アイスコーヒーを飲み下す

花岡みとの

第1話

 三十過ぎて昼間夏場のテラス席ってキツない?と三上が向かいの席で笑った。三十過ぎてノースリーブの服着てるからキツイんやろと言い返せば、白いふっくらとした二の腕を片手でさすっている。服くらい幾つになっても好きなもの着てたいやん、と唇を尖らせ不満を言うのは、昔から彼女の癖だ。中学の頃、私が長く伸ばしていた髪を顎のラインに合わせて切ったときも同じ顔をしていた。犬飼の長い黒髪が綺麗で愛しかったのに、と。そうだと思っていたから切ったのだ、とは口にはしなかった。


 休日のビル街の通りは意外と賑やかだ。商業施設が近くにできたから、大人な雰囲気を醸し出すこの街に若い子がやってくることも増えている。ブランドバックを乱暴に振り回しながらヒールの甲高い音を鳴らす女子は品がないが、楽しそうに今を生きている笑顔を見ると全て許してしまう。どうかそのまま、笑顔が消えないでいてくれればいいのにと願ってしまう。



「犬飼は最近どうなん?」



 オーダーの確認に来たウェイターにメニューを返しながら三上が訊いた。通りを行き交う人に視線を送っていた私は、何が?と聞き返す。三上は苦笑いを浮かべ「仕事やよ」と言った。



「忙しいんちゃうん? なかなか予定、合わんかったから」

「そんなことないよ」



 ついぶっきらぼうな言い方になったと自分でも気づく。三上は「嘘やん」と目を丸くさせながら笑った。白いテーブルに肘をつき、指先に乗ったコーラル色のネイルに触れている。その指が無意識だろう、左手の薬指に鎮座する指輪に触れた。シルバーのシンプルなデザイン。光る宝石が散りばめられたそれを、三上は指に嵌めたまま右手の指でクルクルと回している。自分、それスコスコやん、サイズ合ってへんやん、お前の旦那、嫁の指のサイズも知らんのか。罵詈雑言は山ほど溢れるけれど、それは口にせずに飲み込む。昔から得意だ。言いたいことを隠すのは、性に合っているのかもしれない。



 中学からの同級生である三上は、今はもう三上ではない。葛城となったらしいが、今でも私は、彼女を三上と呼ぶ。三上も特に何も言ってこない。今の姓で呼んでよ、と言われても言う気はない。そもそも彼女が三上の姓を捨てた時から、彼女との縁を切るはずだったのだ。三上、と呼ぶ以外に、私は彼女を呼ぶ方法を知らない。



「いつ誘っても忙しいって言うしさ? 愚痴りたいこといっぱいあるんやで、今日!」



 忙しいはただの言い訳。会うと悔しくなるから、会いたくなかっただけだ。実際仕事は暇だ。年齢が上がって管理職になったけども、ちゃんと週休二日で休みもある。残業もほとんどない。三上が平日の夜「今日晩御飯どう〜?」とメッセージを送ってくる時、私は絶対それを断って、別の女と一緒にいる。ごめん無理、仕事、と送り返し、返事も待たず、色白で亜麻色の髪を緩く巻いた、垂れ目の女を出会い系で探して夕飯に誘っている。


 三上とそっくりな女ばっかり。


 その都度その都度、三上が私を誘ってくるたびに、女を探して誘って夕飯を食べて、そのままホテルに行って朝になって、連絡先も交換せずに別れる。それの繰り返し。繰り返すたびに虚無感を味わうのに、やめられない。心が悲鳴を上げているのに、やめられない。三上に似た女たちは顔や声は三上であっても、中学の頃からの私を知らない。中学の頃からの私を知っている三上は、本物の三上だけだという絶望に、いつも傷ついているのに。三上が私を誘うたびに、自虐に走ってしまう。


 

 三上は昔からの私のことを、よく知っている。知っているようで、でもちゃんと知らない。だから無垢な瞳を輝かせ、比較的近所に住む幼馴染を誘って、食事をしようとする。彼女にとって食事は重要ではない。大事なのは、自分を一番理解してくれて味方になってくれる、唯一の存在なのだ。



「釣れへんなぁ〜ここのランチ代ワタシ持ちやから、その分鬱憤きいてよ〜」



 嫌と言っても三上は話し続ける。ワタシ持ちとは言うが、彼女がブランドのバックから取り出す財布の中身の現金は、彼女が稼いだものではない。着ている服だってそうだ。三上は大学を卒業してすぐに葛城を名乗り始めた。愛しいはずの彼女が、自分の知らない色に塗りつぶされている。化粧品も服も鞄も靴も。三上の体や血液をつくるために口へ運ばれる食物にさえ、私が関わる隙はないというのに。彼女に体よく呼び出され、彼女の体を作る人間の愚痴を聞かされる。そうだとわかっているのに、数回に一回の確率で、彼女の誘いに応じてしまう。切るはずだった縁は、切ったと思っても蘇る蜘蛛の糸のように、気づけば何度も復活している。



 愚痴を言われる人間には、会ったことはない。写真すら見たことない。見てしまうと腹の底から、ドロリとした背脂のような憎悪が溢れて、胸焼けしそうだった。私から三上を奪った人間が、私のことを嘲笑っているような声が聞こえてくる気がしている。結婚式にも招待されたが、行かなかった。仕事で行けないと言っても、三上は「念の為に席用意しとくなぁ」と、無駄な気を回していた。新婦側の友人席に一つポツンと穴が空いた席があるのを想像しながら、自分の部屋でタバコを咥えながらその日を過ごした。



