100お題 第10話  お題「アイの輪切り」

腹を空かせた夢喰い | お題配布サイト

https://hirarira.com/


こちらよりお題を頂戴しました。

お題:「アイの輪切り」

2023年9月18日0:00~9月24日23:59 (実際にはオーバーして9月26日朝5:00完成)


 縦、横、高さ。立方体の体積を求める公式。中学校以降の授業で言えばX軸、Y軸、Z軸の概念がそこにあると言えばぴんと来るだろうか。そのX軸、Y軸、Z軸の空間を意味する座標を使うことが人体の把握をするときにも応用されている。

 胸部単純写真、いわゆる一般的な胸のレントゲンは人体に対してY軸方向に対して平行に画像を作成している。正式には胸部単純写真の「正面像」という。もちろん、臨床的に使う機会は少ないとはいえ呼吸器内科・外科、いわゆる肺専門の内科や外科ではZ軸方向に平行、つまり従来のレントゲンに垂直な向きでの人体の画像を撮像することもある。これを「側面像」という。普通のレントゲンは背中や胸にレントゲン撮影用のフィルム・板や装置をぴったりくっつけて撮影するが側面像の場合、背中やおなかに対して垂直に、ちょうど腕や肩の側に撮影用の装置が来る形になる。

「さしずめ人体の輪切り、ってとこか……」

 高橋は診察室のシャーカッセンにレントゲンのフィルムをかざし、クリップ部分に固定する。四角いシャーカッセンからの光がフィルムを通して高橋の顔を照らす。

 シャーカッセンはレントゲンやCT、MRIのフィルムを見やすくするための光源だ。一般人は名前は知らずとも「医療ドラマでレントゲンフィルムを見るアレ」みたいな感じで理解しているだろう。

 高橋は担当患者の二枚の胸部単純写真を丹念に見比べた。正面像、側面像を比較して気になる変化を認めた。正面像ではわずかに描出されていたそれは側面像ではよりくっきりと縦隔の中に認められた。

「……腫瘍の疑いもあるか」

 高橋は胸部単純CTの撮像まで必要と判断して、電子カルテ上と紙伝票でそれぞれ撮像指示の入力を進めた。


「よし、やってみろ」

 高橋が言うと与田はつばをごくりと呑んだ。見るからに緊張した与田の姿に高橋は苦笑する。

「俺は教授じゃない。失敗したって怒らないよ。そうするメリットもない」

 半分励まし、半分茶化す。与田のプレゼンを促す。哀れなこの医学生はリラックスするどころかより緊張した状態で予行練習に突入した。

「患者はふ、伏尾弘樹さん、五十六歳ですっ……! 主訴はにか、二ヶ月続く咳嗽とえ、嚥下の際の違和感です」

「噛むのは問題ないがもっとゆっくりプレゼンしても大丈夫だ。大方久保辺りにプレゼンは六十秒以内で、とか念を押されたんだろ。短く簡潔には大事だが患者に、患者の治療に寄与するプレゼンをする方が優先だ。試験じゃない、患者さんのことを相談するためにどんな患者像がしっかりわかることが大事だ」

 高橋は自身の経験も踏まえて与田に言う。実際に彼も上の他の医師たちから時間内に収めることばかり指導されてきたのだろう。患者に寄与するプレゼンを、その言葉が大分まだ若い医療従事者の卵に安心感をもたらせた。

「伏尾弘樹さん、五十六歳の男性です。主訴は二ヶ月続く咳嗽と嚥下障害になります……!」

「そうだ。湿性咳嗽か、乾性咳嗽か?」

「た、痰が絡まないので乾性咳嗽です」

「そうだ。臨床は国家試験と違って絶対はないが湿性咳嗽か乾性咳嗽かで病変がどこにあって咳が出ているかが類推できることもある。もちろん、湿性咳嗽で痰が出ていれば痰の検査も重要になる。……続けろ」

