赤き浮き名の魔王
けれどもう嫌だ! 胸が小さいからという理由で婚約破棄される社交界にもう耐えられない。わたくしがシスターになったら家にはさらに不名誉な噂が立ってしまうが、逆に『シスターの陰口を言うなんて神の国に入れませんよ。不謹慎な』ということになってましなのではないだろうか。今のままだと、たとえ誰かと結婚できても『胸が小さいからと婚約破棄された』と言われ続けるのだ。
まあこんなことを考えても、わたくしこそばかな娘に違いない。お父様、お母様、お兄様、ごめんなさい。でもサイラスのばか息子も、胸のサイズで婚約破棄される社交界も、もう無理です。無理なんです。嫌。もう無理。
けれど両親は優しいから、娘がこんなばかなことをしようとしていても、許してくれるのだろうなと思った。サイラスのときだって、貧乏を理由に反対しようと思えばできたのに、浮かれてしまっていたわたくしの意見を尊重して結婚を認めてくれた。だから余計に心が痛い。
ただ、兄だけは今回の件でもサイラスの家に殴りこみに行きそうだし、わたくしがシスターになったらサイラスを刺しに行きかねないけれど。いや、けれどシスターになったほうが生涯未婚で兄は喜ぶのだろうか?
そんなくだらない考えに思考が滑っていたら、物音が聞こえた。体が跳ねる。じゅうたんなので聞こえづらいが、靴音が近付いてきている。
隠れるのもおかしいので、靴音の
廊下の角から黒のえんび服が現れる。白いクラバット、胸元のフラワーホールに、冬だというのに白いバラ、ふわふわと緩くくせのある白に近い金の髪、ランプに照らされた赤い瞳。まるでユキウサギのようだ——と目を奪われていたところで我に返った。
『げ』と声が出てしまいそうになったが、もちろん口には出さない。シルクジョーゼットにラッセルレースを重ねた生成の扇子を広げて、口元を隠す。
ヴィンセント・ブラッドロー侯爵。またの名を『赤き浮き名の魔王』。
「ああ、レディ・ヘレナ・ロビンソン。こんなところで会うなんて何かの導きかな?」
ヴィンセントが何もしなくても整った顔に笑みを上乗せしてきて、薄暗い空間のはずなのに眩しい。
「ええ、こんばんは。ロード・ブラッドロー」
よりによってこんなひとけのないところで会ってしまうとは……。
ヴィンセント・ブラッドロー侯爵。二十二歳。両親は他界しているため、侯爵家の若き当主。未婚。結婚歴もなし。
結婚相手の条件としては申し分ないが、令嬢たちのあいだでは要注意人物とされている。女性にものすごく優しく、流した浮き名の数がすごいらしい。某公爵夫人の愛人だとか、王家にまで愛人関係が及んでいるとか何とか。『赤き浮き名の魔王』の赤は修羅場で流れた血とヴィンセントの瞳の色にかかっているだのうんぬん。どこまで本当か知らないが。
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