 葛城という男は普通より少し地位の高いサラリーマンのようだ。仕事もできるようで収入も安定しているのが三上の成りを見ればわかる。結婚後彼女の頬が痩けることもないし、格好が貧相になることもない。仕事に関しては完璧なのだが、私生活はだらしないらしい。会うたびに三上の艶のある唇から紡がれる愚痴は、言葉は悪いのに、甘やかさがあった。



「使った食器をば水につけずに置いとかんといてって言ってるのに、何回言ってもやるんよ。この前もさぁ、飲んだコーヒーカップをそのまま置いとくから底に残ったヤツが乾いて取れんのよ。もう発狂するやろ?」



 せやな、と返事しながら運ばれてきたパスタを受け取る。ウェイターが私の前に置いたカルボナーラは、三上が頼んだものだ。彼女は昔からパスタが大好きで、特にカルボナーラを好んでいる。高校の頃は遊びに出かけるたびに有名なパスタ店を巡ったりなんかした。カルボナーラばっかり食べんとたまには違うの頼めば? と私が言っても彼女はカルボナーラを頼んだ。「いいんよ。だって犬飼が違うの頼むから、それちょっと貰えるから満足やもん」と笑って私の皿から、フォーク二巻き分くらいのパスタを奪っていくのは常だった。



 ウェイターが去った後に、私はカルボナーラを三上の目の前に移動させる。私が頼んだペスカトーレはまだ届く気配はない。冷める前に食べなよ、と頬杖しながら話を聞く体勢でいると、「ほらそれとか!」とフォークを手にしながら顔を皺くちゃにして笑っていた。



「その気遣いとか! 犬飼は神対応よな! 旦那なんか先に自分の分きたらワタシがなんか言う前に食べてるもん。普通相手に一言言ったり言われたりせん?」

「それは三上に気を許してるからやないの? 三上なら、何しても許してくれるって思ってるんちゃうかな」

「わがままやなぁ。ワタシがわがまま言って許してくれる人なんか、おらんのに」

「おるよ」



 だから昔は、髪の毛を伸ばしていた。真っ黒いストレートヘア。毎朝櫛で入念にすいて、学校へ登校していた。おはよう、と教室へ入るたび三上が目を輝かせて、挨拶もそぞろに「髪結んでもええ?」と微笑んできた。いいよと笑って席につけば、彼女は自分の櫛を私の髪に通して、編み込みなんかをしていた。三上が美容師になりたいことは知っていた。私が彼女の親だったら、笑顔で彼女を美容師専門学校へ送り出しただろうに。専門学校は甘えだと謎の持論を持つ両親の反対で、彼女は美容師の夢を諦めていた。


 私だったらよかったのに。何もかも。彼女の心を染めるものが、私の存在だったらよかったのに。三上を幸せにできる自信は、誰よりもあったのだ、当時。



「誰やろ? 旦那とか?」

「それは知らん。自分で気づきや。意外と人に助けられてるんちゃうん」

「今一番のワタシの救いは犬飼やけどなぁ」



 ヘラりと笑う三上を真正面から見る。三上に初めて彼氏ができたのが、中学三年生の時。同級生の男子だった。髪を切ろうと決意したのはその頃だ。失恋で切ったんじゃない。髪を長いままにしていると、一生三上に、心を許し続けると思ったからだ。


 彼女が私のものになる可能性はない。彼氏と二人並んで校門を出ていく三上を見て、気づいた。あの子の隣を陣取れるのは、私だけじゃなかった。髪を切れば三上は不満を溢すことはわかっていたけど、彼女に執着しないためのケジメだった。



 だから彼女の結婚は好都合であるはずだった、縁が切れるから。まさか蜘蛛の糸みたいな縁だとは、思っていなかったのだ。中学からの幼馴染である三上は私のことを知っているようで知らないまま、無垢な笑顔を浮かべて容易く簡単に、私の心を離してはくれず、癒しては傷つけてをくり返す。



「犬飼がワタシの旦那だったらよかったんよなぁ」



 容易く簡単に。

 バターナイフでバターを割くように、スーッと私の心を真っ二つに割っていく。傷口から血は出ない。痛むのに、痛いとは言わない。慣れている、そう言う性格なのだ。なにそれ、養ってくれるん?と無理矢理笑顔を浮かべれば「いや逆やろ社畜!」と、三上は声を上げて笑っていた。


 心は割れて、痛い。でも血が出ない、傷ついているようで、傷ついていない。この時だけ、私は三上を手に入れた優越感に浸れる。痛みさえ、愛しさだ。私のものになった三上が、数時間後に私の元を離れて旦那のところへ帰っていくとしても、この数時間の間だけは、彼女の旦那を苦しませられているのかもしれないと優位に立てる。



 私の注文したペスカトーレと二人分のアイスティーが到着した。水滴が浮かぶグラスを持ち上げて、ストローからアイスティーを吸い取る。喉が狭くなっていて上手く飲み込めなかった。苦しげに眉が寄る。私のペスカトーレを小皿に移して奪い取ろうとしていた三上が「何、どうしたん?」と目を丸くした。



「ごめん、アイスティーやと思ったら、コーヒーやった」

「あら、間違えたんかなぁ。犬飼コーヒー飲めへんのにね」



 取り替えてもらう? とペスカトーレをフォークに巻いて食べ始めた三上に「いらん」と首を横に振ってみせた。犬飼は昔からほんま優しいなぁ、と三上の声が聞こえる。その声が愛おしい。



 数時間後、私は出会い系で女を漁るだろう。色白の、亜麻色の髪で垂れ目の女。優しい声で笑う女は、中学の頃からの私のことを知らない。私が髪を伸ばしていた頃の姿も知らないまま、ホテルに入って抱かれ連絡先も交換せず、飴細工のように簡単に縁は切れて、二度と会わなくなるのだ。

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