未解決のわけ

森本 晃次

第1話 スポーツ大会運営代行業者

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。架空の業界、その手口や存続理由などは、まったくのフィクションです。今回は俳句の題材として、横溝先生の「獄門島」を引用しました。あくまでも引用ですので、ご了承ください。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。


 世の中には、オリンピックなるものがあり、その誘致に地元の人間がいつも一喜一憂している。まずは日本の中でいくつかの候補地を絞り込み。候補としてふさわしくないと思われる、いわゆる貧困な街であったり、治安の悪い街、辺鄙な場所などはまず除外されることになる。

 そして二つか三つに絞られてからがいよいよ誘致合戦ということになるのだが、ここまで残るのも大変なことなのかも知れない、

 さらに、ここから日本の候補が選出されるわけだが、そのためには、日本国内でも思惑が交差している。地元も建築業など、政府の主要な役人や、大臣を兼ねている人がいれば、かなり強い力になることだろう。

 また、それがない場合は、金にモノを言わせて、政界、財界を巻き込んで、誘致の話をいかにも、儲かりそうな話として宣伝する。

 財界の人間とすれば、別にオリンピックをしようがしまいが、儲かればすれでいいのだ。甘い話で持ち上げて、お金を出させたり、政界に働きかけるための「武器」として利用しようと思っている。

 相手も、話が金儲けであれば、いくらでも飛びついてくる。お金など、いくらあっても足りないくらいだからであろう。

 オリンピック誘致ともなると、さすがに巨額のお金が飛び交うことになるだろう。ただ一つ疑問なのは、

「オリンピックをやって、本当に儲かるのだろうか?」

 という疑問である。

 今から五十年以上も前の東京オリンピックで、日本人が懲りたのではないのだろうか。確かに、オリンピック景気に浮かれ、高度成長だったのは分かるが、その後、どうなったかである。

 確かにオリンピックを開催するとなると、建築やインフラの整備など、都市全体を作り変えるレベルのものになるだろう。当然、需要が高まると、就業防臭が増え、一気に失業問題は解決である。

 しかし、実際にオリンピックが終わってしまえばどうなのだろう? その反動で景気は低迷、長く出口のない不況に入り込んでしまう。過去にオリンピックをやった都市で、数年前のオリンピックで新築として作られた競技場に、ヒビが入っているというような映像を見た人も少なくはないだろう。

 ヒビが入って干からびたコンクリートから、雑草が覗いていて、まるで廃墟を思わせる光景を誰がオリンピックの時に想像したであろう。

 中にはオリンピックを行ったために、国家が破産したなどという国も出てくるくらいで、一体オリンピックに何の魅力があるというのか、不思議で仕方がない。

 また、これはあまり知られていないかも知れないが、オリンピックというのは、、

「倫理や教育上の問題」

 ということで、せっかく地域に根差していた産業を、抹殺してしまうことが多い。

 例えば、風俗業などが言えるのではないだろうか。

 風俗営業というのは、ちゃんと法律で認められた産業である。

「風俗営業法」

 というものがあり、その法律に則って商売をする分には、何ら問題はない。

 市民権を得られた商売なのだ。

 それを、

「オリンピックをする土地として、風俗というのは、倫理、教育上よろしくない」

 と言って、風俗店が営業してはいけないとでもいうような取り締まりを強化したりする。

 しかも、風俗で使う業種の名前を使用してはならないなどという条例ができてしまうと、名前を変えてでも営業を続けるか、それともこの街での衰退は免れられない事実として、それを受け止め、これを機会に廃業してしまうかの二択を迫られることになる。

 実際にお客さんは減ってきている。警察の取り締まりも露骨になってくると、客も遠のくというものである。

「これこそ公然の営業妨害だ」

 と言えるのだろうが、相手がオリンピック招致に乗り気の行政では、風俗団体が束になっても勝ち目はない。区画整理の場所が自分の住んでいる土地に及んでしまい、そのまま立ち退き料を貰って立ち退くしかない立場と酷似している。何とも理不尽なことではないだろうか。

 オリンピックができるような大都市、日本における政令指定都市の中でもそれぞれの地域を代表するような地区では、風俗の店などは、街ぐるみで盛り立てている。

「風俗の街」

 と呼ばれるような街であったとしても、そこはキチンと法律に則った経営を旗印に、健全な営業を行っている店がほとんどのはずである。

 しかし、それをオリンピックという名のもとに、

「全世界からやってくる人たちに恥ずかしくない街を」

 という名目で、風俗を取り締まってしまうと、もう町全体の崩壊になってしまうのだ。

「オリンピックで一つの街が壊滅した」

 と言われるごとくである。

 それはまるで、聖書に出てきた、

「ソドムの村」

 のように、一瞬にして、街一つが跡形もなく消えてしまうのと同じようなものだった。

 聖書ですら、

「決して何があっても後ろを振り向いて見てはいけない」

 と言って、村から救い出した人に後ろを見せないようにしても、人間の好奇心から見てしまう。

 しかし、それは人間を滅ぼすという光景、それまで自分が地獄のように苦しめられていた場所であり、そこから解放されたにも関わらず、破滅の瞬間を見ることは許されないのだ。

