わたくしは庶民、わたくしは庶民、わたくしは庶民

 あと悔しいけれど意外と楽しいのよね。令嬢を楽しませるすべを心得ているということかしら。さすがは魔王といったところね。悔しいけど。


 ヴィンセントの言うとおり、庶民に変装して上流階級以外の生活を見るのは勉強になるかもしれない。


「そうね。分かったわ。あなたの口車に乗せられたみたいで嫌だけど、勉強になるだろうし興味が湧いたのは事実よ。行くわ」


「そうこなくっちゃ。楽しみだね。いつもの格好だと目立つから、メイドに服を借りるといいよ。脅すわけじゃないけど、盗難とか、狙われるかもしれないからね。僕ももちろん気を配るし、目立たなければ平気だから」


 ヴィンセントははしゃいだ少年のような笑顔を見せた。言葉の内容と表情が合っていない。好奇心に不安が混ざりこんできたが、シスターになるのならいつまでも守られる令嬢の立場に甘んじてはいられない。


 お兄様に小型拳銃の使い方を教えてもらおうかしら……いえ、だめね。絶対に勘ぐられるわ。やっぱりいざとなったら扇子で目を狙うしかないかしら。あらでも扇子は庶民が持ち歩くものなのかしら?


 未知の世界への興味にうっすら立ちこめる不安。それを飲みこむように、わたくしは正面で顔をほころばせるヴィンセントを眺めて紅茶のカップを傾けた。




 そうして週末、わたくしは街に降り立った。庶民に扮してということなので、だいぶ手前で馬車を降りて、待ち合わせの場所へ歩き出す。道には魚のフライを出している屋台や、こまごましたジュエリーを窓から見えるように置いてある店、看板は出ているものの何の店だか分からない建物が連なっている。


 はっ、いけないわ、物珍しくてきょろきょろしてしまうけれど、きょろきょろしたら庶民ではないとばれてしまうじゃない。わたくしは庶民、わたくしは庶民、わたくしは庶民。


 メイドに服を借りたので、街行く人々とはなじんでいるはずだ。装飾のないグレーのドレスにケープ、丸い帽子である。靴だけはどうしてもはき心地が合わなかったので、自分のなるべく質素なものをはいてきた。


 メイドに教えてもらったとおりの道を歩いて、待ち合わせ場所の馬の像が見えてくる。ヴィンセントはまだ来ていないのかしら、と見回すと、手を上げて駆け寄ってくる男性の姿があった。


「おはよう。迷わなかった?」


 いつものトップハットではなく、低く黒い帽子、外套、ズボンも黒で、靴は古そうだが綺麗に整えられている。もともとくせのある白っぽい金髪も、いつもより色々な方向へ跳ねている。貴族のお忍び感が隠しきれていない気もするが、何だか新鮮である。


「おはよう。平気よ」


「そう。よかった。質素な君も新鮮で美しいね。やっぱり人間は中身だね」


 安定の社交辞令はいつもの魔王だが、まあお互い社交界疲れしているかもしれないので、たまにはこういうのもいいのかもしれない。


「じゃあ行こうか。すぐ近くだから」


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