「はい。現病歴です。生来健康、毎年健康診断を受診して高血圧のみ指摘されています」

「ストップ」

 高橋は与田のプレゼンをいったん遮って、少し考え込む。

「……高血圧症があるのならば『生来健康』は突っ込まれるかもしれん。純粋に「毎年健康診断を受診して今まで高血圧症のみ指摘されて、かかりつけで治療されていました」、でいいだろう」

「わかりました……!」

 与田はくしゃくしゃになっているプレゼンの原稿に書き込みを加えて、再度発表の予行を始める。

「毎年健康診断を受診して今まで高血圧症のみ指摘されて、かかりつけで治療されていました。X年七月上旬より乾性咳嗽を自覚、気になるものの放置していました。やがてX年八月に入ってから食事が飲み込みづらい感じがして近医で上部消化管内視鏡を施行されました。食道、胃に異常は認めなかったものの……」

 高橋は与田のプレゼンを聞きつつ、シャーカッセンにかざされた伏尾のCT画像に視線を向けていた。


 伏尾は縦隔腫瘍の精査が必要な患者である。縦隔というのは肺と肺の間、心臓や食道、大動脈の通るいわば体の真ん中の「芯」のような部分だ。それだけであれば呼吸器内科医の高橋にとって別になんら特別な患者ではない。今までの医師の人生で何度もそういう患者を診てきた。問題は伏尾の娘が伏尾恵美ということである。

「持ち回りの当番とはいえ難儀なことだ……」

 高橋は頭を抱えた。大学病院の外来、一般病院や二次の総合病院から紹介が来るのは普通のことだ。しかし、よりによってなんで恵美の親父が自分宛に紹介されてくるのか、と。

 恵美は伏尾より二学年下の看護学科に入学してきた。大学時代、同じバスケ部の選手とマネージャーとして過ごし、付き合い、卒後もこうして交際継続している。言い換えれば、交際中の「彼女の父親」が何の予告もなしに「たまたま」自分宛に紹介されてきて、自分の担当患者になっているのだ。

 世が世なら、いや、そもそも自分宛の患者として紹介されていてこなければ普通にどこかでご挨拶に行っていたであろう「彼女の父親」である。それが縦隔腫瘍での精査に自分の担当として入院してきていることに高橋は頭が痛かった。

「与田先生。縦隔腫瘤の鑑別は何がある?」

 再び胸部単純写真……レントゲンを指差し、高橋は尋ねる。

「は、はい! 腫瘍、真菌、それから……」

 一旦与田が言葉に詰まる。

「えっと、感染症」

「真菌とかぶるが一応いいだろう。逆に真菌以外で腫瘤性病変になる感染症は何だ?」

 高橋は尋ねる。

「えっと……ええ……」

「ヒントは『の』で始まる」

「は、はい! 膿瘍です!」

「そうだ。あとひとつ挙げておこうか」

 そう言って高橋は少し仏頂面のまま、わざとコミカルに自分の両の鎖骨のくぼみ、両手を交互に挙げて脇、そして自分の足の付け根を指差して見せた。

「リンパ節腫脹です!」

 高橋のヒントに与田は的確に応える。ヒントがあったとはいえ、本当に勉強していない医学生には応えられないはずだ。

「よし。じゃあ与田先生。体の表面にない縦隔の腫瘤、あるいは占拠性病変。調べるためにはどうアプローチする?」

 高橋はレントゲンの画像を指さして依田に訪ねる。レントゲンは言うなれば、体の画像情報を体をぺったんこにして一枚の画像にまとめた状態だ。すなわち、押しつぶされて見えにくくなっている部分もある。

「はい、まずは胸部単純、並びに造影CTです」

「そうだな。他には?」

 そこで与田は言葉に詰まる。

「え、MRIですか?」

「胸部もMRI撮らないことはないが、今回の精査には向かないかもしれないな」

 MRIでは縦隔の血管の評価はそれなりに使えるが縦隔腫瘤の診断に強いとまではいえないかもしれない。

「じゃあえ、エコー?」

「超音波か。深部にあると超音波はそもそも届かないし、肺に挟まれた空間である縦隔は解像度が必ずしもよいとは限らない」

「えっと……わかりません」

 素直に降参した与田にうなずく。

「うん、分からないことは分からないといってくれればそれでいい。侵襲性は高いので後の方ですべき検査だがCTガイド下生検が最終的には必要だろう」

 侵襲性が高い、とは様々な意味で体への負担が大きい、と言い換えてもいいだろう。検査の場合であれば被曝量が大きいとか、具体的に針を刺したりメスで肌を切り開くなどの検査一連で当然ながら体に負担の少ない方の検査から少しずつしていくべきとされている。