 要するに、一つの街が跡形もなくなくなってしまうということは、いくら神が行ったことであっても、人間を助けるためであっても、悪を滅ぼすという、完全聴覚という台木名分があっても、誰も見てはいけないという一種の。

「聖域」

 なのではないだろうか。

 それを、人間が自分たちで行おうとしているのである。これほど、バチ当たりなことはないのではないだろうか。

 人間というのは実に恐ろしいものであり、お金のためなら同胞であっても、簡単に路頭に迷わせるようなことをする。オリンピックなど誰が見ても、理研が絡んだ悪徳商売が裏に潜んでいることは一目瞭然であるが、それを口にすることはタブーであり、下手をすれば、その害が及ぶのは自分だけではすまないと思うと、何も言えなくなってしまう。

 いくら、オリンピックは、

「百害あって一利なし」

 と言えども、実際になってみなければ分からない。

 東京オリンピックにしても、過去にあったのは、五十年以上も前のことだ。今の財界での有力者が例えば七十歳くらいだったとしても、以前にオリンピックがあったのは、小学生くらいではなかったが、その頃に何が分かるというのか、オリンピック景気は見ていても、その後の不況はさすがに子供には分かるはずもないだろう。

 そんな人たちなので、オリンピックで、どういうことになるかなど、数字だけの予想であって、実際になってみなければ分からないというものだ。

 いや、そうではない。

「オリンピックで得をするのは、ごく一部の特権階級だけだ」

 ということである。

 オリンピックが終わって、世の中がどうなろうとも、自分たちが潤えばそれでいいという考えなのだろうか。

 しかし、もしそうだとすれば、由々しき問題である。

 確かにその時は潤うかも知れないが。そのために、経済全体が死滅してしまえばどうなるというのか、場所によっては、その土地だけが破綻したわけではなく、国家全体で破産した国だってあったではないか。それほどオリンピックを行った後には、大きな問題がの残ってしまうのであった。

 いくら少しだけ自分たちが潤っても、それはあぶく銭でしかない。実際に自分たちを潤すのは経済の回転であり、オリンピックによる不況のために、関連会社が皆倒産してしまうと、いくらお金があってもどうしようもない。モノを作る機械や施設はあっても、実際に売れなければ。作れば作っただけ赤字なのだ。

 しかし、作らなければモノは売れない。モノが売れないと、モノが消耗しないので、新しいものを買う人はいない。要するに世の中、スパイラルで成り立っているのだ。

「循環」

 と言ってもいいだろう。

 実際のスパイラルという言葉の意味は、

「らせん状」

 という意味らしいのだが、何となく循環という意味で見られることも少なくない。

 それはきっと、

「負のスパイラル」

 という言葉があるからであろう。

 それは、連鎖的に悪循環が生じることで、デフレスパイラルとも言われるところから来ているのだろう。

 ということで考えてみると、

「循環に対していう悪いという意味での反対語は、悪循環という言葉とは違っているのではないだろうか?」

 と考えられる。

 スパイラルというのがらせんであるとすれば、悪循環というのは、一方向から見ただけのもので、平面的な発想だと言えるだろう。そう思うと負のスパイラルというのは、実は立体的な発想で、まるで天気図のようなものだと言えるのではないだろうか。

 天気図の気圧の線が細かく刻まれているのは、それだけ奥が深いという意味で、嵐が起きやすいとも言える。そんな天気図を思い起こしてみると、負のスパイラルというのは、どこまでも続く、

「堕ちていく奈落の底のようなものだ」

 と言えるのではないだろうか。

 オリンピックの開催が、そんな負のスパイラルを招くということは、それだけ奥が深く。入り込んでしまうと抜けられない、

「底なし沼」

 や、まさにらせん状に狭まった場所に吸い込まれるように落ちていく、

「アリ地獄」

 のようなものではないか。

 オリンピックとまではいかないまでも、毎年開かれる学生や社会人の大会も無数にある。

 スポーツ各種ごとに、中学、高校、大学。社会人といろいろな大会が毎年どこかで催されている。

 しかも、同じ中学生でも、季節によって年に何度も開かれる全国大会もあり、高校野球のように、甲子園を毎年使うということで固定してあるスポーツ大会もあるが、それはある意味珍しいのではないだろうか。野球やサッカー、ラグビーなどは、毎回同じだったりするが、毎回同じであっても、毎年たくさんの狭義が学校や社会人を隔てることなく行われるマラソンや駅伝のような大会もある。

