魂の眠る場所6
(四)
グラスの中で氷が涼しげに転がる。撹拌されたアマレットとオレンジジュースの幽香が空気に染みていく。カウンター越しにカレンへグラスを差し出すと、彼女は隣席を手の平で示していた。隣に座れ、ということなのだろう。開店まではまだ時間があり、今の俺は店員ではないため、促されるまま客席の方へ回った。
店内にいるのは、俺とマスターとカレンだけだ。メイとユニスは疲れたみたいで、部屋で休むと言っていた。
俺が研究者達に目を付けられた理由について、二人にも後で話しておかなければな、と考えてから、まずはカレンに礼を言わなければと思い直す。帰ってきてすぐにそうするつもりだったものの、血塗れの服を着替えてからにしろとマスターに叱られ、威儀を正し、今に至る。
カレンの隣席の傍に立ち、テーブルに手を添える。こちらを見上げる彼女を見つめて、脳裏で言葉をまとめながら唇を動かした。
「カレン……さん。メイから聞きました。俺が怪しい人達に連れて行かれたのを、教えてくれたと。ありがとうございます」
「いいえ、貴方が無事でよかった」
弧を描いた紅唇が、傾いたグラスに触れる。一度喉を上下させると、彼女は頬を緩めていた。水か紅茶を入れるつもりだったが、せっかく酒場に来たのだから適当に酒をと注文されたため、女性客に人気の高いものを入れた。どうやら気に入ってもらえたみたいだ。
「座らないの?」
「……お隣、失礼します」
「というか、どうして敬語? 確かに、初めて話した時はそうやって丁寧だったけど、そのあと普通に話してくれたじゃない」
明るい蜂蜜色の瞳が、店内の紅燭を浴びて
接客時や依頼人と話す時など、客と関わる時は丁寧に接するよう意識はしている。カレンにもそうしたはずだ。しかし、記憶を遡れば失態とも言える自身の対応が思い起こされ、眉根を押さえた。
普通に話した、なんてものではない。柄にもなく声を荒げた。カレンに、俺と同じ後悔を味わわせたくなかったから。家族を失う痛みを軽視していたような彼女と、失うことすら考えていなかった愚かな自分が重なって、苛立ったから。
初対面の男に八つ当たりじみた槍声を投げつけられて、怖かっただろう。今更申し訳なさが発露してきて、項垂れるまま頭を下げた。
「あれは……別の事情で、気が立っていて……あの時は、怒鳴ってすみませんでした」
「怒鳴られたなんて思ってないからいいの。敬語も使わないで。貴方と普通に話がしたくて、ここまで来たのよ。妹の手紙を届けに来たのは、ほんとは口実」
首を擡げると、カレンが悪戯っぽく笑っていた。メイから聞いた話だが、カレンは妹の手紙を届けに来たらしい。メイ個人に宛てたものだったようで詳細は知らないが、お礼が書かれていたみたいだ。
カレンの本当の用事を推知することは出来ず、眉を顰める。
「話……。カレンさん……いや、カレンは、また何かに巻き込まれてるのか?」
「いいえ、もう大丈夫。ルークのこと覚えてる? 貴方を私の前に連れてきてくれた、私の恋人」
「あぁ。薬物の売人の、仲間だった男だな。組織を抜けたがっていたが、組織自体なくなったはずだ」
「そうね。だけど彼、良くない繋がりはまだまだあるからって。『カレンを危ないことに巻き込みたくないから、縁を切りたい』って、手紙を残して姿を消したわ。だから……恋人、って言い方は間違いだったわね。元・恋人が正しい」
愁色を宿した眼差しが遠くを見つめる。繊手は所在無げにグラスを揺らしていた。透き通った硝子の中で暖色が煌めく。アマレットオレンジに照明の光が一つ落ちて、それが陽光に似ているものだから、彼女の手元では小さな夕空が出来上がっていた。
カレンは寂静を受け止めながらその黄昏を飲み込んだ。長い髪を一度だけ振るい、乱れたそれを耳にかけると、彼女はこちらを正視する。
「こんな話を聞かせに来たんじゃないの。私、ずっとお礼が言いたかったし、お礼がしたかったのよ。貴方のおかげで、妹ともお母さんとも仲直り出来たわ。あのまま家族と縁を切っていたら後悔してたと思う。だから……ありがとう。あの後ちゃんと、アビーとお母さんに、伝えたい言葉をぶつけられた」
