第3話 食卓

「・・・とぉったぁあああっ!!!!」


 その一声は湖全体に響き渡った。


 竿を掴む手に伝わる独特の手応え。

 それは、ついに待ち望んだ大物が釣り針に引っ掛かった証だ。


 水面が泡立ち、湖から舞い上がったのは、キラキラと太陽を反射する魚の姿だった。


「これで五匹目、今日の夕食には十分ね。」


 針を外し、魚をバケツに放り込むと、私はほっと息をついた。


 今日は特別な日。

 お祖母様が亡くなって以来、我が家に初めてのお客様がやって来た。

 彼の名はヴィクトル。

 森の中で力尽きかけていた彼に、私はリンゴを差し出したのだ。


 彼が瞳をキラキラと輝かせてリンゴを食べた時、私は心から安堵し


「これからは、もっと美味しいものを食べさせてあげるわ!」


 そんな言葉が、思わず口から溢れ出てしまった。


 彼が何を食べたいか尋ねたら、一瞬考えて、「本当の肉が食べたい」と。

 だから私は、こうして魚を釣っていたのだ。


 彼がかなり汚れていたから、私が戻るまでに身体を洗って、着替えてもらうよう頼んだ。幸いにも、私たちはほぼ同じ背丈だったから、私の着ていた服を彼に渡した。


「お帰り、アリア。」


 家に帰ると、すっかり変わったヴィクトルが待っていた。湿った髪が軽く揺れ、先ほど気づかなかった深い森のような緑の瞳が私を見つめる。

 心がぴょこんと跳ねた。


「よ、ようこそ・・・我が家へ、ヴィクトル。」


 その瞬間になって、わたしの心は、初めてのお客様を迎える少女の緊張を感じていた。



  ・

  ・

  ・



「アリア、君は…人間っ知ってる?」


 彼の問いに瞼を閉じ、記憶の彼方にある祖母の話を辿る。


「うーん、お祖母様が生きていたころに、昔話をしてくれたのは覚えているわ。でも、実際に見たことはないの。」


 いたずらっぽい笑みを浮かべてヴィクトルを見た。


「それって、もしかして、あなたが人間だから聞いているの?」


 その言葉に、ヴィクトルは驚きながらも、小さく頷いた。


「うん、僕は人間だよ。」


 ヴィクトルの宣言に、私は思わず目を丸くし、


「えっ、嘘!本当に?びっくりした!」


 と驚きの声を上げずにはいられなかった。

 だって聞いていた話と、イメージが随分と違っていたから。ほかの陸の動物のようにもっと毛むくじゃらで、、、少なくともこんなに綺麗な瞳をしているとは聞いていなかった。


 ヴィクトルはその瞳でしっかりと見つめながら次の言葉を紡いだ。


「でも、アリア・・・人魚は人間を食べると聞いたけど、、、君は僕を食べるつもりなの?」


 少し考えた後、いたずらっぽく笑い出す。


「ふっふっふ、言われて見れば、おいしそうな小僧じゃのう。食べてしまうぞぉ~」


 と言いながら、両手を広げてヴィクトルに向かって飛び掛かる真似をする。

 でも、彼があまりにまじまじとこちらを見るものだから、


 「なんて冗談よ」と笑った。



  ・

  ・

  ・



 人間と人魚の交わりについて、お祖母様から聞いた話があった。


「本当はね、深く互いに愛し合った二人がお互いに合意した上でするの。人魚側が人間を吸収する形で融合すると、美しい、すごい力をもった宝石が生まれるんだよ。それがお祖母様から聞いた話。」



――― 無理やり吸収した者は、クズのような石にしかならなんだ。



 遠い日の祖母の声が、頭に響く。

 そこには、深い悔恨が刻まれていた。



――― 我らは、間違えた

    我らに本当に必要だったのは ――― 



「・・・どうやって人間を食べるの?頭からガブリ?」


 ヴィクトルの質問が思考を遮る。彼はままだ少し戸惑っている様子だった。


 あまりに突拍子もない質問に、あっけにとられた顔で


「そんなことはしないわよ」


 と答える。

 すると続けて、


「じゃあ、どうやって?」


 と問われた。

 その真っすぐさに思わず言葉が途切れる。


「そ、それは、、、服を脱いで、、お互いのね、肌と肌全体を、、、って何を言わせるのよ、このエッチ!変態!!」


 声が少しだけ裏返ると、顔が真っ赤になった。黒い髪が風になびき、その色が私の赤い顔を一層強調した。

 手で赤くなった顔を覆い、少し恥ずかしそうに身をそらす。


 すると私の反応を見て、


「どうやら僕がアリアに食べられることはなさそうだね」


 と生意気にも微笑みながら言いってきた。

 半分は冗談、半分はホッとした本心からといった具合に。


 だから彼をにっこりと見つめ


「それはどうかしら?」


 といたずらっぽく言ってあげたの。


「私と恋仲になったらどうなるか、想像できる?」


 って。

 今度は彼の顔が一瞬で真っ赤になった。

 私はくすくす笑いながらつづけた。


「ふーん、あら真っ赤。そんなに言うなら、いつかあなたのことを食べてあげるかもしれないわね。それまでに、私を惚れさせるくらい素敵な男になってみせなさい。」


 ヴィクトルは少しびっくりした様子だったけど、笑顔でこう答えた。


「了解だ、アリア。その日が来るまで、君に惚れさせるために一生懸命頑張るよ」


 と。

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