旅の出発点
窓から漏れ入る光で目が覚めた。
暫く仰向けのまま呆然と知らない天井を眺めた。そして、手を天井に伸ばした。当然届くはずもなく、腕はパタリと倒れた。
何となくここがホテルの寝室だということを理解した。
寝ぼけたからだを布団から起こし、ヘンゲリーはフラフラとお手洗いに向かった。
洗面台で手を洗っている時ふと鏡を見た。髪の毛は少し乱れ、シャツはボタンが外れ、右肩が完全に露出しており、正面は全開で下着が見えているというまさに寝起きだと言わんばかりのだらしない自分が映っている。
そしてまた、ヘンゲリーはフラフラと洗面台を後にし、ベッドに戻ろうとした。
途中、あまり身に覚えのない扉を通ったが、ヘンゲリーは気にすることなくそのままベッドに向かった。少し違和感があったが、ヘンゲリーはそのままベッドの中に入った。
久々にまともな床に就いたので昨晩は良く眠れたが、やはり眠いものは眠い。ヘンゲリーはそのまま二度寝しようとした。
すると、後ろでゴソゴソと音がし、聞き覚えのある声が聞こえた。
「へリーシャさん、ここで何してるんですか? 」
ヘンゲリーは体ごと横を向いた。するとそこには金髪で碧眼の女性の顔が僅か5センチほど先にあった。彼女は布団を顔半分まで被り、半ば呆れ軽蔑したような目付きでヘンゲリーを見つめている。
少し間が空いてからヘンゲリーはようやく状況を理解した。部屋を間違えたのだ。
昨日、フリーダはヘンゲリーの身辺警護の為に隣の部屋で寝ており、二人の部屋はコネクティングドアで繋がっているのだ。
「お、おはよう〜……」
ヘンゲリーは何事も無かったかのように振舞おうとしたが、どう考えても無理だ。
「私に何か用ですか? 」
心地よい朝の睡眠を邪魔された彼女は少し不機嫌そうに唸った。
「へ? え、えっと、その……」
「部屋を間違えたんですね。分かりました」
彼女はヘンゲリーの言葉に耳も貸さず、ため息をついて布団の中から出た。よく見ると彼女が身に付けているのはロングシャツではなくただのシャツ、恐らく仕事着のものを身に付けているだけで、その他に身につけているものと言えばパンツと外された第二ボタンあたりのところから顔を見せているブラシャーぐらいだろう。
フリーダはボタンを外しシャツを脱ぎその身体を露にした。彼女の体はライン共々美しさを残しながらもしっかりと引き締まっている。昨日はパンツスーツ姿だったのであまり感じなかったが、今のフリーダを見ていると彼女も女なのだと改めて実感させられる。
そう思いながらヘンゲリーは彼女を半ば放心状態で眺めていたが、さすがのフリーダもこれに気づいた。彼女は香水をかけようとした手を止めてジト目でヘンゲリーを睨んだ。
「私の体なんか眺めてなにか面白いんですか? 」
「綺麗な体つきだなって思って」
「え? あ、それはどうも」
フリーダは不意をつかれたかの様に照れ隠しをした。
「あなたもそろそろ着替えたらどうです? 」
「分かったわ」
ヘンゲリーは照れ隠しをする彼女を見て少し笑みを浮かべながら答えた。
布団から出て、ヘンゲリーは自室に戻り革製のトランクを開けた。ヘンゲリーはその中から適当にシャツとスカート、セーター、それからストッキングとガーターベルトを取りだした。
本来は昨日着ていた服をそのまま着ても良かった。
しかし、かれこれ六日間服を着替えていない。さすがに汚れているだろうし、臭いも気になる。
ヘンゲリーはロングシャツのボタンを外し布団の上に脱ぎ捨てた。
少し肌寒い。
ヘンゲリーは少し両手で体をさするように腕を組んだ。
いくら祖国より南にある国と言えども寒いということに変わりはない。ただ、セントラルヒーティングがあるのでまだ室内の寒さは幾分かマシではある。
ヘンゲリーはガーターストッキングを手に取り、ベッドに腰かけながら片方ずつストッキングを履き始めた。
「着替え終わりましたか? 」
パンツスーツ姿のフリーダが開けっ放しのコネクティングドアをノックしながら部屋に入ってきた。
