テレワーク探偵観察日記ー優里先輩と僕の220日ー

凍龍(とうりゅう)

突然の出会い

5月18日

「おい、君!!」


 鋭い口調で呼ばれて振り返る。

 第一印象はとにかく〝なんだこのヤベー奴〟の一言に尽きた。


「いいから! 無駄な動きをせず、ゆっくりとこっちにきたまえ!」


 視線のわからないスモークのゴーグルとざっくりとした草色のポンチョを身にまとい、隙のない構えで腰だめに銃(恐らくモデルガン、機種はH&K社のMP7)をこちらに向けた小柄な人物は、そう言って僕に小さくあごをしゃくる。


(……ああ、なんか変なヤツに最悪の疑われ方をされたぞ)


 そう思った。

 ゴツい望遠レンズ付きのデジタル一眼レフをぶら下げ、テニスコートのすぐそばを歩いていれば、あらぬ疑い……つまり盗撮……をかけられてもまあ仕方がない。


「ああ、違うんです、これはですね――」


 言い訳しようと勢いよく両手を上げ、謎の人物に一歩近づいたところで二の腕にズキリと鋭い痛みを感じた。


「痛っ!」

「ちいっ!! バカっ!」

 

 一瞬、構えたモデルガンで撃たれたのかと思った。ところが謎の人物は銃を投げ捨てて猛然と駆けてくると、僕の背後に向け、まるでドラゴンの息吹ブレスもかくや、という長い長い炎をゴウと放った。


「は?」


 あまりに予想外な出来事に僕は声も出せなかった。

 それが、僕と優里先輩との最初の出会いだった。


◆◆


 問答無用で水飲み場に連れ込まれ、これまた強引にカメラを取り上げられる。


「シャツ、脱いで!」

「は? 痴女?」

「何言ってるんだ君は! いいからシャツ。さっきのところ、腫れているはずだ」


 確かに、さっきズキリと痛みを感じた二の腕は、ジンジンという熱と痛みが次第に耐えがたいものに変わりつつあった。

 言われるままにワイシャツを脱ぎ、Tシャツ一枚になったところで腕に冷水が浴びせられる。


「君は過去に蜂に刺されたことはあるか? もしかしてアレルギー体質だったりするか?」


 矢継ぎ早に訊ねられ、あー、あの痛みは蜂か。それよりこの人、ハスキーだけどいい声だなぁ、そうか女の子だったのかぁ、とぼんやり思いながら記憶を探る。


「確か、小さい頃にスズメバチに刺されたことがありました。あと、軽いアトピーが……」

「……ヤバいな」


 彼女はゴーグルを脱ぎ捨てると、僕の二の腕をあらためてしげしげと眺める。

 ツヤのある長い黒髪を一つにまとめ、大きな瞳がより目になったところがなんとなく可愛いな、とか思った途端、彼女はいきなり僕の腕に噛みついた。


「なっ!!」

「いいから!」


 チュウチュウと腕を吸い、ぺっと吐き出す動作を繰り返しながら、彼女はひどく申しわけなげに眉を下げる。


「すまない。すべてボクの判断ミスだ。作戦決行前にもう少し周りに気を配るべきだった。まさか盗撮を企てる人間が潜んでいるとは――」

「だから違います!! それは誤解です! これは正当な依頼……」


 慌てて弁明をしかけたところで強いめまいに襲われた。

 なんとなく顔全体が熱い。手で触ってみると腫れぼったく感じる。


「あー」

「おい、君! 大丈夫か!! 気を確かに持て!!」


 次の瞬間、まるでシャッターが降りるように目の前が暗くなり、僕はそのまま気を失った。 


◆◆


 気がつくと、あたりはすっかり薄暗くなっていた。


「……ここは?」


 カーテンの隙間から差し込む夕日に目を細めながら身体を起こそうとしたところ、ひんやりした手のひらで柔らかく額を押さえられ、再び枕に頭をうずめられる。


「保健室だよ。君はテニスコートのそばで倒れたんだ」

「……ああ」


 思い出した。


「ところでめまいはおさまったかい? 校医先生の話ではもう心配はないらしいが、違和感があるなら――」

「あなたは?」

「……ああ、優里ゆり比楽坂優里ひらさかゆり。二年生」

「比楽坂先輩……僕は一体……」

「ああ、君はスズメバチに刺されてアナフィラキシーショックを起こしたんだ。先生の話では、応急処置と薬を飲ませたのが効いたと……素人診断をするなと随分叱られたけどね」

「応急処置? ああ、アンモニア……もしかしてオシッコ?」

「……馬鹿か君は」


 昔ばあちゃんに聞いた虫刺されへの対応を口にすると、優里先輩はいくぶん顔を赤らめつつ、心底呆れたような顔つきになった。


「虫刺されにオシッコをかけると効くというのは俗説だぞ。それに新鮮な尿にアンモニアなんてほとんど含まれてない。ほぼ無菌の液体で体表のハチ毒素を洗い流す効果がいつの間にかねじ曲がって伝わったんだろう」

「ふーん、そうなんですか……」


 僕は彼女の言葉をなんとなく聞き流し、わずかな違和感に気づいて彼女の横顔を見上げる。


「あれ、でも薬を飲ませたって言いましたよね? 誰が、一体どうやって……」

「今それはいいだろ!」


 彼女はなぜか憤慨し、顔をさらに赤くして学生鞄から市販薬の小箱を取り出すと僕に投げつける。


「これだよ、抗ヒスタミン。アレルギー持ちなら一度は飲んだことあるだろう?」


 パッケージを確かめると、僕も花粉症が辛いときに使うかなり強めの鼻炎薬だった。


「原理上、ハチ毒のアレルギーにも効くはずなんだ」


 彼女は弁解するように早口で続ける。


「だが、薬の処方は本来医者が判断すべきものだ。いくら気が動転していたとしてもずいぶん乱暴なやり方だった。先生にもこっぴどく叱られたし、もう二度とやらない。すまなかった」


 殊勝な面持ちで頭を下げられ、僕はかえって申し訳なくなった。


「……よくわかりませんが、そのままだと危なかったんですよね?」

「あ、ああ。最悪の場合、息の根が止まってたかもな」

「だったら、謝る……いえ、お礼を言うのはむしろ迷惑をかけた僕の方ですね。先輩は命の恩人です。本当にありがとうございました」

「あ、ああ」


 彼女は照れくさそうにうつむくと、鞄を持って立ち上がった。


「じゃあ、ボクはこれで。妙なことに巻き込んですまなかった。いいか、少しでも違和感があればすぐに病院に行くんだよ」


 そう言い残すと、話は終わったとばかりにくるりときびすを返す。そのきゃしゃな背中を見て、僕は忘れていた疑問を思い出した。先輩はあの時、まるでサバイバルゲームのような装備で僕に銃を向けていたのだ。


「ところで、先輩はあそこで一体何を? あと、あの炎は?」


 途端に先輩の肩がピクリとはね上がる。


「女子テニス部に蜂の巣退治を頼まれたんだ」


 彼女はトイレットペーパーの芯ほどの大きさのスプレーボトルを僕に放り、そのまま後ろも見ず、まるで逃げ出すように保健室を出て行った。


「ヘアスプレー?」


 女子が持ち歩く整髪用のスプレー缶。成分表には「エタノール・LPGプロパンガスの文字。あの炎、ドラゴンブレスの素はどうやらこれらしい。


「……え、つまり、最初にハチを怒らせたのは……」


 僕がハチに襲われたのは、そもそも彼女の奇行が原因だった。

 感謝して損をした。

 

 


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