「その意味では与田先生の言った造影CT検査もすでに撮像済みの単純CT検査と違って造影剤を体に点滴するので侵襲性が高いことになる。伏尾さんのアレルギー情報は調べたか?」

「あ、はい! 伏尾さんはアレルギー歴、ありません!」

「よし」

 与田がすでに患者のアレルギー歴の聞き取りをしていることに満足し、高橋は尋ねる。

「では今週の予定を再確認してみようか」

「はい。本日月曜日入院、各種採血検査実施、ならびに喀痰検査提出。明日火曜日、胸部造影CTを施行。木曜日、CTガイド下生検実施。そして金曜日に治療方針カンファレンスです」

「うん、いいぞ。じゃあ一週間よろしく頼むぞ与田先生」

 高橋がうなずくと与田は緊張しつつも少し嬉しそうに頷いた。

「はい、よろしくお願いします……!」


 大学病院の機能は大きく分けて三つである。一、治療。二、研究。三、医学生、看護学生など未来の医療従事者の教育。高橋が与田の指導に当たっているように。

 高橋は伏尾の入院している男性用四人部屋、八〇六号室を訪れていた。

「失礼します」

 軽く、会釈して入室する。ここ、八階東病棟は呼吸器内科、呼吸器外科の専用病棟だ。そのため高橋のように中堅以上の医師は複数の患者がこの病棟に入院している。が、この四人部屋には高橋の担当患者は伏尾だけだった。

「伏尾さん、こんにちは」

 高橋はベッドに寝ている伏尾の視線を考え、見下ろす姿勢にならないようにベッド脇にしゃがみ込む。

「おや、高橋先生。ありがとう」

 そういうと伏尾は軽く起き上がった。

「伏尾さん、体調はいかがですか」

 採血の数値でおおよその体調は把握しているとはいえ、すべては数字通りではない。高橋は尋ねた。

「おかげさまで。少しだるいけど、特別悪くはないですよ」

 伏尾は穏やかな表情を浮かべた。高橋は安堵するとともにこの人が恵美のお父さんか、と改めて思い直す。こんなことになっていなかったらどこかでご挨拶に伺って、恵美の実家でお会いしていたはずの人だと。

「今日はもう大きな検査はありません。明日火曜日、胸部造影CTを実施予定です。木曜日にはそれを踏まえての、CTガイド下生検という検査です。また検査の説明や同意書を持って何度かお伺いします」

 高橋が言うと伏尾は軽く頭を下げた。

「ありがとうございます。高橋先生には外来初日から本当にお世話になってしまって……」

「いえ。まだまだ今日が入院初日ですからね。これから一緒にしっかりやっていきましょう」

 高橋は採血結果の紙を取り出し、伏尾へ説明を始める。

「ここで説明をしてもよろしいでしょうか? それとも大部屋が気になるのでしたら空いている個室や説明室で実施してもかまいません」

「ここでいいですよ」

 伏尾の返事に頷くと、高橋は印刷した検査結果を伏尾に見えるように広げた。

「今日、すぐに結果が出たものに関しての説明です。院内で検査結果が出せるものでも数日かかるもの、あるいは院外の検査機関に外注で出した検査に関しては後日説明します」

「はい」

 了承して伏尾が老眼鏡とおぼしき眼鏡を取り出してかけた。

「本日の数値では明らかに緊急性の高い数値や、診断を絞り込める数値などはありません。白血球数とCRP、体の中に何らかの病気があるときに上がる数値が軽度から中くらい、上がっています。ただ、これは何の病気でも上がるので具体的な診断にはなりません」

