涙が地面に落ちる。明里は愛花の肩に触れ、真っ直ぐ目線を向いた。




 「悲しいよね」


 優しく話しかけると、彼女が頷く。




 「悲しいけど、〝命〟って一瞬。抽象的で、儚い存在だけど、その〝命〟がある限り続いていくものだってある。……だから、今泣いても良い。これから先、悲しいことがあったら泣いても良い。だけど、その出来事を〝明日への活力〟にして未来へ繋げて」




 思わず愛花の肩を強く握ってしまう。しかし、明里はそんなことを気にする暇もなく、ただ彼女の目をずっと見続けた。


 「……うん。ありがとう、先生」


 愛花が顔を上げながら言う。涙でクシャクシャになっていた。




 明里は彼女の頭を撫でる。




 「……じゃあ、また明日」


 「うん。また明日」




 そう言い、愛花は夜道を一人歩いた。


 その背中を、明里が温かい目で見守った。

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ある教師の死 青冬夏 @lgm_manalar_writer

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