「手伝いましょうか? 」
彼女はミディアム程の金髪を一つに縛りながら声をかけた。
「お願いできる? 」
「いいですよ」
「じゃあ、そこのホルスター取ってもらえる? 」
フリーダはヘンゲリーが指さしたホルスターを取り彼女に手渡した。ヘンゲリーはそれを受け取り右太ももに固定ベルトを日本巻き付け、吊り下げ用のベルトをガーターベルトに繋いだ。そして、ヘンゲリーはシャツとスカートを身につけた。
「ヘリーシャさん、ここに座ってください。髪の手入れをしますので」
フリーダはブラシを手に取って化粧台の横で待機していた。ヘンゲリーはフリーダの親切さに少し笑みを浮かべて、席についた。
フリーダはヘンゲリーの髪をゆっくりと丁寧にとかしていった。
その後身支度を終えて、ヘンゲリーはフリーダと共にホールで朝食を摂った。この時、コンシェルジュのエレノアが挨拶をしてきた。この時、ヘンゲリーはフリーダもここの従業員だということを思い出した。昨日からというもの、二人共その場で出来た友人の様に接していたため、完全に忘れていた。
「ヘリーシャさん、フベルト様より伝言を預かっております」
食事を終え、部屋に戻って荷物を纏めているとフリーダが一枚の紙と革製の使い古されたトランクを持って部屋に駆け込んできた。
「ヘリーシャさん、少し荷造りを急いだ方がいいかもしれません」
「それはいいけど、どうして? 」
ヘンゲリーは布団に並べられた衣服を丁寧にトランクに詰めながら聞き返した。
「フベルト様から電報で、ヘリーシャさんが乗る列車が午前中のものになったとのことです。ですので、射撃の練習とスイーツはまた今度ですね」
「そう……」
ヘンゲリーは少し表情を曇らせた。
「で、フリーダちゃんのそのトランクは何? 」
「あなたのです」
ヘンゲリーは困惑した。
「でも、私のはここにあるわよ? 」
「いえ、そのトランクは人目見ただけで高級品だということがわかりました。それでは道中窃盗や強盗に遭いかねません。ですので、その中には高価なものや使わなさそうなものを入れてください。ここからの移動に使う必要最低限且つ安価なものを私の持ってきたトランクに入れてください」
しかし、それでは懸念が残る。衣服だ。ヘンゲリーが持ってきているのはどれもそこそこの値のする品ばかりだ。
「それじゃあ、私の着替えがほとんど持っていけないじゃない」
「大丈夫です、ここに私の服を何着か入れておきました。ヘリーシャさんのの服のサイズは大体私のと同じなので」
「でもそれじゃあ、フリーダちゃんが着る服が無くなるじゃない」
「心配ありません。私、普段からスーツしか着ないので」
ヘンゲリーは唖然とした。女性でここまでファションにこだわらない人間は初めて見たからだ。
「そ、そうなのね。ではありがたく貸してもらうわ」
「分かりました。では、私が荷造りをさせていただきますね」
フリーダはヘンゲリーの返事を待たずして、ヘンゲリーのトランクの横にもでてきたとランクを開けて並べ、次々と衣類や持ち物を選び出してトランクに詰めていった。そして、時折ヘンゲリーにこれは必要な物なのかと訪ねながら彼女の荷物を仕分けていった。
そして、フリーダは必要と思われる物のみを詰め込み、トランクを閉じた。
「行きましょう、時間が迫っています」
フリーダはヘンゲリーの荷物を持ち、彼女が部屋を出たのを確認すると、部屋の扉に鍵を掛けて、フロントに向かった。それを、ヘンゲリーは革製のサーベルケースを担ぎながら少し駆け足で追った。
ホテルの正面玄関には既に辻馬車が待機していた。
待機していたボーイが馬車の扉を開けてくれた。ヘンゲリーは彼に2アルマ硬貨を手渡した。その後、トランクを持ったフリーダが乗り込んだ。
一息つこうとふと視線を前にやると見知った顔があった。
「おはよう、昨日はよく眠れたかな? 」
「フベルトさん!? お、おはようございます。もしかして態々迎えに来て下さったのですか? 」