「なるほど」

「そして伏尾さんは五十六歳ですが五十六歳の男性にしては少し貧血が進んでいます。今回胸の影にある病気が原因で貧血が進んでいる可能性が高いですが、場合によっては他の貧血を探す検査を検討します。幸い、胃カメラはすでに終えて胃潰瘍や胃がんなどがないことは確認済みです」

 紹介元の医療機関の検査結果も踏まえて説明は続く。


「……以上です。何か知りたいことはありますか?」

 高橋が尋ねると、伏尾は自身の病状と関係のないことを質問してきた。

「高橋先生は今お仕事をしていてどういうことを考えておられますか」

 高橋は眼鏡の奥の目をぱちくりさせた。

「どういうこと、とはたとえばどのようなことを指しますか」

「変な質問ですみません。先生の医師としての心構えとか……です」

 病状と関係なくこういう質問が飛んでくることはあるが、大抵はどこの大学出身ですか、とか、なんで医師になったんですか、などが多いのでこういう質問は珍しい。

「そうですね」

 少し考えて、高橋は自分なりに答える。

「患者さんやご家族とのすれ違いを減らすこと、でしょうか」

「すれ違い」

「はい。ことに、医療従事者側と患者さんやご家族の側とは医療知識の差や病状・病気の捉え方によって往々にしてギャップがあります。その差を埋めておかないと後々すれ違いが起きて双方によくないことがありますので。仕事のほう・れん・そうみたいなものです」

「例えが言い得て妙ですね」

 仕事人間の伏尾はわかりやすさに笑った。

「でも、大事なことです。どこまで分かっているのか、どこまで不安なのか、どこまで知っているのか。私たちはそこを忘れないように意識しないといけません」

 少しだけ見栄を張ったのも事実だが、それは高橋の仕事の上での信条には間違いなかった。特に分刻みとまでは言わなくても患者の数の多さや雑務に追われてコミュニケーションはぶつ切りになりやすい医師にとって気をつけないといけないことであった。

「ありがとう、高橋先生。これからもよろしくお願いします」

 伏尾は安心したようだった。


 伏尾の検査や与田の発表の準備などつつがなく月曜日から少しずつ一週間は過ぎていっていた。しかし、転機は突然訪れた。

 その日は伏尾が入院して五日目の金曜日、ちょうど呼吸器内科カンファレンスが行われていたときだった。

 与田が伏尾のプレゼンを終え、安堵のため息をついていた頃高橋の院内PHSが鳴った。

「カンファ中。急ぎ?」

 高橋が声を押し殺して通話に答えると慌てた様子の看護師の声が聞こえた。

「先生、伏尾さんがCPAです!」

 同時に院内一斉放送がスピーカーから流れる。

「ハートコール、ハートコール。八階東病棟。八階東病棟でハートコール。八〇六号室」

 瞬時に高橋は理解した。八〇六号室は伏尾の病室だ。そしてCPAとは心肺停止、ハートコールは医療従事者を一カ所に集めるための院内一斉放送。伏尾が何らかの理由で急変したのだ。


 高橋が八〇六号室にたどりつくともう慌ただしく胸骨圧迫、すなわち心臓マッサージとAEDによる初期対応が始まっていた。

「高橋先生! 指示を」

 流石に恋人の父親と言うことでは動揺するが、高橋もこういう場面自体は医師として何度も経験している。

「末梢路を生食、全開で。末梢路取れたらボスミン1アンプル。あとはACLSアルゴリズムに沿って」

 強心剤の指示を伝え、モニターを確認する。心電図の波形はフラット、すなわち平坦。ぐったりとした伏尾の目からは光が失われている。急変の理由は全くの不明だが、望みは薄かった。