 しかし、毎年違った場所で開かれる大会も少なくない。ただ、それはどちらかというと、いろいろな競技が集まって行われるもおで、体操で会ったり、インターハイのような協議は、いつも同じ場所だとは限らない。

 きっと同じ場所でやるのは、昔から競技場が聖地のようになっていて、その場所を目指すことが当たり前のようになっているからであろう。

 野球の、甲子園、神宮。サッカーの国立、ラグビーの花園などが、その象徴と言えるのではないだろうか。

 インターハイなどは、前から決まっているので、そうも誘致という問題は起こらないかも知れないが、数年前から、インターハイに似た大会が、やはり毎年、いろいろな場所で行われるということになり、その招致合戦が結構頻繁になっていた。

 これはさすがにオリンピックほどの大きな特需もなければ、その分の不況もない。それを思えば、少々の企業であれば、誘致に乗り出すための協力を惜しまない街も少なくない。

 しかも、この大会は、県庁所在地でなくとも立候補ができる。例えば、一つの地域が重なって一つの自治体の様相を呈することができれば、招致は可能だというのだ。

 実際に、近隣の市町村が協力して一つのイベントを行うというのは、今では普通であるが、実際にはなかなかうまくもいかない。それは、昔からある、警察の管轄による、

「縄張り争い」

 のようなものが、底辺にあるからではないだろうか。

 今年になって、いろいろな街が声を挙げているが、決して一枚岩ではない。それは見てても分かることで、どの立候補地も同じなので、決める方も難しい。

「どこを選んだとしても同じ」

 ということになれば、今度は街ごとでいさかいの種になってしまう。

 それでは次の大会の開催が危ぶまれるだろう。

 明らかに、立候補してくる自治体がなくなってくるからだ。

「どうしてオリンピックはあれだけ露骨に不況になるのが分かっているのに、招致合戦をするんだろう?」

 という疑問が生じる。

 最近は、そんなスポーツ大会を誘致を行う都市のために、そのノウハウを提供したり、業務代行のような商売が生まれてきた。それまでの自治体では、招致のために、新たな部署を臨時に創設し、いろいろな部署から招致委員が数名選出され、仕事をしていた。しかも、元の業務もこなしながらの、

「兼任作業」

 である。

 しかも、本職は元の仕事であり、招致委員はあくまでも臨時の仕事、若干の手当てが出るとはいえ、明らかに損な役回りだった。

 したがって、仕事も完全な片手間、計画から遅れてきたりして、最後は間に合わせるために、自分の本来の仕事を他の人にさせて、自治体全体が、非常事態のようになっているというのが現実だった。

 要するに、計画性がまったくなかったことが挙げられる。

 そんな状態で、スポーツ大会が成功しても、自治体自体は完全におかしくなってしまっている。仕事のリズムも、それまでせっかくキチンとしていたものが、一度リズムを崩してしまうと、なかなか元に戻らない。それがどんどん、自治体運営を窮地に追い込んでいくことになる。

 しかも、大会が終わると、それまでの景気がウソのように落ち込んでくる。せっかく整備した競技場も、どこの団体も使うことはなく、大会だけに使用するために整備された跡地も、買い手がつくこともない。

 商店街や、ショッピングセンターにも人が立ち寄らなくなり、大会招致前の状態に景気は逆戻りだ。

 せっかく整備した競技場や施設を、今度は維持するお金もなくて、いかにもオリンピックが終わってから数年で、会場となった競技場のスタンドにヒビが入っているという状況がウソではないということに、やっと気づくことだろう。

 そんな状態はある意味、社会問題となってきた。そのうちに、余裕のある都市しか招致を申し込まなくなり、せっかくのスポーツ大会の主旨が損なわれてくるようになると、スポーツ大会の開催や運営自体を疑問視する声も出てきたのだ。

「みすみす損をするのが分かっていてやることはないんだ」

 という声も出てきた。

 そこで何かいい方法はないかと模索していたところに出てきたのが、

「スポーツ大会運営代行業」

 なるものであった。

 大会の招致から、最終的な跡地の運営までをこの代行業者が請け負うことで、自治体の方では、一切の負担はない。経費も代行業の方で、一定価格なので、実績が出てくると、その成果はハッキリとした数字で見ることができる。

 もちろん、それぞれの自治体の規模があるので、経費の計算は段階を追ったものがいくつか用意されている。

 元々は、時系列的な段階から費用が見積もられ、そこで最終的な予算が決まってくるので、いくらでも予算のパターンは見積もりができた。だが、それも代行業の中にいるコンサルタントを担う人が、即座に予算を算出するので、見積もりから予算決めまでは、それほど時間もかからないのが、代行業のいいところだった。

