第29話 アイツ
「すいません。ありがとうございます」
涙を拭いきると成瀬さんは安心したような笑みを見せる。
彼女が見せるその笑顔に僕も笑顔を返す。と丁度その時、扉のほうからコンコンコンっと三回ノックが鳴った。そしてゆっくりと扉が開く。
楽屋に入って来たのは二名の女性。両者とも先ほどまでここにいたキャストさんだ。彼女たちは室内を見渡すとやがて僕らのことを眼に止める。
「あ、いたいた。継実ちゃん」
「はい⁉」
女性からの呼びかけに僕の影から顔を出し、反応を見せる成瀬さん。
「お客さんが会場入りしたみたいだから一緒に見に行かない?」
「…行きます。あ、でもちょっと待っててください」
その女性からのお誘いを受け席を立つ成瀬さん。
もう大丈夫かな。そう思いつつ僕は席を立ち楽屋を後にしようと動き始める。も何かに引っ張られる感覚に襲われたせいで僕は動くことが出来なかった。気づくと成瀬さんが僕のスーツの裾を掴んでいた。
「どうしたんですか?」
僕は成瀬さんのことを見る。すると成瀬さんは戸惑いつつ裾から手を離す。
「あの~話…聞いてくれてありがとうございます。灯さん」
「僕も成瀬さんと話せて良かったです」
「それで、ですね。あの~…」
両手を合わせ何か言いたげそうにする成瀬さん。そんな彼女を前に僕は…ゆっくり彼女から言葉を待つ。
「灯さん。その…頭を撫でてくれませんか?」
「…良いですよ」
「へ⁉」
成瀬さんからのお願いを僕は迷わず了承した。僕の返答に頼んだ側の成瀬さんが逆に驚いている。
「それじゃあ…良い?」
「は、はい…」
僕の手が成瀬さんの頭の上で影を作る。ゆっくりと近づいてくる僕の手にギュッと目を瞑る彼女。
僕の手が成瀬さんの髪に触れる。その手を上から下に動かし、ゆっくりと彼女の頭を撫でる。ギュッと目を瞑っていた成瀬さんの表情が段々と柔らかくなる。
なんか懐かしいな。昔もこうしてアイツの頭を撫でてやったけ。…アイツって誰だっけ?
アイツ…その存在を気にした直後、頭の中で電気のようなものが走った。
成瀬さんの頭から手を離し、彼女のことを見る。話を聞く前よりも落ち着いた顔になっている成瀬さんがそこにいる。
「ありがとうございます。それじゃあ、またあとで」
「うん。またあとでね」
そう言って成瀬さんは女性たちの元へ駆け寄る。楽屋を後にする彼女に手を振り、その後ろ姿を見送る。そうして僕らは本番まで別行動となった。会場内には特犯の方たちが潜伏している。もし何かあっても直ぐ連絡が来る。
楽屋の扉が閉まる音が聞こえてくる。
僕は成瀬さんに振っていた手を額に当てる。たった一人…楽屋内で僕はあることを考え始める。
彼女の…成瀬さんの頭を撫でている時、頭に思い浮かんだアイツのことを。
急速に駆け巡る記憶の奥。やがてその奥で一つの影が見えてくる。
真っ暗な影から声が聞こえてくる。しかし忘れているからか。僕は聞こえてくるその音を言語化出来ないでいる。それでも繰り返し影から声が聞こえてくる。
…だめだ。思い出せない。
ピピピ…ピピピ…
考え事をする僕の耳にタイミングを見計らったかのようなイヤホンから電子音が鳴り響く。丁度僕だけの時を狙って…
思い出すことを一度切り上げ、僕はため息を落としつつイヤホンのスイッチを押した。
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