「すみません、継続していてください。『院外の』ご家族に連絡します。与田先生、ハードな場面だが先生も一緒に」

「はい!」

 医学生であっても何が起こったかは大体想像できる。神妙な面持ちで与田は高橋に続いた。

 面談室に伏尾の妻……すなわち恵美の母、恵美、恵美の弟が集められた。高橋は背後に与田と担当看護師を伴って説明を始める。

「本日午前中まではいつもと変わらないのを私や担当看護師の伊藤が確認しています」

 高橋は少しだけ間を置いて、続けた。

「十四時三十六分、同じ病室の患者さんが伏尾さんが息をしていないようだとナースコールを押して看護師を呼んでくださり、三十七分、こちら側でも呼吸をしていないことを確認してすぐに人を集めました」

 ここで高橋はまた間を置いた。一刻の猶予もないけれど、家族が重い事実を受け止められるのを少しでも待ちたい形だ。

「……」

 ご家族の沈黙を受け止めて、ちらと高橋は恵美の表情も伺う。勤務中なので看護師姿のままだが患者家族側に立っている。そして恵美は医療従事者なので他の家族以上に、今起きていることがどう言うことなのかを理解している。

「呼吸だけではなく心臓も止まっていることをスタッフが確認し、すぐに複数人で胸骨圧迫、心臓マッサージを開始して点滴から少しでも心臓が動くように強心剤を入れ、AEDのパッドも貼って不整脈の解析もしました。しかし、AEDで治る不整脈による心停止ではなく、心臓マッサージも三十分経過したのにいまだに心臓が戻っていません」

 言外にもう無理だと伝える。だが、はっきり言わないと伝わらない家族も多い。残酷なようでも、悪い事実を伝えるのが医師としての責任でもある。高橋は重苦しく口を開く。

「現代の医学ではもう救命は無理だと判断しています、本当に申し訳ありません」

 高橋は頭を下げる。ひどく胃が痛い。こんなやりとり自体は日常茶飯事だが、それでも人が一人また救えずに手のひらからこぼれ落ちていく。そして原因も分からない。さらに言えば、それは恋人の父親なのだ。

「できれば、死亡確認をさせてください」

 それは一番言いたくのない一言ではあった。しかし、医師という科学者の高橋にとって、現時点では今から何時間かけようとも救命には何も寄与できないことは事実であるのは明白だった。

 恵美を含めた伏尾の家族たちが顔を見合わせる。

「恵美、どうなの?」

「姉ちゃん……」

 おそらく医療従事者でないだろう伏尾の妻と息子は看護師である恵美の方を向いた。

「うん……今は誰に診てもらってももうだめな状態だと思う……」

 泣きそうな表情で恵美は答える。

「わかりました」

 伏尾の妻は意を決したように高橋の方へ向き直る。こういうとき、女は肝が座っている。大抵の人の最期の時、女性の方が男性より受け止めに関しては強いことが多い。

「お父さんの……主人の最期をお願いします」


「対抗反射……光を当てての瞳孔の収縮、診られません。心音も、呼吸も止まっておられます。十五時五十九分、死亡確認です。お疲れ様でした、そして本当に力及ばず申し訳ありません」

 高橋を含めて、部屋にいた医療従事者全員が頭を下げた。救命処置に当たって先ほどの大部屋から他の患者たちの影響を受けて空いている個室に皆移動していた。伏尾の息子がうつむき、伏尾の妻からはすすり泣きが聞こえた。

「お父さん、頑張ったねぇ。でも、どうしてこんなことに……」

 妻は物言わぬ夫の手を取った。骸となった伏尾は死亡確認の際に高橋によってまぶたを閉じられており、穏やかな死に顔だった。

「今回は力及ばず、申し訳ありません」

 高橋は深々と頭を下げた。そして、ゆっくりと確認をする。

「ここは高度医療機関の大学病院で、今回のような原因不明のまま突然亡くなられた患者さんの場合は病理解剖と言って解剖させていただき、死因や病気を改めて調べることもできます」

 死因究明のため、難病や新しい病気の調査・研究のため、そして研修医や医学生たちの教育のため。可能な限りは原因究明のためには病理解剖をするのが望ましいとされている。しかし。

