7月27日 −4−
脱衣所の中では、優里先輩が洗面台にすがるような姿勢で崩れ落ちていた。
「先輩! 大丈夫ですか? しっかりして下さい!!」
呼びかけてもほとんど反応がない。かろうじて意識はあるみたいだけど、僕の声に答えるだけの余裕はないらしい。
「ごめ……力が」
「喋らないで。いいですか、抱えますよ」
必死だった。彼女が下着姿でいることも、その時はまったく意識する余裕がなかった。
僕は両腕で彼女を抱え上げ、寝室のドアを蹴破るように開く。彼女をベッドに横たえ、すぐ台所に取って返すと、冷蔵庫から氷を調達しようとして愕然とした。
「ないな、氷」
製氷皿は一度も使ったことがないらしく空だった。
一瞬、外のコンビニに必要な物資を買い出しに行こうかと考えた。だがこの部屋はオートロックで、外からの開錠は先輩の手のひらの掌紋認証だ。鍵はない。
今の意識朦朧とした先輩にインターフォンで中から鍵を開けてもらうのも百パーセント不可能だ。
「仕方ない、とりあえずここにあるもので……」
ガサガサと物色すると、冷凍室にぎっしりと詰まっていたのは冷凍食品のレトルトパック。
「この際、代用できれば何でもいいか」
再び脱衣所に取って返し、きちんとたたんで積まれたフェイスタオルをひとつかみ取ってくると、レトルトパウチを包んで即席の氷のうをいくつも作る。
「先輩、これで体を冷やしますよ」
大の字でぐったり脱力している先輩の首すじと脇に氷のうをねじ込み、少しためらった末に足の根元にも挟み込む。
「あ、あとは水分!」
バタバタと三たび台所に戻る。
調味料ラックは空で、頭上の棚に未開封の塩と砂糖のパックだけがポツリと置かれていた。
「うわ、本当に料理しないんだな」
棚にずらりと並べられている食器類はほとんど新品だし、これまでもずっとあのキットミールしか食べてないことが容易に想像できた。
僕はスープカップに砂糖と塩をひとつまみ入れ、電気ポットでお湯を沸かして注ぎ、溶けるまでかき混ぜる。さらに冷蔵庫からミネラルウォーターをカップに足してお湯を冷まし、即席のイオン飲料を作った。
「先輩、飲めますか?」
寝室に取って返す。左腕を枕の下に差し込むようにして頭を抱え上げ、スプーンで半開きの口に即席イオン飲料を運ぶが、うまく飲み込めないみたいでダラダラと口の端から流れ落ちてしまう。
「どうしよう……」
先輩の症状はほぼ間違いなく熱中症だ。僕より体の小さな先輩は、脱水症状もより深刻なはず。
「先輩、救急車呼びますね!」
だが、先輩はスマホを持つ僕の腕にすがるようにして必死に首をふる。
「……めて。救急車は呼ばないで」
「でも、このままじゃ……」
「……ませて。水を」
「でも先輩!」
「……ち移しでも構わないから、水」
その言葉を聞いて僕の脳天に落雷のようなショックが走った。
「……やく、水、ちょうだい」
うわ言のようにつぶやく先輩を僕はこれ以上見ていられなかった。
僕はスープカップから直接自分の口に水を含み、先輩の唇を割るように舌を差し込むとゆっくりと流し込んだ。
先輩の喉が鳴り、ようやく最初の一口が喉の奥に流し込まれた。
僕は再びカップをすすり、用意した即席イオン飲料がすべてなくなるまで同じ動作を何度も繰り返した。
◆◆
先輩の容態がようやく落ち着いたのはもう日が沈む頃だった。
先輩は救急車を呼ぶことを頑なに嫌がり、かと言って僕が買い出しのために外出することはもっと嫌がった。
仕方ないので即日宅配のオンラインスーパーで必要なものを見繕うことにして、僕が先輩のそばを離れたのはトイレと宅配の荷物を受け取る時だけだった。
「迷惑をかけてすまなかった」
ようやくベッドから半身を起こせるようになった先輩は、珍しく神妙な顔つきで頭をさげた。
「これで
「イーブン?」
「ああ、ボクは今日、君に命を救われた」
「いや、そんなだいそれた話じゃありま――」
「熱中症で死亡例があることくらいボクも知ってる」
笑いながら手をふる僕の言葉を、先輩は真剣な表情でさえぎった。
「これで、もう君はボクに恩義を感じる必要もなくなった」
「は?」
「ボクはこれまで、君の負い目を利用して色々面倒なことを押し付けてきたが、それももう終わりだ。今日限りで君を開放す――」
「先輩!!」
僕は思わず大声を出した。
自分で思ったよりはるかに大きな声になってしまい、先輩はびくりと身体をすくませた。
「僕が先輩に恩を感じているのは確かですが、だからといって僕が先輩に渋々従っていると思っていたんですか?」
「え?」といった表情で口を半開きにしたままの先輩に僕はさらに畳みかける。
「僕は、先輩を本気で尊敬してるんですよ」
「……へ?」
「先輩は確かに自分勝手だし、平然と既読無視するし、学校にだって全然顔を見せないし、生活面でも色々ダメダメな感じですけど――」
「なっ!!」
「だからといって僕は先輩に構ってもらえることを心底嫌だと思ったことは一度もないですよ。むしろ先輩の知識の深さと広さを尊敬してるんです。羨ましくさえ思います」
それは僕の偽らざる気持ちだった。
「それに、利用しているというなら僕だってそうです。延田や他のクラスメートに面倒な話を持ち込まれるたびに、僕は先輩を頼りました。先輩があまり人と関わりを持ちたくないのは承知の上で、無理やり巻き込んだんです」
「いや、別に、それくらいは……」
先輩は僕の顔を上目遣いに見ながらモゴモゴと言葉をつむぎ、自分のむき出しの肩にはっと気づいてきっと唇を噛んだ。
「でも、君は、見ただろ?」
毛布に隠れた胸や脇腹、そしてふとももに手を這わせながら、先輩は弱々しい口調で顔を伏せる。
「ボクは、醜い欠陥品だ」
そのことには気付いていた。
極力見ないつもりだった。でも、どうしても目に入ってしまい、その傷の異様さに疑問を感じずにいるのは無理だった。
「……はい、見ました。本当にごめんなさい」
僕は素直に頭を下げた。
「いや、そのこと自体はいい。緊急時だったし気にしてない。感謝こそすれ、君を非難するつもりはまったくない」
気にしていないと言った割に、先輩は自分の身体を毛布でくるむようにしながら、ひどく悲しそうな表情をした。
「事故でね。車から投げ出されて崖を転がり落ちた。鋭い岩で身体を切り裂かれ、肉をえぐられて、全身を百針近く縫った。目隠しと猿ぐつわを噛まされ、袋をかぶせられていたのが幸いして顔だけは無事だったが、あとは……」
「え?」
僕は先輩の言葉の異様さに思わず声を上げた。
「もしかして先輩……」
「ああ、ボクは誘拐されたんだ」
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