1861 新撰組の源流「試衛館」

近藤問答録 ①

「始めッ!」


 開始の声は、木刀の唸りに消された。


 小柄な体をさらに小さく折りたたんで、敵は足元に潜り込んできた。そこまでは目に入っていたから、俺は片足を引いて、打ち込みを受ける軸にする。


 せり上がってくる初撃の突きは、向かって右から。

 弾こうとした瞬間に、左の手首を打たれた。


「ぎっ……?」


 激痛と、困惑。なぜ、反対から突きが飛んでくる? まさか、二撃目の突きだとでもいうのか?


 そして、鼻先に三の突き。


 みっともなくのけぞったのが、正解だった。あのままの姿勢であれば、どちらかの目は潰れていたことだろう。


 がらん、ガタン!


 ……とはいえ、喉元を穿たれて、俺は負けた。真剣ならば、脈を断たれてそれまでだった。

 木刀だけが道場に残って転がり、俺はというと、外の砂利までもんどりうつ。

 蛙のような仰向けの姿勢になるまで数秒もかからず、屈辱を感じる暇さえなかった。


「ほら、近藤先生。こんなものですってば」


 したり顔で俺を見下ろすのは、年端もいかない花のような剣士だった。


 奴は道場の縁にしゃがんで、べぇ、と舌を出す。


「何が道場破りですか。私に勝てない腕のくせに近藤先生の前に立とうなんて、お笑いですね」

「……っ、黙れ」

「やだぁ、こっわーい」


 と、奴はぱたぱたと足音を立てて道場の中に引っ込むと、木刀を脇に抱えた六尺大の男の袖にしがみつく。


「……おまえは、剣を握るとどうも性根がひん曲がる。そんなところまで、トシの真似などするんじゃない」


 大男は小岩のような拳で、花の剣士の額に軽い拳骨を与えた。それから大きな歩幅でずんずんと歩き、俺の傍におりてくる。


 こいつが、この道場の主。頑強な体躯をぎゅうとかがめて、俺と視線を合わせる。


「どうだ? 一つ負けを知ったわけだが、野望とやらは変わったか?」

「……変わるもんかよ」


 手のひらで鼻を拭った。べたりと付着する赤黒い血を、砂利に擦り付ける。


「俺は、剣で成り上がって、一国を登っていく。……その時、あんたを俺の家臣にしてやるよ」

「ぐ、くはっ!」


 負け惜しみを吐く俺に、道場主は豪快に笑った。


「家臣に下るのは御免だが、同じ釜の飯を食う同志にはなれる」

「…………」

「俺は、近藤勇。君の名を教えてくれないか?」


 道場主は血豆の痕が並ぶ手のひらを俺に差し出す。

 鼻血に濡れていない手で、俺はそれを弾いてやった


「……永倉、新八」


 一八六一年。俺は、近藤勇と出会った。


 *


 江戸、市ヶ谷の試衛館道場。丸めた着物を枕に、俺は横になっている。

 地面に擦れた左の側頭部を上にして、声も出せない喉を摘まみ、俺はぼぅっと稽古を眺めている。


「何をしているかッ! さっさと、トシの仕合を終わらせろッ!」


 野太い怒号は、近藤、と名乗った道場主のもの。周りの奴らは揃いも揃って縮こまって、道場の中心に立つ男に竹刀を向ける。


 役者小屋から飛び出してきたかのような彫りの深さが特徴的な男は、俺と同じ背格好だが、腕や脚の厚みのある筋骨に無駄なものはなく洗練されている。竹刀を右手に持ち、無造作に構えると、取り囲む門下生との距離を詰める。