向けられる一笑はとても晴れやかだった。暗室で座り込んでいた彼女はもういない。瞳に落ちていた暗影も見えなくなっている。安堵するとともに気息が一つ零れた。
「仲直り、出来たんだな」
「ええ。エドウィンのおかげ……って、あの、名前、メイちゃんに聞いたの。貴方、エドウィン、でいいのよね?」
「あぁ」
「ねぇ、エドウィン言ってたでしょ。帰る場所なんて、簡単になくなるって。私……あの時の貴方のことが、忘れられなくて」
澄んだ瞳から逃げるように、虹彩が端へ動く。カウンターの向こうで、食器を洗っていたマスターの手が止まっていた。彼の顔を見ることも、席を外してくれと頼むことも出来ぬまま、気まずさに俯いていたら人影が移動する。気を使ってくれたのか、マスターはカウンターから離れて店内の清掃を始めたみたいだ。
照明の下に二人だけが残って、先に開口したのはカレンだった。
「エドウィンは、ご家族……どうしてるの?」
瞼を伏せる。忘れたくない思い出と、忘れてはいけない過去を、眼窩の奥から引き出していた。
自身の畢生を、茶話のための物語にはしたくない。彼女が軽い気持ちで聴いているわけではない、なんてことは分かっている。憂いを突き放したいわけでもない。だからこそ言葉選びの難しさに黙考して、逡巡して、ただ一言を返すことしか出来なかった。
「……ここが、家みたいなものだ」
「そう……今の貴方にも、帰る場所があって良かった」
言い掠んだにも拘わらず、思いのほか柔らかな声が返され、動揺のままに顔を上げた。大人びた片笑みは俺を責めない。語らなかったことを追及しようとしない目遣いに、肩の力が緩んでいく。彼女が、安心したように咲笑った。
「貴方の助けになりたくて、なにか出来ないかと思ったのだけれど……怪しい人達に絡まれているのも助けられなかったし、貴方の傍にはちゃんと大切な人達がいるみたいだし、私、何もお礼が出来ないわね」
「お礼なんて気にするな。マスター達を貴方が呼んでくれたから無事でいられてるんだ。だから、俺が今立っていられるのは貴方のおかげだな」
注がれる深憂に居心地の良さを覚え、自然と微笑んでいた。彼女の、吊り目気味の大きな目が皿のようになる。瞠然としている彼女に胸中で疑問符を浮かべてから、俺は椅子から立ち上がった。
彼女の座右で空になっていたグラスへ、手を伸ばす。指先で硝子に触れると、取り残されていた氷がぶつかり合って鳴いていた。机上に落ちる影は形を変えることなく留まっている。グラスを持ち上げる前に袖を引かれて、凝然と立ち尽くしていた。
口無のまま相対する。崩れ出した氷がひとりでに音を立てるまで、その見合いに言葉はなかった。
グラス越しに触れた砕氷が冷たい。目を細めてから、カレンの顔を覗き込んだ。
「カレン、下げてもいいか。水が欲しければ用意するが」
「ねぇ、エドウィンは恋人とかいるの?」
「……なんだいきなり。いるわけないだろ」
「……私と、付き合ってみない?」
耳元の秒針が、やけにうるさく感ぜられた。視線が交錯した状態で縫い留められる。まばたきののち、顔を逸らした。断ろうとして動かした頬に、白皙の手が触れる。折しも彼女の細腕を払い除けていた。
手の甲に痛みが走ってから、冷静になる。
顔に触れられるのは、好きではない。
けれど、カレンの手はあの女とは違う。傷付けるつもりはなかった。青びれていくカレンを前にして、「悪い」と呟いた。
「だが……次からはやめてくれ。そういうの、苦手なんだ」
「そ、うよね。ごめんなさ──」
「エドウィン、いいじゃないか。付き合ってみなさい」
悄然としていた空気を朗笑が振り払う。マスターが俺とカレンの肩を軽く叩いて、なぜか満足そうに笑っていた。睨めつけても意に介さず喜色を湛える彼。俺達を交互に見てから一人で得意げに頷いているものだから、咨嗟を吐き捨てた。
「なに言ってるんだマスター……俺は」
「『普通』に背を向け続ける君を見るのは、私としては……親のような存在としては、嫌なんだよ。いい機会だから経験しなさい」
