第三十二話 マーマレード・ジャム・トースト
毎日繰り返す工程の中で最も最初の工程が『起きる』というものだ。
多少の差異はあるにせよ誰もが繰り返す苦痛とも言えるこの工程を更に不快にする要因が存在する、騒音や強い光に加えて悪臭などがその代表とも言える要因だが、反対に不快感を消し目覚める事そのものが快感となる要因も存在する。それが家族などの大好きな人からの優しい呼び声と……もう一つ。
「ん……良い匂い」
鼻孔をくすぐる甘い匂い、これも人によるかもしれないが私は睡眠欲よりも断然食欲が勝るタイプだ……のそりと起き上がり、乱れた髪に指を通して撫でつけると素直すぎるお腹が可愛い悲鳴を上げた。
「エルマ……リリア?」
寝ぼけた目で二人が眠っていた窓際に視線を送るが、そこには二人の姿は無かった。
「あ、おはようお姉ちゃん! どうエルマ君、私の勝ちよ?」
「負けました……けど、どれだけ単純なんですかティスさん……」
「……何の話?」
寝ぼけまなこに随分なご挨拶だ、聞けば朝が過ぎようというのにあまりにも起きないので私が食べ物の匂いで起きるかどうかの勝負だったようだ……全く、人を何だと思っているのか。
どう思う? とばかりに今も私を優しく見つめながらキッチンの傍らに立つ彼女に視線を送ると、困ったような笑顔が返ってきた。
「おはよう、ナターシャ」
「はい、おはようございますティス様」
「足の調子はどう? どこかおかしいところは無い?」
「いいえ、ティス様の修理のお陰でむしろ以前よりも調子が良いぐらいです」
嬉しそうに足先で床を何度か叩いてみせるとナターシャがニッコリと笑った、その姿にホッと胸を撫で下ろし食卓の椅子に座るとテーブルの上にパンや湯気を上げるスープにサラダなどが一瞬で並んだ。
「これはまた……朝から凄いわね」
「ふふっ……どうぞ、お召し上がりください」
どれから手をつけたものかと一瞬悩んだがやはり最初はこれだろうとパンを手に取るとほんのりと温かく、表面には何かが塗られていた……どうやら私を目覚めさせた匂いの正体はこれのようだ。
「ん……美味しい」
パンと言えば固くてパサパサしていて口の中の水分を持って行く保存食のイメージしかなかったが、このパンは焼かれているのか表面はカリカリと歯触りが良く中はしっとりと柔らかく噛む度に口の中に甘みと共に果物のような爽やかな香りが鼻を抜けていった……適当に詰め込んだ食料の中には用途不明の調味料もあったがそれのお陰なのだろうか?……後でナターシャに聞いておこう。
「……あれ? 貴方の分はどうしたの、ナターシャ?」
「私ですか? 私はティス様の後で頂こうかと思っておりましたが……」
カップに紅茶を注ぎながらナターシャが首を傾げる、湯気の波間から彼女のポカンとした表情が垣間見える。
「……あのねぇ、一緒にいるんだから一緒に食べなきゃ意味ないでしょうに」
「ええと……んむっ」
尚も不思議そうな顔をするナターシャの口に小さく千切ったパンを無理やり詰め込むと目を見開きながら咀嚼し……飲み込んだ。
「美味しいでしょう? でも一緒に食べたらもっと美味しいわ、ええとパンを焼く為の機械は……これ?」
「お、お待ちくださいティス様! 分かりました、分かりましたから! 私がやりますので!」
適当に機械を操作しようとした私にナターシャが慌てて止めに入りどこからか取り出した新しいパンを焼き始めた、そんな彼女をニヤニヤと見つめながら席に戻り、彼女の準備が整うまで淹れてくれた紅茶に息を吹きかけながらちびちびと飲む、こんなに朝が賑やかなのは一体いつぶりだろう?