 プレゼンなどのプロもいて、招致のためのプレゼン計画から、決まってからの大会の宣伝も十分にできる。

 どうやら、代行業のスタッフも、かついえは皆大企業のそれぞれの部署で実績を重ねてきたつわものが揃っている。それが強みであり、代行業の代行業たるゆえんだと言っていいだろう。

 代行業は、大会が定期的に開かれるようになってから、もう数年後には代行業計画がすた―としていて、実際に招致の自治体から依頼が多くなってきたのは、さらにそれから数年後のことだった。

 意外と早く、大会の運営を自治体が行うことに限界があることを分かったようだ。

「これなら、オリンピック招致などすれば、どんなことになるか、分かったような気がするな」

 ということを、自治体の皆が理解するようになっていた。

 オリンピックほどの規模でもないのに、ここまで深刻なのだから、もし失敗すれば、いや成功したとしてもその後が悪ければ、悲惨な末路しか残っていない。つまり大会が成功したかどうかという評価は、大会が終わった時点で出すことはできないということだ。むしろその後が問題で、解決しなければいけないことが、山積みになってしまうに違いないからだ。

 確かに世の中にはいろいろな商売がある。

「何でも屋」

 なる、何とも抽象的な商売もあり、このスポーツ大会運営代行業というのも、スポーツ運営に関しては。

「何でも屋」

 と言ってもいいだろう。

 この団体は、自治体相手だからというわけでもないのだろうが、最初に決められたことしかやらない。途中で問題が起こった場合などはしょうがないのだろうが、それ以外は何かを予見できたとしても、自分たちがまずい状態にならないと分かっている限りは、何も自分たちから行動はしない。しかも、危ないと予見できても、自治体に相談したりもしない。

 下手に話を持って行って、それが違っていたりして、却ってまずいことになれば、今度は違約金問題に発展する可能性がある。そんなことは本末転倒であり。絶対にやってはいけないことだった。

 それを思うと、最初に契約した予算以上のことは決してやらないし、自分たちの仕事をわきまえている。

 もちろん、見積もりや計画を出すのは自分たちだが、それ以外のことで、自治体側の理由により何かが生じる場合には、違約金、あるいは支払いの相殺をいやおうなしに行うが、自分たちの損になるようなことであれば、一切の責を負わないというのが、徹底したやり方だった。

 そんな代行業が、K市に対して、接近をしてきた。まだその時期は、大会招致などという話は一切表に漏れていなかったはずなのに、市長や、スポーツ委員に面会を申し出てきたのを知った時、これほどビックリさせられたことはなかった。

「どうして、ここに来られたんですか?」

 と市長が聞くと、

「我々もプロの運営代行業です。今までの傾向や、いろいろな自治体の事情や情報を調べていくうちに、こちらに行き着きました」

 と言っているが、何、実際には、

「下手な鉄砲」

 であった。

 確かに研究を行ってはいるが、一つに絞ることなどできるはずもなく、絞った中を片っ端から当たって見ているだけだった。自治体というのは、自分の収めているところが他の土地よりもいいところで、自分たちが一番その良さを分かっているという自信から、収めている地域に対しての自分たちに、絶対の自信を持っているのだった。

 つまりK市も絞られた数市の中の一つに過ぎないのだが、それでも、五市くらいにまで絞っているのだから、それだけでも大変なことだった。

 自治体の方も、ハッキリと方針が決まるまでは、なるべくオフレコにしておこうという意識があるようで、オフレコにすることで、立候補した時は、招致合戦に対して、市民が一体になれると思っている。

 それなのに、情報が漏れたと思っている自治体は、疑心暗鬼に陥る、最初は代行業者を雇う雇わない以前の問題で、この疑心暗鬼をどのように払拭するかということが問題だった。

 今までの大会は、ほぼどこも成功だったようだ。最初の三大会くらいは大成功だったと言ってもいいのではないだろうか。

 第一回の大会は、そもそも提案した市で行われたので、

「まずは大会を成功させること」

 ということで、選から漏れた自治体も、援助体制にやっていた。

 何しろ、継続させなければ意味がない。一度だけうまくいったからといって、そこで終わりではないからだ。

 三回目くらいまではうまく行っていたが、四回目あたりから何かの限界が見えてくるようだった。

 その限界がどちらの方向のどのようなものなのか、すぐには分からなかったが、四回目を終えて、大会が終わるまではよかったのだが、一番の懸念であった。

「大会後の施設の運営」

 に疑問が見えてきた。

「だったら、方向は分かっているじゃないか」

 と言われるかも知れないが、このような失敗には、そこに繋がるいろいろな要因が引っかかっている。

 そんな時に出現してきたのが、

「運営代行業」

 だったのだ。

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