「これは俺とカレンの話だ。あんたに決める権利はないだろ」
「お試しで付き合うとかどうだい? 一ヶ月恋人として過ごして、好きになったらそのまま付き合う、みたいな」
「っだから、どうしてあんたが口を──」
「それ、私も……良いと思うのだけど。ダメかしら」
マスターの提案にカレンが乗っかったものだから、自身の渋面が更に険しくなっていくのを感じる。振ろうとした首にマスターの腕が絡まって、一瞬息が詰まった。カレンから数歩遠ざけられたかと思えば、彼にしては珍しい、静かな声柄が耳朶を打つ。
「エドウィン、君の妹だって、君には幸せになって欲しいはずだよ。優しい子だったんだろう? 自分のぶんまで幸せになって欲しいと、願ってくれてるんじゃないかな」
「……だからなんだ。一ヶ月もカレンの時間を無駄に奪うのは」
「まあまあ。君が妹と逆の立場だったらさ、自分が経験出来なかったことを妹が経験していって、幸せに生きてる姿を見れたなら、その方が嬉しいんじゃないか? カレンさんもああ言ってるし、ね?」
俺の話を聞く気がないような説得に頭が痛くなってくる。彼とて魔女関連の事件に、カレンのような一般人を巻き込みたくないだろう。なのになぜ、ここでカレンに助け舟を出したのか理解が追い付かない。警告するのが正しいはずだ。
マスターを振り払い、呆然としているカレンに歩み寄った。
「ルークは、貴方を危険な目に遭わせないために別れを告げたんだろ。俺達と関わると、薬物なんかより危ない目に遭うかもしれないんだぞ」
「ルークの気持ちは私の気持ちじゃない。私は危ない目に遭っても構わないわ。たとえば貴方が人を殺すのなら、同じところまで堕ちたっていい」
真剣な音容に、難色を向けてから思い出す。ルークが言っていた。カレンが薬物に手を出そうとした理由は、薬物中毒者であるルークと同じようになりたかったのだ、と。そして売人に接触した彼女は、一時的に魔女になる薬を投与された。
カレンは冗談ではなく本気で、同じ道を歩む覚悟を持って他人と付き合うのだろう。けれど、彼女の純粋な瞳を血で染めるのも、重いものを背負わせるのも、出来ればしたくはなかった。
「俺は、貴方を危ない目に遭わせたくない。貴方はその危険な考え方を直した方がいい。今度は自分の腕を折ることになるかもしれないぞ」
「……でも、妹の腕じゃなくて自分の腕だったら、別に折れたって構わないのに。って、貴方も思うでしょ?」
「それは……」
「やっぱり。貴方、妹さんがいるのね。そうだと思ったの。貴方ってなんとなく、私と似てたから」
仏頂面が形作られていく。カレンに共感できる部分は確かにある。彼女の
パンプスが踵を鳴らす。爪先が触れ合わないほどの、見えない壁を挟んで、それでもカレンは手を伸ばして来た。謙虚さと芯の強さが
「ねぇ、エドウィン。一ヶ月だけ。私と付き合って、くれませんか」
視線を彷徨わせる。頷けと言わんばかりのマスターの眼勢を認めてしまって額を押さえた。俺の知らない所で、マスターとカレンが何かしらの取引でもしたのだろうか。
諦念を浮かべ、ため息混じりに頷いた。
「……一ヶ月だ。時間を無駄にしていると感じたら、すぐに立ち去って構わないからな」
「ふふっ、ありがとう。恋人として貴方の傍にいる間、たくさん恩返しが出来たら嬉しいわ」
宙に留まっていた彼女の手が、明朗な声と共に垂下していく。握られなかったことを気にしていない様子で、
恋人、と胸裡で反芻する。コーデリアは、大人になったら恋人がほしい、とも思っていたのだろうか。そういった話はあまり聞いたことがないような、そんな気がした。
いつか天国で妹と再会した時。『恋愛なんて俺には分からなかった』と教えてやるのも、悪くはないと思った。良い思い出も、悪い思い出も、失敗も成功も、コーデリアに語り聞かせたい。きっと彼女は退屈しているだろうから。
コーデリアの無事を確かめるためにも、彼女のもとへ行かなければならないなと、魂の眠る場所へ思いを馳せた。
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