02

「マリアンヌ様!」

 教室に入った途端声をかけられた。

 視線を送ると、一人の女生徒が笑顔でこちらへやってきた。


「お元気そうで良かったですわ」

「……ありがとうございます……ええと……」

「バーバラ・アーチボルド嬢ですよ」

 戸惑っていると後ろからカミーユが教えてくれた。

 アーチボルド侯爵家といえばバシュラール家とは懇意の家で、そのご令嬢はマリアンヌの親しい友人の一人と聞いていた。

 何度かお見舞いの手紙ももらっている。


「バーバラ様……お手紙を下さった方ですね。ありがとうございました」

 お礼を言うと、バーバラ様は困ったような顔を見せた。

「マリアンヌ様……本当に忘れてしまったのですね」

「申し訳ございません……」

「それは仕方ありませんけれど……」

 ちらとバーバラ様の視線が私の腰へと落ちる。

 そこには未だに回されたままの殿下の手があった。

「……療養中、殿下との仲は改善されたようですね」


「え、ええと……」

「そうだな、アンは大切な婚約者だ」

 ぐ、と殿下は手に力を込めた。

「記憶がなくとも困らないよう、こうして僕が側にいて守る」

「――それは頼もしいことでございますわ」

 す、とバーバラ様の眼差しが冷ややかなものになる。

「マリアンヌは殿下のことでずっと悩んでいたようですから」


「悩んで……」

「それはもう解決した。問題ない」

「解決?」

 殿下の言葉に思わずその顔を仰ぐと、殿下は私に満面の笑みを向けた。


「僕は『アン』を生涯愛し、守る。それで問題はないだろう」

 私たちの会話に聞き耳を立てていた級友たちからきゃあ、という悲鳴のような歓声が聞こえた。



 四十五年ぶりの授業はなかなか疲れるものだった。

 殿下やカミーユから授業内容を教わっていたとはいえ、やはり実際に教室で受けるのは違う。

 午前だけですっかり疲れてしまった。


「大丈夫ですか」

 席でぼんやりしているとカミーユが声をかけてきた。

「……この歳になると授業について行くだけで大変だわ」

 授業というのはこんなに進みが早いものだったろうか。

 もう昔すぎて覚えていないけれど、ついていくのがやっとというのはおそらく……いやきっと、歳のせいだろう。

 脳も十六歳のマリアンヌのもののはずなのだけれど。


「そういうものですか?祖父は『まだあと十年は現役だ』と豪語していますが」

「あの人は特別よ。子供の頃から……」

「アン!」

 ずしり、と肩に重みを感じた。


「授業はどうだった? 分かる?」

 背後から抱きつくように、私の首に腕を回すと殿下が顔を覗き込んできた。

「はい……何とか……」

「顔色が良くないけど。疲れた?」

 翡翠色の瞳がじっと私を見つめる。


「いえ……」

「今日は午前中だけでいいと言われているんだろう。無理せず帰った方がいい」

「え、いえまだ大丈夫で……」

「そうですね。馬車の準備をさせましょう」

 そう言い残すとカミーユが教室を出ていってしまった。


「そんなに心配しなくても……」

 確かに疲れてはいるが、早退するほどではない。


 今朝も朝起きた時から出かける直前まで、息子夫婦に体調は大丈夫なのか、不安はないかと何度も心配された。

 階段から落ちた時の怪我や痛みはもうすっかり何ともない。

 若い子たちに囲まれての学園生活には、確かに不安はあるけれど……マリアンヌのためにもいつまでも引きこもっている訳にもいかないのに。

 カミーユもわざわざ遠回りして迎えに来てくれたし、まったく、みんな過保護過ぎる。


「それは心配するだろう」

 ふと殿下は目を細めた。

「アンが大切だからな」

 私を見つめる、その眼差しはとても優しくて、私を心から慕っていることを語っていて――そうして、私の中ではまだ一ヶ月前に別れたばかりの、夫アルノーを思い出させた。




 戻ってきたカミーユと殿下に伴われて、私は馬車が待つ車寄せへと向かっていた。

 今は昼休みで、学園内は多くの生徒たちが行き交っている。

 朝もだけれど、すれ違う度に驚きと好奇の視線を感じるのはどうも落ち着かない。


