やがて死にゆく瞳たち

無銘

やがて死にゆく瞳たち

 私が抱えるゴミに惹きつけられたのか。それとも私の不潔に引き寄せられたのか。しきりに蝿が辺りを飛び回っている。

 私はそれをやり過ごすように下を向いて歩く。身体に染み付いたいつもの道。スラムから都市部へと向かう道を淡々と歩く。

 スラムに打ち捨てられたゴミの中から鉄屑をかき集めてそれを都市部で売る。物心ついた時から私の毎日はその繰り返しだった。熱波が押し寄せる日もスコールが降りつける日もずっとそれの繰り返し。

 私は恨めしげに太陽の光に溶かされたアスファルトの地面を眺める。頭から流れ落ちる汗が視界を横切る。その汗は真っ直ぐに落ちてアスファルトと一緒に溶けて消えた。繰り返しの日々の中でも今日は特別に暑い日の朝だった。

 私は立ち止まって黒く燻んだ指で汗を拭う。それから顔を上げる。辺りを飛び回る蝿は知らぬ間に五匹ほどに増えていた。黒くて煩いノイズ越しに慣れ親しんだ風景を眺める。

 所狭しと並ぶ小さく簡素な家々に数少ない隙間を埋めるようにそびえ立つゴミの山。ゴミの山と一口に行っても様々な種類がある。例えば都市部では処理しきれなかった缶やビンが無造作に積まれた物。

 このビンの破片が道中に散乱していて足に何度もそれが突き刺さる事になる。私の足裏には取り出すことのできなかったガラス片がいくつも埋まっている。もっとも、その違和感にも随分と慣れてしまったけれど。

 また別の山では乱雑に積まれた生ゴミの中に無造作に人の腕が突き刺さっている。ハエが私の比じゃないくらいに集っているのが見えた。臓器が高く売れるからスラムの住人は良く殺される。私の残骸もいつかあの山に積まれるのかもしれない。そんな事を思う。

 私は思い出す。自分の身体が分解されるような痛みを。男に初めてレイプされた時の痛みを。私の身体がいとも容易く分解されたように、私の命も恐らくは誰かの気まぐれによっていとも容易く分解されてしまえるような物なのだろう。

 そんな事を考えていると、突然に強い風が吹いた。私は反射的に目を瞑る。その風は太陽の熱から生じる熱波を余す事なく乗せて辺り一帯に吹き付ける。剥き出しの手足や顔に激痛が走る。

 そんな私に追い討ちをかけるように、昇り続ける太陽の朝の日差しが私に照りつける。それがさっきの突風から生じた熱の火種をどんどんと加速させていく。

 肌がひっくり返ってしまうように痛い。身体は水分をとうに使い果たしていてもはや汗すらも流れない。喉の気道が渇きによって締まって貼り付いて剥がれなくなる。暗かった視界がだんだん真っ白になっていく。耳鳴りがジリジリと鼓膜に響く。

 結局のところ、こうなってしまってはどうしようもない。全身を包む上等な服も喉を潤す水も一休みするための日陰も、ここのどこにもそんなものはないんだから。この痛みに慣れることが私ができる唯一のことだ。私は観念して目をゆっくりと開く。真っ白な視界がだんだんと開けていく。それと同時に耳鳴りだと思っていた音の正体が現れる。

 熱波はなんでも燃やす。人の肌もアスファルトの道路も、もちろんゴミの山も。私の目の前で人の腕が刺さった生ゴミの山が燃えていた。目の前で腕が消炭になって崩れていく。私はその風景をしばらく眺めてから、ようやく熱を飼い慣らした身体を引きずって歩き始める。いつのまにか蝿は私の周りから姿を消していた。


 この暑さにも関わらず、朝の都市部は人でごった返していた。誰もが前を向いて明るい表情で歩いている。私には見向きもせず、たまに目が合っても彼らは大袈裟に顔を顰めてその表情の印象だけを残して通り過ぎていく。

 去年のちょうど今頃、カーストが廃止された。都市部を歩いてるだけでそのニュースは何度も耳へと入ってきた。

 私はその時こう思っていた。もしかしたらもう、ゴミを集めなくても良いのかもしれない。スラムから抜け出してここで穏やかに暮らせるのかもしれない。売られる心配もレイプされる心配もしなくて良くなるのかもしれない、と。ただの妄想だと心の隅では理解しながらそれに縋っていた。