「それにしてもここの設備はドールとは少し違うのね、当時でも珍しかったんじゃない?」
「はい、ここにあるものはどれも自動充電式の発電機で貯蓄した電気を使用して稼働する旧式の機械達です、ヴィオレッタ様のこだわりだったようですし不便な事はありませんが……何故わざわざ機械なのかについては私にはよく分かりません」
「ふふっ……ホントね、魔導石産業のトップのこだわりで作った部屋に置いてあるのが魔力を使わない機械だなんてあべこべじゃない?」
「全くです」
他愛ない話に花を咲かせているとナターシャが焼き上がったパンを取り出し、卵や肉を使用した他の料理も手早く皿に盛り付けると私の向かいの席に……ではなく隣に腰掛けた。
「……まさか隣に座るとは思わなかったわ」
「ええと……いけませんでしたか?」
「いいえ、ちょっと驚いただけよ」
むしろ何だか嬉しいぐらいなのだがさすがに言葉にするのは少し恥ずかしい……そんな気持ちを誤魔化す為にパンを齧るとやはりというか先程よりも少し冷めてしまっていた、だが最初に食べた時よりもしっとりしていて甘さを強く感じる気がする……私はこっちの方が好みかもしれない。
「ふふ、相棒を名乗っておきながら隣で食事も出来ないドールもいますから……ね?」
「むっ……!」
ナターシャの言葉にリリアと話していたエルマが不満を表すように数度飛び跳ねてみせた、この二人は相変わらず不仲なようだ……いや、心に秘めているよりは良いのだろうか?……まぁとにかく小競り合いをするにしても食事の場では遠慮してもらいたい。
「はいはい喧嘩しないの……ナターシャも、そんな挑発するような事をわざわざ言わない」
「はい、申し訳ございませんでした」
「クスクス……楽しい朝だね、お姉ちゃん」
ぷりぷりと怒りながら飛び跳ねるエルマを宥めているとリリアが楽しそうに笑った……貴方も貴方で私を玩具にしていたでしょう? と言いながら魔導板を指先で軽くつついてやると嬉しそうに笑いだすのでこっちもつられて笑ってしまった。
「ああ……そういえばナターシャ、貴方『
食事を終え、紅茶を飲みながら食器を洗っているナターシャを眺めていると以前耳にした言葉を思い出した。
何ともなしにそのままポツリと漏れた言葉だったが、振り向いたナターシャの顔には驚きの感情が浮かんでいた。
「勿論存じ上げておりますが……その言葉をどこで?」
「私から、よ」
正直そうとしか言いようが無いのだがこの説明で伝わるだろうかという不安に駆られたが、少し間を空けてナターシャが納得したように目を伏せてゆっくりと頷いた。
「以前寝物語代わりに一度お話したきりでしたが、まさか覚えておられたとは……では、詳しい事もお聞きになられましたか?」
「いいえ、あまり長くは話していられなかったから……でも、その樹がこの施設に設置されたドールに魔力を送っているって話は聞いたわよ」
「その通りです、照明などはそれ自体に魔導石が使われているので樹の魔力は主に医療機器や……リリア様のポッドなどに魔力を送っていました」
「私の?……全然記憶に無いや」
「無理もありません、体の方はある程度まで成長されたようですが結局お目覚めになる事は殆ど無く、外部からの魔力供給無しでは生命の維持も難しい状態でしたし……ポッドの外に出たのも私が知る限りヴィオレッタ様が地下へとお連れになる時が初めてでしたから」
「そっか……じゃあ私達はこれからお友達にならないとね、ナターシャさん」
「リリア様……! はい、勿論でございます!」
ナターシャが胸に手を当てながら頭を下げると、リリアがほっとしたような声を漏らした。
「話を戻すわね? リリアの体を作る為にもその緋水の樹の魔導石を回収しようと思っていたのだけれど、何か不都合な事はあるかしら?」
「いえ、特には……ここは先程もお話したようにドールはありませんし……ああでも最初にお入りになられた医療施設の機能は軒並み停止しますね、魔力の供給が途切れると各施設を繋ぐ通路や入口には隔壁が降りて通行が出来なくなります」
「……つまり?」
「ヘイズ……と仰いましたか? ここへ来るためにお乗りになられていたという起動三輪を先に回収せねば医療施設を通って取りに行く際に隔壁を蹴り破る必要が生まれてしまいます」
「……ぷっ」
ニッコリと笑いながらとんでもない事を言い出すナターシャについ吹き出してしまった、せっかく
「思い出の詰まったこの施設は確かに大切ですが、ヴィオレッタ様でも蹴り破る事は出来なくとも必要であれば恐らく躊躇なく扉を壊すと思いますよ?」
「くっく……確かにね、やりかねないわ」
頭に手を当て自らの髪をくしゃりと掴みながら喉を鳴らして笑ってしまう、私は地下での時計屋しか知らないが地上で見てきたナターシャにここまで言われるとは……全盛期の時計屋はどれだけ破天荒な存在だったのかひどく興味がわく。
「それでは……すぐに緋水の樹に向かわれますか?」
「……そうねぇ」
唇に指を当て考えるフリをする……当然だ、もう答えなど決まっているのだから。
「いいえ、やっぱり先に最上層を見てくるわ! そう決めたんだもの!」
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