「フレデリク殿下」

 もう少しで玄関へと辿り着こうとした時、背後から声をかけられた。


 振り返ると一人の男子生徒が立っていた。

 赤いリボンタイをつけているから一年生だろう。

 この学園では男女共に首元に巻くリボンタイの色で学年を区別する。

 一年生は赤、私たち二年生は青だ。


 褐色の肌に銀色の髪というこの国では見かけない色彩を持つ、エキゾチックな風貌の彼は、おそらくゲームの攻略対象の……。

「アドリアン殿下」

「婚約者殿は復帰されたようだな」

「……ああ。だが記憶が戻らないんだ。アン、こちらはアドリアン・ミジャン殿下。ミジャン王国から留学中だ」


「――マリアンヌ・バシュラールです。ご無礼をお許しください」

 私はスカートの裾を摘むと礼をとった。

 記憶喪失とはいえ他国の王族を忘れてしまっているのは失礼だろう。


「気にしなくていい、記憶喪失とは大変だろう。しかし本当に全て忘れてしまったのか?」

 琥珀色の瞳が、じっと私を見つめた。

「……はい」

「階段から落ちたんだな、その時のことは何も覚えていないのか?」


「アドリアン殿下。何か気になることが?」

 カミーユが口を開いた。

「少しな……」

 思案するように一度視線をそらせてから、アドリアン殿下は再び私を見た。

「マリアンヌ嬢が落ちたという日、図書館の方から強い光を見たと私の護衛が言っていたものだから」


「強い光……ですか」

 私はカミーユと顔を見合わせた。

「護衛が立場上気にしている。マリアンヌ嬢と関係があるのならばと思ったのだが」

「――その光については把握しておりませんでしたが。こちらでも調べてみましょう」

「ああ、頼む」

 カミーユの言葉に頷くと、アドリアン殿下は踵を返して去っていった。



「強い光ですか……。そのような情報は入っていませんでした」

 アドリアン殿下の背中を見送りながらカミーユが言った。

「マリアンヌが階段から落ちた件と関係あるのか?」

「分かりませんが……アドリアン殿下が気にされているならば調べないとなりませんね」

「そうだな。王宮にも報告しておこう」

 フレデリク殿下は頷いた。

 マリアンヌが落ちた、その図書館から放たれたという強い光……何か関係があるのだろうか。


「……あの、ところで」

 私はふと気になったことを尋ねてみることにした。

「ミジャン王国というのは、あまりこの国と交流がありませんよね。その王子様がどうして留学に?」


 ミジャン王国は地理的にも遠く、移動するのにひと月ほどかかると聞いたことがある。

 この学園は貴族としての常識を学ぶ場所であり、遠方からわざわざ留学するほどの価値があるようには思えない。

 ゲーム内では留学の理由も出ていたのかもしれないが……私はアドリアン殿下のルートは未プレイなのだ。


「ミジャン王国は今、政権争いが起きているそうだ」

 殿下が答えた。

「アドリアン殿下は側室殿が生んだ第三王子。本来ならば王位継承の可能性はほとんどないが、彼を担ごうとする勢力があるらしい。それであえて政治的な交流がほとんどない我が国へ避難を兼ねて留学しに来たんだ」

「下手に同盟国を頼ると、相手国を巻き込む可能性がありますからね」

 カミーユが補足してくれる。

「先ほどの護衛が光を気にしたというのも、母国の政争と関わりがある可能性を考えているのでしょう」


「そうなのね……まだ子供なのに家族と離れてこんな遠い国へ来て大変ね」

 そう言うと、カミーユと殿下が微妙な表情になった。


「十五歳はもう子供ではありませんよ」

「そう? 私からすればまだまだ子供だわ」

 当人たちからすればもう一人前と認められたい年頃なのだろうけれど。

 少なくとも学生の内はまだ子供、それが大人側の認識だ。


「……マリアンヌの顔でそういうことを言われると複雑ですね」

「ふふ、ごめんなさいね、中身はおばあちゃんで」


「――アンはおばあちゃんなんかじゃない」

 ぽつり、と殿下がむくれた顔で呟いた。

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