「駅に行く時にちょうどこの近くを通るだろうからね。ついでに君も乗せていこうと思ってね。それにしても、汽車の件については申し訳ないことをした」
「気にしないでください」
「そう言って貰えると気が楽だ。フリーダちゃんも、無理難題聞いてくれてありがとうね」
「いえ、これが仕事ですので」
フリーダは淡白に答えた。部屋ではそれなりに感情が表に出ていた彼女を知っているヘンゲリーは、少し慣れない感覚を覚えた。
「そういえば、汽車の時間が変わったのは席を取ることができなかったということですか? 」
「いや、午後になるにつれて列車が止まる可能性があるからだよ」
ヘンゲリーはフベルトの答えに首を傾げた。
「列車が止まる? 何かあったのですか? 」
「ワイバーンだよ」
すると、フリーダはフベルトの発言に少し突っかかった。
「ワイバーンですか? なんでこんな時期に。それにこのような街中に来るなんてとても考えられませんが」
「僕もそう思いたいよ。でも、現実ではどうやらそうはいかなさそうなんだ。先日、ノルトシュタットの近郊で魔道生物によるスタンピードが確認されたんだ。規模的にもあまり楽観視はできない」
フベルトは険しい表情をした。
「これを見るんだ」
フベルトはヘンゲリーに持っていた新聞を手渡した。それを、ヘンゲリーとフリーダは二人で眺めた。
新聞の一面には各地で魔導生物による行動の異変について、取り上げられていた。
「見ての通り、最近魔導生物の行動に異変が見られる。あまり大事にならなければいいが」
フベルトは馬車の窓から空を眺めながら呟いた。
ヘンゲリーはこの国の内情を知るべく二面にも目を通した。そこには南部の金鉱の街で、治安が悪化したために自警団が設立されたという記事が載っていた。
これも戦争の爪痕なのだろうか?
ヘンゲリーはそう思いながら次の面に移ろうとした時、フリーダがなにかに魅かれたかのようにそれを遮った。
「フリーダちゃん、どうかしたの? 」
しかし、フリーダは何も答えず、その面に掲載されている写真をまじまじと見つめた。
「生きてた……」
「え? 」
「あと人はちゃんと生きてたんですよ! 」
フリーダはヘンゲリーに希望に満ちた眼差しを向けけながらそう告げた。彼女の目は抑えていた感情が動いたのか、少し涙ぐんでいる。
「生きてたって、君の知り合いの誰かのことかい? 」
困惑しているヘンゲリーにかわって、フベルトとが彼女の言葉の意味を聞いた。
「はい、少佐です」
「少佐? 一体君は誰のことを──」
「アルマーニ少佐です」
フリーダの言葉に、フベルトとヘンゲリーは一気に真剣な表情に変わった。
「一体どれだ?」
三人は共に新聞の二面に掲載されている写真に注目した。
「ここです」
フリーダは写真右奥の端っこに写っている人物を指さした。その人物は、カップで何かを飲みながら中央に現地の人間から暖かいスープか何かを振る舞われている自警団の人々を横目で見ている。そのため、顔は鼻と目元の間から上と、顎が少し写っているだけだ。
相当寒いのか、彼はコートの上にフード付きのローブも羽織っている。その寒さ故なのか、彼の表情は若干険しい。
「フリーダちゃん、本当に? 」
「いや、これは間違いなくあいつだ」
フベルトはフリーダが答える前に彼女の目に狂いがないことを断言した。
しばらくすると、馬車は駅に着いた。三人はそのままホームに向かった。
ホームにはナンバープレートにC62 15と記載された、除煙板を持つ黒くて大きな機関車が時折蒸気を出しながら停車していた。
「ヘリーシャちゃん!」
ホームではリーナと平八郎が待っていた。
「リーナちゃん、それに平八まで! もしかして、お見送りに来てくれたの? 」
「そうよ」
リーナは満面の笑みで答えた。
「二人ともおはよう。来てくれていたんだね」
フベルトは微笑みながら挨拶をした。
「リーナは普通に見送りに来ただけですけれど、俺はこれを渡そうと思って」