 あれから一年。私の生活が、周囲も含めて変わる気配は一向に無い。私は変わらずに鉄屑を集めてここに来ているし、そんな私を都市は当たり前のように拒絶する。いっそ透明な人間になれたらとここへ来るたびに思う。

 私は迫ってくる人を交わしながら何があっても溶ける事は無さそうな確固とした地面を歩いていく。一直線の大らかな住宅街に囲われた道。壁に寄りかかるように並んだ出店には目もくれずに歩いて、建物と建物の隙間を縫うように作られた裏道へと入る。建物の影によって冷やされた裏道の感触が素足を撫でる。私はいつも、この道にたどり着いて初めて自分の足の裏が熱く爛れていることに気がつく。

 全身が冷やされていくのを感じながら行手を阻むように建物から突き出す管や転がるネズミの死体を躱して進む。そしていつものように穴の開いたコンクリートの壁をくぐって、家とその穴から地続きになっている壁との隙間を通る。伸ばしっぱなしの雑草がチクチクと脛の辺りを撫でる。2、3日前に襲ったスコールの影響か雑草は微かな湿気を孕んでいた。

 私は冷やされたことによって感じる痛みを引きずりながら壁を伝うようにして歩いて、壁の途切れたところから再び大通りへと出る。この大通りの対岸までたどり着けば目的地だ。私はまた人混みの中へと足を踏み入れる。私よりも遥かに体の大きな集団の中で蹴り飛ばされないようそれだけを意識して歩く。

 人を避けるため、頭を振った拍子に下を向くと、足の指に大きな黒い物体がくっついているのが見えた。恐らくヒルだろう。湿った雑草はヒルの温床だ。それを認識した瞬間足にむず痒さが走る。ただ、今はヒルなんかに構っている場合じゃない。

 私は顔を上げて人混みの中の一瞬の空白を見つけて間隙を縫うようにして走り抜けた。そのままの勢いで小道にもたれかかるように建っている今にも崩れそうな廃ビルに飛び込んだ。


 私はヒルの脇腹を摘んで足の付け根に向けてスライドさせるように引っ張る。背中に三本赤紫の大きな線が入ったヒルは剥がされまいと必死に体をくねらせ私の力を受け流しながらなおも血を貪る。ヒルの脇腹が血を吸って微動し肥大するのを手の指先で感じた私は闘志までもを吸い尽くされたような気分になって格闘するのをやめた。

 縦にも横にも小さな廃ビルの階段の前の踊り場。灰色に薄汚れた壁や埃に塗れた階段はスラムの建物に負けず劣らずの不潔さだった。壁に開いたいくつもの穴から太陽の光が差し込んで辺り一体に舞い散る埃の軌道を鮮明なものにしていた。

 ハエに集られ足をヒルに犯されている私にはぴったりの場所かもしれない。そんな事を考えていると足の指が急に脱力感に襲われた。私は視線を足元に向ける。吸血を終えたのか体積を三倍ほどまでに膨らませたヒルがべたりと私の前に寝転がっていた。床に落ちたヒルの後を追うように足の吸血された部分から血が止めどなく流れ出して灰色の床を滑っていった。ヒルが私の流した血の上でのたうちまわっていた。

 私は身体を包むボロ切れの肩の辺りを歯で噛みちぎってそれを傷口に当てる。傷口を強く押さえながら器用に蝶々結びを作ってボロ切れを固定する。血でみるみる赤く染まっていくボロ切れを視界の端に捉えながら立ち上がり階段を登り始める。露わになった肩を冷たい空気が撫でる。

 階段を一歩進むたびに小石が落ちるパラパラという音が聞こえる。貧相な作りの廃ビルが私の歩みによって軋んでいる。

 私はいつものように三階に辿り着き、目の前の扉を開ける。錆びた音が響く。扉の先には用途不明の廃ビルの横幅の全てを占めるほどの大広間があって、その隅で老婆が一人粗末な机と椅子を並べて座っている。

 私は、まるで大広間の調度品の一部みたいにその景色に馴染んでいる老婆と目配せを交わして老婆の前まで歩いて行く。私を捉える老婆の目は埃を被った灰色で瞳孔が鈍く光っている。

「また来たのかい」

 老婆の、耳に引っかかるようなしゃがれた声が響く。その声は私への確認というよりは独り言のような響きを含んでいた。

 私は頷いて、それから両のポケットに手を突っ込んで早朝に集めた鉄屑を取り出し老婆の目の前に並べる。老婆は鉄屑に大袈裟に顔を近づけそれから鉄屑を懐に仕舞い込む。その一連の流れで懐から硬貨を数枚取り出し私の掌に直接差し出す。