「亡くなってからまで体を傷つけるのは……」

 特に日本では解剖に限らず、臓器移植でもそうだが死者の体にメスを入れることを忌避する文化が強い。ここまではよくあることだが高橋はもうひとつ、と続けた。

「解剖を望まれないのでしたらそれ以外ではAiCT(Autopsy imaging CT)、死亡時画像診断というものがあります」

 高橋は説明を始める。それは死亡した患者が出て、家族が病理解剖を希望されない場合、病理解剖基準に当たらない場合、当たらないことが想定される場合の院内取り決めだった。

「今回、正直伏尾さんが何で亡くなられたのか現時点では分かりません。その上で解剖を希望されない場合はお身体を傷つけないようにして死因を調べようと試みる方法がもう一つあります」

「エーアイCT?」

 恵美は知っている言葉だったが、当然伏尾の妻と息子は知らない言葉だった。高橋は一呼吸置き、二人の顔を見た後説明を続けた。

「生きているときと同じように、ご遺体のCTを撮影し、縦・横に輪切りの画像を作って亡くなった後の臓器の状態を評価する画像の検査です。心臓マッサージなどの救命処置の影響は多少なりとも画像に残るので、確実に死因が判明するかは分かりません。なので希望されないご家族もいます。それに加えて保険診療ではないので自費になり、一件二万円に……」

 乾いた音が響く。一瞬遅れて、高橋の頬がじんじんと痛む。高橋が見れば、恵美が目を潤ませ、彼をにらんでいるのがはっきりと分かった。そして彼女が彼に平手を見舞ったのを。

「恵美、アンタ先生になんてことを……!」

 恵美の母親がそういうが高橋はそれを手で制した。

「いえ。申し訳ございません、配慮が足りませんでした」

 どの遺族にも説明する内容である。それは恵美もおそらく分かっていただろう。だが医療従事者となっても、自分が遺族の側になると冷静になれるかは別問題であった。

「先生、最期まで先生にお任せします。少しでも主人の死因がわかる可能性があるならやってください」

 伏尾の妻はそう言った。

「お母さん?! 死因が確実に分かるとは限らないんだよ?!」

 恵美は母親に対してそう言った。おそらく、それは看護師として現場で働いた側で今まで他のAiCTの事例を見てきた故の発言だっただろう。

「でも姉ちゃん。もう父さんに対してできることはあまりないんだ。せめてもう全部やろうよ」

 恵美の弟が彼女を諫める。

「恵美。あなたもいろんな患者さんを見てきただろうけど、あくまでも今回はうちのお父さんをどうするか、だから。看護師としてじゃなくお父さんの娘としてどうするか考えて」

 母の言葉に恵美は口をつぐむ。

「私は……」

 そこには相当な葛藤があっただろう。涙でぐしゃぐしゃの表情、崩れたメイク。しかし、最期には恵美は言葉を絞り出した。

「私も、AiCTを希望します」


「幸いにして、死因のようなものは特定できましたのでご説明させていただきます」

 撮像したAiCTの画像をシャーカッセンに張り、伏尾の遺族を前に高橋は説明を始めた。自身でも読影したが院内の放射線科医らも共同読影してくれているのでおおよそ確実な見解だ。

「この連続している線のような部分。ここは体の中の太い血管になります。ここが心臓で、心臓から伸びている血管です」

 妻や息子、恵美は目を皿のようにして画像を凝視する。

「ここ、血管の中にひときわ色の濃い、他の部分と違うものが見えるでしょうか」

 伏尾が指し棒で血管を指さす。

「わかります」

「違いますね」

「……」

 三者三様の反応を待ち、高橋は続ける。

「これはおそらく、以前からお話ししているレントゲンに映った影、できものから血管内に飛んだ塞栓、つまり千切れた腫瘍の一部分と考えられます」

「……主人のは腫瘍だったんですね」

 伏尾の妻がつぶやく。

「はい。来週がご家族含めた説明の予定でしたが、昨日のCTガイド下生検の結果、悪性腫瘍であることは概ね判明していました。細かい種類などはまだ検査提出中ですが……」

 伏尾の遺族たちは顔を見合わせた。癌なら仕方ない、といった色が少し表情ににじみ出ていた。

「どういう形かは不明ですが、血管の外にあったこれらの腫瘍ですが、がん、つまり悪性であった可能性が高いと思われます。そしてそれは血管に穴を開けるように大動脈に浸食して、千切れた一部分が心臓の方へ血流に乗って飛んでいきました。そして、血管を詰まらせてしまった……」

