旧校舎の幽霊は、
緋星
旧校舎の幽霊は、
私立あづま野宮学院高校。創立から八十年近く経つこの学校には、とある怪談が語られている。
学院内の北側に、今は使用されていない旧校舎がある。そこの屋上のフェンスから身を乗り出そうとすると、飛び降りを止めるように忠告する男子生徒の声が聞こえる。驚いて振り向いても、誰もいない。この旧校舎では昔、男子生徒が転落死した事故があり、彼が幽霊となってこの場に留まっているのだ、と。
「……まあ、自分と同類にしたがる幽霊の話は聞くけれど、飛び降りを止める幽霊はまずいないわ」
羽佐間千景が感想を述べると、相手は苦笑いを浮かべた。
「だって、痛いんだもの」
「痛いって言えるのは、経験者だけだよ」
ちらり、と視線を送ると、ブレザーを着た少年が肩を縮こませた。
七月も半ばを過ぎたのに季節外れの制服を着た彼は、件の怪談の登場人物である“男子生徒”だ。名前は郡山司、享年は十八。今から二十年以上前にここから落ちたとのことで、当時着ていた旧制服のまま幽霊をしているらしい。なお、制服は十年前に現行のデザインに変更された。
生来幽霊が視える千景と司が出会ったのは、昨年五月の連休後のこと。入学して約一ヶ月にして早くも学校生活に飽きていた千景が初めて旧校舎を訪れた時、司が屋上からこちらを見下ろしていた。曰く「久し振りに人が来る気配がしたから覗いていたら目が合った」。
怪談があるためか、旧校舎には基本的に生徒だけでなく教師たちも立ち入るどころか近づくことも少ない。特に注意もされないので、千景はかなりの頻度で入り浸り授業をサボタージュしている。
「痛かったものは痛かったんだもの。こんな経験、他の誰かにも味わってほしくないんだよ」
「だからって幽霊から『飛び降りるの、止めようよ』なんて言われたら、失禁ものでしょうに」
「女の子が失禁だなんて、さらっと言わないで」
むぅ、と頬を膨らませる司は年齢不相応に可愛らしい表情をしている。もし生きていたらその容姿を生かした職業に就いていたのかもしれない。
ペットボトルを煽って麦茶を飲み干す。遠くで蝉が大合唱をしている。
「もうすぐ夏休みだね」
「まあ……しばらくは来ないよ」
「うん。君がそこまで熱心に勉学に努めていないのは知っているから、夏休みはのんべんだらりとしているんだろうな、とは思っている」
ぐ、と千景は詰まった。実際そう思っていたのだから返す言葉もない。
司は返答に困る千景を見て笑い、そして。
「……君が次に来る頃には、僕がいるとは限らないからね」
* * *
ある噂を耳にした。校内北部に残る旧校舎の屋上に幽霊が出るらしい。
全く馬鹿馬鹿しい話だ。流言飛語にも程がある。信じる輩も大概だが、そのデマを否定しない職員らもどうかしている。
手元の書類に目を通して判子を押す。そこには陸上部が使用しているグラウンドの修繕計画が事細かに書かれている。本来なら旧校舎の取り壊し、そこに新しいグラウンドやクラブ棟を建設する計画だった。しかし、その計画が頓挫してもう数年が経過している。こんな資金の無駄遣いがあってたまるものか。全く腹立たしい。
秘書によれば、職員たちもあの旧校舎付近に近寄りたがらず、どうも気味が悪いと感じているとのこと。しかもこの話はインターネット上ではそれなりに有名らしく、時折「あの怪談は本当か」などとくだらない問い合わせがあると聞いている。
こんな法螺話をこのまま放置していたら、我が校の評判に傷がついてしまう。
ならばどうするか。他人の言葉は信ずるに値しない。ならば己が目で確認するしかない。
秘書に少々留守にすると言伝て、部屋を出る。そのまま旧校舎への道を進み、校舎が見えても何の感情も湧かなかった。
(――本当に?)