 私は硬貨の枚数が三枚である事を感触で確かめ、それからその硬貨をポケットにしまう。そのまま老婆に挨拶もしないで踵を返して大広間を後にする。

「気をつけて帰るんだよ」

老婆は私の背中に言葉を投げかける。あの不愉快なしゃがれた声に確かな優しさが混じっていることがなんだか不思議だった。

 私は振り返って私を見つめる老婆に軽く頭を下げてそれから階段を降りる。硬貨がポケットの中で軽く跳ねる。三枚の硬貨じゃパンも買えない。それなのに、その硬貨が今日生み出した物の全てだった。私が今日を生きた証だった。明日も明後日も私は数枚の硬貨の為に生きていく。そしていつかは死んでいく。太陽に焼かれて。またはゴミ山に突き刺さって。または誰かに臓器を売り飛ばされて。または犯された挙句に。

 私はこれからの人生とこれからの帰路に暗澹とした気持ちになりながらビルを飛び出た。人混みに揉まれる覚悟を固めながら。

 しかし、その覚悟は無駄になった。さっきの喧騒が嘘みたいに道はガラんと空いていた。そして、人が道の中央を開けるように端と端に立って並んでいた。まるでパレードを見送るように。

 私はそんな人々を真似るように端に並んで人々と同じ方向へ視線を向けた。都市の人は今から訪れるなにかに夢中で、今日だけは都市に拒絶されることなく自然に人混みの一員になることができた。

 そして、それは突然にゆっくりとしたスピードで現れた。まるで凱旋するように。微かなエンジン音を響かせながら。それはつまるところピカピカに光沢を撒き散らす英国的な車だった。その車はまるで権威や富を撒き散らすように道の中央を我が物顔で通り人々はその権威にひれ伏していた。

 車が私の目の前に来た。私は強固なガラスの向こう側を覗き込んだ。

 そこでは青色の宝石が私を捉えていた。私はその輝きに魔法にかけられたように捕らえられた。

 良く見るとその輝きは生きた瞳で、その主は、私と同じくらいの歳の女の子だった。宝石のような瞳は確かに私を見つめていた。胸が熱波を帯びたみたいに熱かった。その輝きの前では、私自身がゴミ山と同義だった。私だけでなく、今ここにいる全ての人がそうだった。それくらいその少女の瞳は美しかった。

 私はただ、これからの人生で二度と見る事も触れる事も無いであろう美しさに圧倒されていた。その永遠に等しい美しさに私は魅せられていた。

 けれども永遠は一瞬で。

 彼女を乗せた車は私を時間という暴力で置き去りにして瞬く間に去って行った。私はその車の下品な輝きをしばらく眺めて、それからスラムへと向かう帰路へと歩き始めた。空白の道に雪崩れ込むように人混みが動き始めた。

 私は都市に蹴飛ばされるようにスラムへ向かう歩みを速めた。



          ◇



 

 運転するのはバトラー。助手席に座るパパに後部座席に座る私とママ。

 私は車で移動するこの時間が嫌いだ。人々は車を見ると私達を避けるようにして道を開ける。そして私達が移動するのをただじっと眺める。私はその目が怖くて嫌いだった。まるで何かを私に訴えかけているようで。怖くてけれど何故かその視線の意味から目を逸らしては行かないような気がして。だから今日も私は恐怖と罪悪感から生じる強迫観念の板挟みに合いながらガラスの向こうの人々を眺めている。

 ふと、そんな視界にイレギュラーが映り込んだ。私は一人の少女に視界を奪われる。その少女は立ち並ぶ他の人達の何倍も小さくて身なりはボロボロで靴も履いて無くて、私はそんな少女から目を離すことができなかった。まるで私の抱える罪悪感の象徴のような女の子だった。

 ただ、そんな身なりとは対照的に少女の瞳だけは鉱石のように無垢な光を纏っていた。そんな少女の瞳と私の瞳は正面から衝突して離れなくなった。どうやら少女も私を見つめているようだった。私はその輝きに魅せられた。いつもは疎ましい車内の時間を永遠であって欲しいと願ったのは初めてだった。

 食い入るように窓の外を眺める私にママが尋ねた。

「どうしたの?」

私は少女を見つめたままで答えた。

「あの娘の瞳が綺麗だわ」

 やがてガラスの視界からあの娘は消えていった。

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