 Aiの輪切り画像によって、伏尾の死因は間接的には明らかになった。伏尾は帰らないが、少しだけ遺族たちの心象は晴れたようだった。

「そんなに進行したがんだったんですね、最期までありがとうございます」

 伏尾の妻がハンカチを濡らした。

「いえ、事前に予見できなくて申し訳ありません。AiCTではっきりしたので死亡診断書に関してはこちらの結果を反映させたもので書かせていただいてよろしいでしょうか?」

 伏尾の妻が頷いたのを見て、高橋は口を開く。

「では、お見送りの手配を進めさせていただきます。看護師の方でお身体をきれいにしますのでご家族の皆様は控え室の方でしばしお待ちください」

 そう言って高橋は頭を下げた。いつまでも、高橋の頬には恵美の平手の感触だけが残っていた。

 そしてその日を境に、高橋は恵美とは音信不通になった。


 二週間くらい経っただろうか。その日、高橋は当直だった。どんなにつらいことがあろうとも、患者が亡くなろうとも勤務は続く。

 当直は夜勤とは少し違う。ほとんどの病院では朝八時半や九時から勤務を開始し、十七時や十七時半までで勤務が終わる。もちろん、定時で帰れる医療従事者はほとんどいないが。そしてそれに加えて、医師の当直はそのままその十七時や十七時半から翌朝まで院内に泊まり込みだ。日本では夜勤専属で働ける環境は少ない、というより医師不足のため昼働いた医者が夜も泊まり込んでそのまま翌朝からも勤務しているのだ。