誰かの声が聞こえた気がしたが、気のせいだ。
この校舎は学生時代に自分が使用していた場所だ。ある程度の思い出もあるが、今更郷愁など抱いて何になろうか。
所々が錆びついた、古臭い扉に手をかけ開けると、案外すんなりと開いた。埃っぽい空気が満ちていると思ったが、それも思っていたよりも澄んでいて拍子抜けしそうになる。視線を下げれば、扉から廊下まで繋がる比較的真新しい足跡がある。誰かが無断で侵入しているのだろう。戻り次第、即刻立ち入り禁止にしなければならない。理由を「耐震性に問題がある」とすればある程度は納得するはずだ。
スリッパなど用意していないので、自分も土足のままで階段を上る。どうせ取り壊す予定なのだ。気にするまい。
真っ直ぐ屋上に向かうと、途中で「立ち入り禁止」と書かれたプラスチック製のプレートが、これまたプラスチック製のチェーンと共にぶら下がっていた。それを無視して屋上に通じる扉を開ける。
むっとした空気が顔を撫でる。もうすぐ夕暮れなのに、日の入りまで時間はまだかかりそうだ。
何も、ない。ぐるりと見回し、知らず知らずのうちに詰めていた息を吐き出した。そして念のため隅々まで変事はないかと確認する。やはり、何もない。
「……ふん、やはりただの噂話か」
しかし、ここには思い出はない。それに当初の目的は達せられた。すぐに戻って計画を立て直さなければならない。
そう思い屋上の入口に足を向けると、季節外れのブレザーを来た男子生徒が立っていた。
「何をしている。ここは立ち入り禁止の区域だ」
「……先生は、どうしてここにいるんですか」
「私は教師ではない。それに私もすぐに外へ出る」
「……そうですか」
しかし男子生徒は動こうとはしない。それどころかこちらに近づいてくる。
「おい、いい加減にしなさい。君は何年何組の生徒だ? さもなければ」
「さもなければ、何?」
至近距離まで近づいてきたその人物に、見覚えがあった。
そう、あれは俺が高校生の――
「ま、さか」
「久し振り。元気にしていた?」
にっ、と笑った男は、もういないはずで。俺の人生の最大の汚点で。こいつに出会わなければ、俺の人生はもっと、もっと。
叫び声を上げて俺は反対方向へ走った。走って、走って、その先には――
「あ、そっちは」
ぐしゃり、と何かが潰れた音がした。
* * *
その事故は地元で大騒ぎになった。
私立あづま野宮学院高校の副理事長である男性が、校内の旧校舎近くで死亡していた。男性の秘書がなかなか戻って来ないことを心配し、校内を捜したところ倒れている男性を発見したという。男性は打ち所が悪かったが、しばらくは息が合ったらしい。しかし一人で行動していた上に夏休みの夕方だったため校内に人はあまりいなかったため、発見が遅れたのだそうだ。警察は旧校舎の屋上のフェンスが壊れていたことから、男性がそこから転落したと見ている。
現場の旧校舎では二十三年前に一人の男子生徒が転落死しており、男子生徒の幽霊が出るとの噂もあったことから、インターネット上では様々な憶測を呼んでいる。
ある人曰く、「男子生徒は、副理事長と同級生だった」。
ある人曰く、「男子生徒は副理事長がふざけて突き落としてしまった。それを父親の理事長が隠蔽した」。
ある人曰く、「男子生徒は幽霊となって旧校舎に留まっていた。そして副理事長を突き落として復讐を遂げた」。
ある人曰く――。
* * *
新学期になり千景が旧校舎に向かうと、道中に「立ち入り禁止」の立て看板があった。そして目的地に着いて屋上に目を向けても、いつも顔を覗かせていた彼はいない。
夏休み前の会話を思い出す。
「……あいつ」
噂の何が正しいのか、何が嘘なのか千景にはわからない。ただわかるのは、自分がサボタージュする場所がなくなったこと。そして、数少ない友人と会えなくなったことだけだ。
その後、旧校舎は取り壊されたが、諸々の建設計画は破棄された。その代わり、跡地には慰霊碑が建立された。
そして飛び降りを止める幽霊の怪談は、二度と語られることはなかった。
旧校舎の幽霊は、 緋星 @akeboshi_sora
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます