7月26日 −3−

「え!」


 僕は言葉を失ってその場に立ち尽くした。


「え? じゃないよ。今からうちに来たまえと言ったんだ。なに、すぐそこだ。時間は取らせない」


 先輩はサラリと言うと先に立って店を出る。


「何ぼーっとしてるんだ? さっさとしないと置いていくぞ!」


 僕は思わず自分の頬をつねる。痛い。少なくとも夢じゃない。

 だとすれば、何が先輩の気持ちを変えさせたのか。

 僕は小走りに彼女を追いながら考える。

 これまで、頑なに人を遠ざけ、興味が乗らないと何週間でも平気で既読無視をする優里先輩が、それどころか学校にもほとんど姿を見せないあの優里先輩が、よりにもよって自宅に異性を招こうとするなんて。

 いや、とりあえず異性と認識されてない気はするけど。


「これって何かの罠ですか?」


 気づくと、思わずそう口走っていた。


「……ずいぶん失礼なことを言うやつだな君は!」


 先輩は一瞬でフグのように頬を膨らませた。


「自宅に招いてやると言っただけでどうして中傷を受けなきゃならない?」

「す、すいません。でも、先輩は他人と馴れ合うのを嫌う人だと思ってました」

「!」


 僕の推測に、先輩は困ったように口ごもる。


「ま、あー、でも……」


 車通りの多い国道を横断するため束の間会話が途切れ、反対側の歩道に入ったところで先輩はポツリとこぼすようにつぶやいた。


「別にボクは人嫌いなわけじゃない。過去に色々あってね、知らない人間が同じ空間にいるのが耐えられないだけだ」

「え? じゃあ……」

「そう。さっきのスタバは地獄だったぞ」

「すいません、気づきませんでした」

「……頑張ったからな」


 先に歩く先輩の背中を見つめながら、僕は声をかけずにはいられなかった。


「ひとこと言ってくれれば僕はどこでも先輩の都合のいい場所に行きましたよ。なんでそんな修行みたいな真似を?」


 少なくとも、先輩に対してそれくらいの手間を惜しまない気持ちはある。


「いや、あそこが一番マシなんだ。でも今夜は予想以上に長居することになって……一向に君とは連絡が取れないし、なんでボクはこんなことをやってるんだろうって……」


 だとすれば、さっき先輩が一瞬だけ見せた安堵の表情はやはり見間違えじゃなかったのだ。


「でも、それじゃダメなことくらいわかってる。だから、これがボクの条件だ」

「条件、ですか?」

「ボクは君を助ける。だから君はボクのリハビリに付き合ってくれ」


 くるりと振り向いた先輩の瞳は、その尊大な口ぶりとは裏腹に、まるで迷子の子猫のように不安に揺れていた。


◆◆


「まあ、適当に座ってくれ」


 招かれた先輩の自宅は、本当に駅から五分と離れていなかった。

 見るからにお高そうな高級マンションで、敷地の門と建物の入口、両方に顔認証のセキュリティがあり、ガードマンも常駐している。

 さらにドアロックは掌紋認証という徹底ぶりだ。


「……にしても」


 僕は通されたリビングで半ば途方に暮れていた。

 やわらかそうな純白の皮のソファー、毛足の長いふわふわのラグ、そして、壁一面の大型スクリーン。

 絵に書いたようなお金持ち装備が満載で、僕なんかがうかつに手を触れていいものかと本気で悩む。


「何やってんだ。こっちが落ち着かないからとりあえず座れ」


 叱られて、とりあえずソファーは避けて二人掛けダイニングテーブルの一方に腰を下ろした。しっとりした座り心地に思わず変なため息が出る。


「大げさだな君は。コーヒーでも飲むか? あ、それより腹が減ってるだろう? 何か……」


 先輩もなんだかんだと緊張しているようで、ぎくしゃくとキッチンに向かい、冷凍庫からトレイに載った二人分のミールキットを取り出してレンジに放り込む。

 まるで高級な学校給食のように、あらかじめトレイに盛り付けられたホカホカの料理がすぐに出てきた。


「ボクは料理ができないからな。こんな出来あいで悪いが勘弁してくれ」


 ずいとナイフ・フォークを突き出され、恥を忍んでお箸に替えてもらう。


「ところであの、ご家族はどちらに?」


 ほとんど味がわからないまま、ただ機械的に料理を口に放り込みつつ、僕は廊下とは別の扉を意識しながらたずねる。だが、先輩は僕の視線を追い、首を横に振った。


「いないぞ。ボクは一人暮らしだ」

「えっ!!」


 驚いて思わず腰を浮かせかける。先輩は苦笑しながら右手をひらひらと上下に振ってもう一度僕を座らせた。


「すいません。もしかしてあの――」

「いや、誤解するな。両親はちゃんと健在だぞ。事情があってボクが一人暮らしを望んだんだ」

「……そうだったんですね」


 僕は脳みそがキャパオーバーしかけているのを感じながら慌てて話題を切り替える。


「いや、でも……だったら、家事とか掃除とかも先輩が?」

「いや、週に二度、家政婦が来てくれる。その間ボクは自室に籠もってるからほとんど目を合わせたこともないけどね」

「はぁーっ」


 自分とは何もかも違いすぎる境遇に、思わず大きなため息が出た。


「あ、おかわりいるか? それともコーヒーでも――」


 僕のため息に、先輩は不安そうな表情で慌ててとりなしてくる。


「いえ、もう大丈夫です」


 背筋を伸ばして大きく深呼吸した僕は、深く頭を下げた。


「ご心配かけてすいません。新しい情報が多すぎてちょっと混乱しただけです。もう落ち着きました」

「……そ、そうか」


 見るからにホッとした表情を浮かべる優里先輩に、僕は頭の中で自分自身にダメ出しをする。

 

「先輩が一大決心をして自分のパーソナルゾーンに僕を入れてくれたのに、逆に不安にさせてすいません」


 改めて頭を下げる僕に、先輩はなんとも照れくさそうな表情になる。


「い、いや……でもまあ、本当に限界になったらボクは自室に逃げ込むからな。その時は適当に帰ってくれ。オートロックだから特に戸締まりもいらないし」

「わかりました」


 僕は今度こそ作り物ではない微笑みで大きく頷いた。

 


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