第19話 鈴音と楼蘭
無骨な見た目と違い、馬車の中は乗り心地がいい。
深い藍色をした布地が張られていて、落ち着いた内装になっている。
私は所在なく窓の外を眺めた。
「マリスフルーレ様。突然のことでびっくりなさったでしょう? 実は私もびっくりしています。ご挨拶もせずに申し訳ありません」
にこやかな笑みを浮かべたまま、女性が話しかけてくれる。
「いえ。……驚きましたが、ありがたいことと思っています」
私は一呼吸おくと、ゆっくりと話した。
こんなに穏やかに、ごく普通に誰かと言葉を交わすのは、ずいぶん久しぶりだ。
それこそ、お母様が亡くなった時以来かもしれない。
「突然来訪した挙句、大量の金貨でマリスフルーレ様を買い上げるなんて品のないことをして、困った主です。お城についたら必ず謝罪させますのでね」
「いえ、そんなことは……」
ゼスティア辺境伯の侍女は、ずいぶん気安く主について話をした。
謝罪をさせる――なんて、使用人が言ってはいけない言葉だ。
よほど親しくない限りは、貴族の主ならば大抵は怒って、罰を与えるだろう。
それぐらいゼスティア辺境伯とこの女性は、親しい間柄なのかもしれない。
「マリスフルーレ様、私はスズネ。鈴音と書きます。鈴の音という意味です」
スズネと名乗った女性は、私の手のひらを取ると文字を書いてくれた。
それは私の知らない文字だった。
東国では漢字という文字が使われているという。きっと、それを書いてくれたのだろう。
「御覧の通り、私は東国の人間です。ルカ様の侍女をしています」
「……スズネ、さん。……東国と、王国は長らく敵対関係にあったのではないですか? 辺境伯であるゼスティア様は、東国の兵を幾度も打ち破っているでしょう」
「ええ、そうです」
「……ゼスティア様の元で働くこと、辛くはないのですか?」
不躾な質問ではないかしらと不安になりながら、私は尋ねた。
ゼスティア様はいわば敵軍の将だ。鈴音は、捕虜ということなのだろうか。
「マリスフルーレ様はとても聡明な方でいらっしゃいますね! この国の人々は、辺境の戦いなんて興味がないというのに、よくご存じです。流石ゲオルグ様の血筋の方。私はとても嬉しいです」
「いえ、そんなことは……戦争については、お爺様の残してくださった歴史書で読んだだけですし……」
「私のことは、鈴、と呼んでくださいな! スズが言い難かったら、リンでもいいですよ。漢字には、沢山の読み方があるのです。マリスフルーレ様、歴史書を読み解こうという姿勢が素晴らしいのです。我が主は本当にいい方をお嫁さんに選びました」
「スズは……鈴は、お爺様をご存じなのですか?」
ゲオルグお爺様の名前を、久々に聞いた。
あの静かな図書室が、思い出される。お爺様の記憶はないけれど、私にとってはあの書庫が、もう燃やされてしまって残っていない沢山の本が、お爺様そのもののように感じられていた。
「ゲオルグ様は辺境ではとても有名な方ですよ。ルカ様と並んで、辺境の英雄です」
「お爺様が……?」
「ええ。ゲオルグ様はルカ様がまだ幼い時、軍の戦闘に立って辺境の血を守ってくださった方です。ゲオルグ様がいなければ、辺境の地は恐らく東国によって支配されていたでしょう」
「お爺様が、とても強い軍人だったということは、知っていました。でも、それほど……」
「はい。ルカ様も、ゲオルグ様を尊敬しています。私はお会いしたことはないのですけれど」
お爺様の話を思いがけず聞くことができて、私は嬉しくなった。
死んでしまおう――と、思っていたのに。
鈴音と話をしているからだろうか、不思議と心が凪いでいる。
「あぁ、ごめんなさい! 私がルカ様の元にいる理由をお話しようと思っていたのでした」
鈴音はそう言うと、少しの沈黙のあとに口を開いた。
「東国はとても、貧しい国です。切り立った山だらけの土地で、人の住める場所は少ないのです」
鈴は記憶を辿るようにそう説明しながら、懐かしそうに目を細めた。
今までずっと明るく振舞っていた鈴の口調に、影が落ちた気がした。
きっと――辛いことがあったのだろう。
分からないけれど、多分。
「元々貧しい国が、土地欲しさにローゼクロス王国に戦争を仕掛けました。そのせいでもっと貧しくなって、庶民たちは暮らしがたちいかなくなって、ローゼクロス王国に亡命するものも多いのですよ。ほとんどが、途中でみつかって殺されてしまいますけれど」
「そうなのですね……」
隣国との国境でそんなことが起こっているだなんて、全く知らなかった。
敵国に助けを求める程に、民は飢えて苦しんでいる。
生きるために、必死で逃げてきて――殺されてしまうなんて。
飢えの苦しさは、少し理解できる。私も数日まともに食べることができないときは、どうしようもないぐらいに、辛かった。
必死に、毎日を生きている方々が、たくさんいるのに。
自分のことだけで精一杯で、辛くて苦しくて、死んでしまおうとさえ思っていた私はなんて――情けないのかしら。
「私も、亡命者の一人でした。私と一緒に逃げてきた何人かは、途中で東国の兵に捕まって、殺されてしまいました。敵国に逃げようとしているのですから、内通者と思われても仕方ありません」
「……鈴。辛いことを聞いてしまいました」
「いえ、大丈夫です。もう過去の話ですから。私と、さっき一緒に居たロウラン……楼蘭は、たまたま助かりました」