平八郎は抱えていたものをヘンゲリーに手渡した。それは革製のレッグホルスターにガンベルトが巻かれているものだった。ホルスターには古めかしいリボルバーが柄を覗かせており、ガンベルトには古い軍用の弾薬ポーチが幾つか取り付けられていた。
「これは……?」
「あいつに、会ったら渡して欲しいんだ」
平八郎は少し懐かしそうな顔をしながらそう言った。
「あの人の物なんですね」
「ああ、ずっと借りっぱなしだったからな」
「分かりました。大事にしますね
ヘンゲリーは微笑みながらそう言った。
「ヘリーシャさん、荷物は既に積み込ませておきました」
何処と無く現れたフリーダが、声を掛けてきた。
「それから、これも。これ無くして列車には乗車出来ませんから」
フリーダはヘンゲリーに急行券を手渡した。
「え? あ、ありがとう。そう言えばままだ渡していなかったわね」
ヘンゲリーはそう言いながらフリーダに20アルマ紙幣を差し出した。
「さすがにこれは……」
ヘンゲリーは困惑しているフリーダの手を掴み、紙幣を握りこませた。
「いいの。あなた、昨日は夜付きっきりだったでしょ? その分も含めてよ」
「しかし……」
「いいから、黙って受け取っておいて! じゃないと、私がずっと心残りになるからさ」
渋々納得したフヒーダをみてヘンゲリーは満足気に笑みを浮かべた。
「じゃあ、私からはこれをあげるね」
隙を見たリーナはヘンゲリーの頬にそっとキスをした。
「リーナちゃん!? 」
「油断してたでしょ」
リーナは悪戯っぽく笑みを浮かべた。彼女の行動に平八郎は驚き呆れていた。
「さあ、別れを惜しむのもここら辺にしておこう」
フベルトが時計を見ながら口を開いた。
「それじゃあ、皆さん。行ってきます!」
ヘンゲリーは皆の方を振り返り最後の挨拶をした。
「頑張ってね!」
リーナは有り余った元気で溢れかえるような声でヘンゲリーに見送りの言葉をなげかける。それに答える形でフリーダはにっこりと笑みを浮かべ手を振った。
ヘンゲリーは急行券で指定された客車に乗り込んだ。その時、デッキですれ違いざまに誰かが声をかけてきた。
「ヘンゲリーさんですか?」
「ええ、そうですが──」
「振り向いてはいけません」
ヘンゲリーは彼女のほうに視線をやろうとすると、彼女に止められた。
「いいですか? もし、あのお方に会ったらこの手紙を渡してください」
ローブ姿の女性はヘンゲリーにそっと手紙を差し出した。ヘンゲリーは怪しげに思いながらもそれを受け取った。
「どうかお気をつけて、夜は道中を歩かないことです」
そして彼女は歩き出した。
「あの……!」
ヘンゲリーが振り返った時には彼女の姿はもうそこにはなかった。
何とも不思議な出会いだ。
ヘンゲリーは手紙を不審な目で見つめてからそっとポケットにし舞い込んだ。
ヘンゲリーは指定された席を探し、コーパメントの扉の上にある番号と乗車券の指定番号を照らし合わせながら廊下を歩いた。
暫く歩くと乗車券と一致したコーパメントを見つけた。
ヘンゲリーはノックをしてそのまま扉を開けた。
「お邪魔します」
そこには進行方向と反対側を向いた席に薔薇が似合いそうな香気纏う妖艶な一人の女性が座っていた。
「あら、相席とは聞いていたけれど。こんな可愛子ちゃんが来るなんてね」
彼女は微笑みながらそう言った。
「さあ、入って。もう出発するわよ」
ヘンゲリーは軽く会釈して神秘的な彼女の前に腰掛けた。すると、先頭のC62が汽笛を鳴らした。機関車はシリンダーコックを開き、白い蒸気を左右に吹き出しながら徐々に動き始めた。車窓からはホームで見送ってくた四人の姿があった。ヘンゲリーは彼らに手を振り応えた。
汽車は更に速度を上げながら街中の路面に敷かれたレールの上を走る。
これからはじまる旅にどのようなことが起こるかは分からない。確かなのは、ヘンゲリーの中では不安よりも期待の方が大きかった。
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