 高橋もそんな当直の最中にいた。二十二時半頃、高橋は当直室の机で調べ物をしていた。幸い、十七時を過ぎてからは病棟からは幸い二回しか呼ばれていない。

 こんこん、と控えめに当直室の扉がノックされた。高橋は机の上のPHSを一瞥した。どうやら、自分が院内PHSの着信に気付かずに看護師が呼びに来たわけではないようだ。

「どうぞ」

 そう言ってうながすと、入ってきた者がいる。

「恵美……」

 どうやら恵美も今夜夜勤だったようだ。ここ数日の慌ただしさや互いの関係性の変化で確認を怠っていた。あの日と違い、看護師姿の恵美がドアの前にいた。

「勤務中にごめんなさい、どうしても会って伝えたくて」

「……ううん、あのときは力及ばずすまなかった」

 高橋が頭を下げると恵美は首を振った。

「裕弥、ごめんなさい」

 そう言って恵美は高橋に頭を下げた。

「お父さんの手紙が見つかったの……今更虫がいいと思うけど」

 そう言って恵美はそっと白い封筒を高橋に差し出した。

「……いいのか?」

 言外に読んでも、と含ませて高橋は尋ねる。

「うん。お父さん、きっと望んでると思う」

 恵美の言葉に、高橋は亡くなった自身の担当患者の、交際している相手の親の、遺書とも言うべき手紙を読み始めた。


 「恵美へ

 突然手紙で驚かせてごめんなさい。

 お父さん、今まで大して病気がないのが取り柄だったけれど今回大きな病気が見つかっちゃった。

 急変、て言うらしいけど突然なんかあるかもしれないし、こうして手紙を残しておくから。

 お父さん、恵美が生まれてきてくれて、そして立派に社会人になってくれてそれだけで嬉しいよ。

 もし、お父さんに何かあったら啓次が就職するまではお母さんや啓次をよろしくな。


 そして高橋先生とはこれからも仲良くしなさい。

 まだ挨拶に来てはいないけれど、あの人が恵美の付き合っている高橋さん、ということは分かりました。

 あの先生は立派だ。

 交際相手としてはどうかはお父さん分からないけれど、他の患者さんや医学生の与田先生の話を聞いていても分かる。

 人間、誠実が一番です。

 もし、高橋先生とお付き合いを続けるか迷ったら人間として尊敬できるかを思い出して。

 何か一時的ないざこざで人と人の縁をだめにしないでください。

 これは高橋先生以外にもね。


 看護師がいかに大変な仕事か、お父さん入院してよく分かりました。

 恵美、本当に体を大事に。

 体を大事にしていれば少しくらい仕事を休んでもまたやり直せるはずです。

 病気が見つかったお父さんが言うのも変だけど、恵美もみんなも体を大事にね。


 お父さん 伏尾弘樹」


 ところどころ、インクがにじんでいるのは万年筆だからではなく恵美や他のご家族の涙のせいかな、と高橋は考えていた。

「あのときはビンタなんかしてごめんなさい」

 恵美が頭を下げる。

「いいよ、気にしないで」

 高橋があっさり許すと恵美は納得がいかないように少し大きな声を出した。

「どうして?! 私、あなたに暴力を振るったんだよ?!」

「暴力はよくないにしても」

 高橋は言った。

「あのときの君は彼女として、じゃなく患者さんの遺族としてだった。患者さん家族の、遺族の感情を受け止めるのも医者の仕事だ」

 半分は強がりでもあったが、それは高橋が恵美を責めなかった理由でもあり、医療従事者としての高橋の矜持だった。

 この仕事ではただ理不尽な暴言暴力を受けることももちろんあるが、病気に対するやりきれない怒りや悲しみから暴力や暴言が医療従事者に向かうこともままある。過度のものはもちろん対処するにしても、高橋は恵美の感情は受け止めようと思ったのだ。

「……やっぱり裕弥はすごいよ」

「そうでもない、医者としてはまだまだだよ」

 そう言って高橋は微笑む。ここ数日胃が痛かった事実はおくびにも見せない。

「仲直りしよう、なんて言い方は変だが気持ちの整理がついたら連絡してくれると嬉しい。もちろん、つかなかったら……」

「ううん」

 恵美は首を振る。

「私の選んだ人でもあるけど……お父さんももう認めてくれたから」

 少しだけ涙を浮かべて、恵美は微笑んだ。


 数年後、高橋と恵美はゴールインした。恵美も父親の死を乗り越え、高橋とのわだかまりも少しずつ解消し、二人の絆はより強固になったのだった。

 そしてそんな二人の結婚式当日のことだった。

「高橋先生、恵美さん。おめでとうございます」

「おお、与田先生、ありがとう。……懐かしいな。与田先生はあのとき伏尾さん、一緒に担当だったな」

「はい。医学生時代からたくさん指導、ありがとうございます」

 そう言ってスーツ姿の与田は頭を下げた。

 与田は医学生時代に担当患者の伏尾の死という大きな出来事を通し、呼吸器内科への興味や意識が高まっていた。また、高橋の熱心な指導を受けて彼の後輩として呼吸器内科の医局へ入りたい、と思っていたことから研修医になってから呼吸器内科の医局の扉を叩いたのだった。こうして、その縁も含めて職場の同僚の人間の枠で二人の結婚式にも招かれていた。

「次は与田先生だな」

 高橋が笑う。

「いやいや、僕はまだですよ」

 与田が笑いながら謙遜する。

「相手が、というよりまずはもっと医師として立派になりたいです」

「結構。でも婚期を逃すなよ」

 高橋はそう言って与田に握手を求める。

「今日は来てくれてありがとう」

「いえ! 先生、本当におめでとうございます!」


 帰宅した与田はスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを外した。まだ結婚式の幸せの余韻のような、ふわふわした感じが続いている。

 そうだ、と与田は引き出物を紐解いた。バームクーヘンだった。

「高橋先生と恵美さんの愛の輪切り、かな」

 そう言って与田は二人と伏尾のことを思い出し、暖かな笑みを浮かべるのだった。


<了>

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