鈴は再び私の手に文字を書いた。
楼蘭。それは、鈴音よりも難しい文字だった。
楼蘭も鈴音も、とても綺麗な響きの名前だ。
「仲間を失い、追手から逃げているところを、ルカ様が助けてくださったのです」
「ゼスティア様が?」
「マリスフルーレ様、是非、ルカ様と呼んであげてくださいな。きっと大喜びしますから」
「失礼では、ないのでしょうか……」
「いいえ、いいえ! ゼスティアと呼ばれるよりずっと、我が主は嬉しいと思いますよ」
鈴音の言葉に私は頷いた。
ここで意固地になっても仕方がない。
ルカ・ゼスティア様。ルカ様。何度か心の中で呟く。
「ルカ様は東国では悪鬼羅刹のように言われていましたから、私達は死を覚悟したのですけれど。でも、命を助けて城においてくださいました。それ以来私は侍女をしていますし、楼蘭は直属の部下をしています」
「……それは、噂とは随分と違いますね」
「吸血伯と呼ばれているのでしょう? 中央の貴族は愚か者ばかりですね! ルカ様が人の血を飲むわけがないのに。好き嫌いが多くてご飯を嫌がるので、血でもいいから飲んで欲しいぐらいですよ、私は」
失礼な事を言ってしまった。
私は反省して俯く。
人の噂ほど信用できないものはない。そんなこと、私が一番よく分かっているのに。
「ごめんなさい。私……酷いことを言ってしまいました」
「マリスフルーレ様! いいのですよ、いいのです! それもこれも、社交界を嫌がって領地に籠っている我が主が悪いのですから!」
「ですが……」
「おかげで二十七歳にもなって独身です。でも、そのおかげでマリスフルーレ様のような聡明で素晴らしい方をお嫁さんにすることができました。素晴らしいことです!」
鈴音は、明るくはきはきと言って、嬉しそうに微笑む。
敵国への亡命を決意するほど苦労をしてきているのに、今はその表情に暗さがまったくない。
――俯いてばかりいる私とは大違いだ。
鈴音は助けてくれたルカ様に、異性としての愛情を抱いてはいないのだろうか。
私のようなものがルカ様に嫁ぐことで、苦しんだりはしないのだろうか。
そうだとしたら、とても申し訳ない。
「あぁ、ごめんなさい。話に夢中になってしまいました! マリスフルーレ様、ローブを持ってきましたよ」
鈴音は馬車の椅子の上に置いてある鞄から、大きなローブを取り出した。
不思議な花模様の描かれた美しいローブだった。
袖の部分がふわりと大きく広がっている。
さらりとした生地のそれを羽織ると、ぼろ布のようなドレスがすっぽりと隠れた。
まるで、私のおかれた状況を知っていたかのような準備のよさだった。
「ちなみに、ですが。我が主は、正真正銘の独身。浮いた話は一つもなく、心を傾けてくれる女性なんて一人もいません。それから、私と楼蘭は夫婦です。もう三歳になる子供もいるのですよ」
私の不安を察してくれたように、鈴音が言う。
楼蘭と、夫婦。子供もいる。
私は、鈴音からルカ様を奪うわけではない。そう思うと、安堵した。
「……三歳の、子供? 鈴は、とても若いようにみえますけれど」
「東国の者は年よりも若く見えるのです。こう見えて私は来年三十歳になります。楼蘭は、三十三歳。マリスフルーレ様はまだ十八歳。……十八歳! 十八歳の若くて可愛い花嫁を貰うだなんて、我が主はなんて果報者なんでしょう……! なんてこと!」
「私は……私はそんなふうに言っていただけるような人間ではありません」
私は、穢れている。
この体に流れる血も。それから――知らない男に殴られて、触れられた体も。
鈴音は目を見開くと、私の手をぎゅっと握りしめた。
「マリスフルーレ様。あなたは誰よりも美しくて、心の綺麗な方。東国の産まれの私には、それが分かるのです」
「ですが、私は」
「――私には人見、という力があります。東国の女には時折不思議な力が備わります。魔女、と呼ばれますね」
「魔女?」
「はい。人見という力は、人の本質を見抜く力。マリスフルーレ様の顔を見れば、美しい方だとわかります。ミュンデロット公爵を見れば、最低な人だと分かります。それだけのものですけれど、言葉の真偽を見抜くぐらいはできるので、ルカ様には時々重宝されています」
「初めて聞きました。私は、知らないことだらけです。心も、綺麗ではありません。……恨みや、憎しみや、怒り、ばかりです」
東国の、魔女。
聞いたことはないけれど、鈴音が嘘を言っているとは思えない。
励ましてくれるのはありがたいけれど、私は自分が綺麗だとはとても思えなかった。
「それでもあなたは綺麗です! 私には澄んだ湖のように、美しく見えるのです。――沢山話してしまってごめんなさい。とても、疲れていると思うのに」
「ありがとうございます、鈴。話ができて、嬉しかったです」
「私もです、マリスフルーレ様! どうか、お休みください。ゆっくり眠って。……もう、誰もあなたを傷つけたりはしませんから」
「鈴……ありがとうございます」
鈴の言葉は穏やかで落ち着いていて、優しさに満ちていた。
私は言われたとおりに目を伏せる。
確かに私はとても疲れていて、すぐに深い眠りに落ちることができた。
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