Night high

古海うろこ

ファミリーレストランと他人

 深夜の道路を流れていくヘッドライトは星のようで美しかった。鳴川さんは向かいの席で、運ばれてきたバニラアイスが溶けるのを見ている。もう十五分は経ったかもしれない。目深に被った上着のフードが影を落としているけれど、鳴川さんの唇の端が切れているのが見えて、痛々しかった。血は固まって黒い。



 上階の騒音について、管理会社にクレームを入れようか考えていた。住人が入れ替わったのか三ヶ月前から始まったそれは、あたしが気にしすぎているだけで、実際たいしたものではないのかもしれない。乱暴に掃き出し窓を開ける音、気遣いのない重い足音、クローゼットを開ける音、ドリブルをするような不可思議な音や、重いものを引きずる音。それらが夜の零時を回ってからも聞こえるのが、妙に、気に障った。あたしは神経質な方だとよく言われていたから、きっとそのせいだと思いながら、いやいや深夜に階下への思いやりもなく騒ぎ立てている方が悪いだろうと、怒りの方が強くなっていった。

 とはいえご近所トラブルなんてごめんだった。足音から上階の住民は明らかにあたしよりも体格のいい男だろうし、それに、本当に真上の部屋かどうか、いまいち確信が持てないのだ。もしかしたら斜め上の部屋かもしれない。深夜、あたしは特に感覚がおかしい。目を閉じて布団に入っていると、たくさんの声が、まるで木々のざわめきのように遠くから近くから聞こえてくる。自分を中心に、脳内の空間が広がったり縮んだりして、距離感が掴めなくなる。脳みそがふわふわと浮遊する感覚に、いつも正常ではいられない。

 そんなあたしだから、まずは本当に上の部屋が音の発生源なのか確認することにした。夜中、音が気になりだしたら、窓を開けてベランダに出た。五月の夜風は心地よく涼しかった。隣の住人の生活音もあったけれど、やはり上の階から重い足音が聞こえた。嫌な足音だ。室内でこんなにどすどすと歩くなんて、性格が悪そうだなんて勝手なことを思った。

 部屋を出る。四階に住んでいるので、玄関を出てすぐ左脇にある階段で五階へ登った。ドア横のネームプレートには鳴川と印刷された紙が挟まれている。あたしの部屋には木瀬。

 しばらく廊下の手すりにもたれて道行く車を眺める。その間にも、背後の玄関扉の向こうから、時折物音が響いた。そしていつものように、だん、だん、と、ドリブルをするような音。高校時代の体育でやらされたバスケットボールを思い出させるその音が不快で仕方ない。小さい頃から球技は苦手だった。あたしにできるのは絵を描くことだけだと思っていた。それも今はもうないけれど。

 そうやってあたしが思い出に浸っていると、突然扉が開いた。自宅の前に立っている見知らぬ女に驚いた彼女、鳴川恵子が泣いていたので、あたしは反射的にその手を引いて、マンションを飛び出した。




 二十四時間営業のファミレスは、意外と人がいるのだと知った。一体どういう境遇の人が、何を考えてど深夜に来店するんだろう。あたし達ははたからどう見えるんだろう。

 店員の呼び出しボタンの横には、メニュー表の影に隠れて、アンケート用紙とボールペンが置かれている。銀のケースに立てられたペーパーナプキンを一枚抜き取って広げ、あたしは鳴川さんの輪郭を見た。耳殻から細い顎のラインを描きとって、額に落ちた黒髪を引く。鳴川さんはとても弱々しく見えた。口の端に居座った血の跡も描きとる。

「アイス、全部溶けちゃいますよ」

 忠告するには遅かったかもしれないな、と白い海に刺さったままのスプーンを見て思う。はっと顔を上げた鳴川さんはアイスではなくあたしを見る。

「あの、どうしてこんな……」

「むかついてたんです」

「むか……ついて」

「うるさくて。どんどんどんどん、毎日のように音が響くんですよ。だからちょっと、証拠集め? というか、音の発生源を確かめに」

「でも、それとこれとは関係ないですよね」

 気弱そうな様子に反してずばりと言い切られる。関係ない。たしかに、そうかも。だってあの時、背後で突然ドアが開いて、出てきた女性が泣いていたからって、初対面のあたしがそこから連れ出す必要なんてなかった。あの時あたしなら何が欲しかっただろうと思っただけだ。

「わたし帰ります。ご迷惑をおかけしました。騒音のお詫びには後日お伺いしますので」

「帰るってあの家に? 馬鹿なんですか?」

 真っ直ぐな悪口が飛び出してしまった。けれど鳴川さんは気にした様子もなく、戻らなければ何をされるかわかりません、と言った。

「戻っても何かされるでしょ」

「そうですね」

「逃げては?」

 あたしの提案に、馬鹿と言った時よりも明らかな怒りと不快を目に宿すのが不思議だ。逃げればいいのに、なぜ逃げない。あたしは逃げた。

「どこへ? 頼れる人も大した貯金もありません。事情も知らないのに、簡単に言わないで」

「簡単だとは言ってません。あたしが手助けします。大学辞めてバイト三昧だったから、貯金はそれなりにあるんですよ」

「どうしてそこまで」

 わけがわからない、という表情であたしを見る鳴川さんはさっきよりも顔をしゃんと上げて、前を見ている。多分あたしより十かそこらは年上で、線の細い幸薄そうな女性。外見だけ見れば対照的だろう。でも中身はそんなに変わらないかもしれない。

「あたしも今、逃亡生活してるんです」

 だから一緒にどうですか?

 何の躊躇いもなく自分の口から出た言葉に、鳴川さんより、あたしが驚いていた。

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