「ぎゃっ!」


 ひとりが蛙のような声をあげた。

 トシ、とやらが、踵で相手の足の甲を踏み抜いたのだ。


 歪んだ相手の横っ面を、男は柄で殴り飛ばす。


「おいおい、お上品にやってんじゃねぇよ。骨が砕けるかぶっ倒れるか、どちらかじゃねぇと手合わせは終わらせない。それが、オレとやりあう時の決まりだろうが」


 男はようやく竹刀を両手で構え、腰が引けている有象無象に軽薄に言い放った。


 周囲の者たちが安い挑発に血を上らせて、男に襲いかかる時点で……勝敗など火を見るより明らかだった。


 数えるまでもなく、役者顔の男の足元に十人もの門下生が転がった。


「…………」


 汗を拭い、男は俺の鼻のすぐ横に膝を置く。


「左の手首の打撲か。あのバカの突きで砕けないとは、骨の硬いヤツだな。……永倉新八、といったか」


 粗暴な口調でありながら、俺の患部を触れる手だけには気遣いを感じる。男は自分の荷物から薬を引っ張り出して、俺に投げてきた。


「?」

「喉も潰れたんだっけな。打ち身を抑える薬を塗っておけ。さっき引き抜いた、小銭分がそれだ」


 ……後に財布を見ると、所持金の半分がこの薬となっていた。


 俺は肘で体を支えて、そいつを見上げた。童が二人は入るほどの薬箱を背負って立ち、男は俺の視線を受け止める。


「オレは、土方歳三。喉と左手が治ったら、相手をしろよ」


 がら、がら、がら……と、土方は音を立てて道場を後にした。まだ稽古は続いているが、奴だけは先に上がった……。


「トシは、多摩の日野村から半日かけてウチに来ているから、この時間には戻らにゃいかん。泊まっていけばいいのだが、頑なに拒みやがって……」


 背後から、近藤の声が降ってきた。


「新八。おまえは泊まっていけ」

「…………」


 まっぴらごめんだ、と、潰れた喉では強がることすらできない。

 俺は右手だけで起き上がり、道着をひったくる。ずず、と、鉛のような足を引きずっていく……。


「片手が動かず、喋れない。その上、狼のような目をして、泊めてくれる宿はこの辺りにないぞ?」


 近藤が俺の肩に手を置く。ただそれだけで、俺は動けない。肩を掴む単純な力で、近藤は俺を止めた。


「ちょうど、トシの分の飯と布団がある。なに、遠慮はするなよ、新八!」


 がはっ! と、近藤は舌の根が見えるほど口を開けて笑った。


 遠慮などという感情は、微塵もない。俺は、出会って間もないままに名を呼び捨てる近藤の軽々しさにただ辟易していた。


 そして、近藤が俺を相手にしていると、鋭い眼を向けてくる奴がいる。


「…………」


 庭の梅の木陰で箒を握っているのは、俺を突き技ひとつで打ち倒した、花の剣士。風のせいであちこちに飛び跳ねる髪を梳くこともせず、奴は俺を……正確には、近藤に肩を組まれる俺を、じっとりと睨みつけてくる。


「これ! 掃き掃除は終わったのですかっ?」


 キンキンと、甲高い声が飛んでくる。

 両肩に襷をかけて袖をまとめる細身の女性が、奴の首根っこを掴む。


「お、おかみさん」

「今日の剣術はもう終いだと、言っているでしょう!」

「でも……」

「口答えする暇があるなら、手を動かしなさい!」

「……はい」


 ぶすっと頰を膨らませて、奴は門前へと重い足取りで向かう。


「気になるか? あいつが」


 近藤の顎が俺の肩にある。払いのけるのも億劫で、声すら出せない俺は小さく頷いた。


「あいつはこの道場の内弟子だ。名は……沖田ソウ。陸奥国白河藩の武家、沖田家の、三女だ」

「おん、な……?」

「もう喋れるのか。頑丈な男だな、新八」


 また笑う近藤の軽薄さは、いよいよ俺を苛立たせる。体を揺すり、奴を振り払う。


「家事の合間でなければ、道場には立たせない。それが、義母との取り決めだからな……」


 と、残念そうに眉を垂らす近藤は、俺の背を叩いてから稽古に戻った。


「…………」


 その間も、沖田は門の向こうから道場の中を覗いていた。箒を木刀に見立て、中段の構えをとっていると、おかみさんの雷が落ちた。


 *


「ながくら、しんぱち。字は、長短の長か?」

「違う。……そいつは、名乗らなくなった方だ」


 虫の食った座布団に腰を据え、答えると同時に水を喉に流す。まだ熱を帯びているが、喋ることに支障はない。


「なるほど、藩邸を飛び出しての武者修行。脱藩と同義であるから、生まれのままの『長倉』は名乗れぬ……か」


 近藤は大袈裟に頷いている。

 俺は辿々しく、この道場に殴り込みにくるまでの経緯を語っていた。

「おまえを知りたい!」と引き下がらない近藤に根負けした形だが、もたつく説明に機嫌を損なうこともなく、近藤はじっと俺の半生を聞いていた。


「そんな、所だ」

「では、剣とその身一つで道を切り開いたのが、おまえか! 新八、やはり気骨のある男だなァ!」


 近藤は芋の酒を煽っているからか、声が昼間の二割り増しで大きい。床が震えるほどに笑って、膝を叩く。


「これまで、道場破りで負けはなかった。それを……」

「こんな田舎道場で打ち砕かれるとは思ってもみなかった、と、いったところか?」


 柘榴鼻を爪で掻き、近藤が俺を見据える。俺の腹の底まで覗くような視線だった。


 その通りだ。こんなボロの祟った道場に、まともな剣士などいないだろうと高を括っていた。


 十六で家を飛び出し、剣術修行に身を投じてから、同じ年頃の奴に俺より稽古の進みが早い奴はいなかった。年長者を相手にしたとしても、俺は対峙する奴よりいつも早く、鋭く、強かった。道場での立ち合い、まず負けることなどなかった。


 この試衛館道場の者たちが振るう天然理心流も初見ではなく、打ち方と足運びの傾向も記憶に残っていた。目の前の、図体ばかりの道場主を転がしてやろうと思っていた……昼間の俺が、愚かしい。


「道場主どころか、内弟子の、女に負けるなんて……」

「新八。誤解をしてくれるなよ。道場破りへの礼儀は、尽くしたつもりだ」

「あ?」

「ここまで乗り込んでくる者に、並並ならぬ気骨と実力があるということは、わかっている。迎え撃つ礼節は、最も優れた剣士が相手をすることに限るだろう?」


 近藤は落ち着き払った口調で言った。この時ばかりは膝の横に猪口を置いて、背筋をしゃんと伸ばしている。


「つまり……この試衛館で最も強いのは、沖田ソウだ」


「……道場主が、何を言っている」

「就任したばかりの四代目に、酷なことを言うなよ。それに、道場主は強いだけで勤めてはいけない。……というのは、聞き苦しい言い訳か?」


 最後だけ肩の力を抜いた近藤に、俺は尋ねる。


「あの男は、どうだ? 土方といった、薬売りがいただろう」

「トシを見抜くか、新八。やはり、おまえは特別な剣士だな」

「世辞も行き過ぎたら嫌味だ」


 鼻を鳴らすと、近藤はだらりと笑った。


「気を悪くしてくれるな、新八」


 と、近藤は俺に膝を近づける。


「新八。お前の腹の中だけ覗くのは、不本意だ。今度は、俺たちの番だ」

「俺たち……?」


 鸚鵡返しに、近藤は鼻を膨らませて笑う。


「俺と、トシと、ソウ。俺たちがいかに出会ったのか。新八。おまえには、知ってほしいんだ」

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