翠色の花

琴瀬咲和

第一章

一人きり――柴田翠

「お姉ちゃん、私行くから」


 私が朝食のパンを食べていると、妹のあおいが玄関のドアを開ける際、振り向いて言った。葵のスクールバッグについているキーホルダーが、小さく音を立てて揺れる。


「彼氏が待ってるの」


 いつの間に彼氏ができたのか、と驚きながら私は頷き、「いってらっしゃい」と小さく声をかけた。


「じゃあお母さん、いってきまーす」


 葵が階段の方に声をかけると、スーツを着たお母さんが「お母さんも一緒に行く」と笑う。


「えー、彼氏が待ってるんですけど」

「いいじゃない、途中までよ」


 私は二人が仲睦まじく話しながら家を出る姿をぼーっと見てから、再びパンを食べ始めた。



⚘ _ ⚘ _ ⚘



 私は洗い物を終え、着慣れた制服に腕を通した。お弁当をスクールバッグに入れて、ローファーを履く。そして浅緑のジャンパーを着て、家を出た。


 いつも通りの道を俯いて歩く。

 風の音、鳥の鳴き声、ランニングをしている女性の足音……。大通りに出ると、車や自転車の走行音、信号機の音、生徒の話し声……。世界はたくさんの音で溢れている。

 いつも通りの音に耳を澄ませていると、十五分ほどで中学に着いた。


 俯いていた顔を上げて、下駄箱で靴を履き替え階段をのろのろと上る。

 教室には、まだ数人しかきていなかった。


 席に腰を下ろす。


 やりたいことも特になくて、私は窓の外に目をやった。窓際から三番目の、後ろから二番目の席なので、真っ青な空しか見えない。そのことを少し残念に思いながら、私はひっそりとため息をついた。


「見てー、この前家族で動物園に行ったときの写真」

「わっ、うさぎじゃん! かわいー」

「あとね、キリンも……」


 一番前の席の女子が、楽しそうにスマホを覗き込んでいる。


 動物園なんて、最後にいつ行ったのか覚えていない。

 家族で仲良く、遠出をするのが私の密かな夢だった。でも、それすら叶わない。私は楽しそうに話す女子から目をそらした。



⚘ _ ⚘ _ ⚘



 教室に生徒が増えてきた。私はスカートの上に置かれた自分の手を見つめて時間を過ごす。早く授業始まらないかな、と思いながら。


「おはよう!」


 ある女子が明るい声でそう言いながら、教室に入ってきた。

 そして、一緒にきた友達らしき生徒と別れ、私の右の席――つまり隣の席に座る。


「おはよ、柴田しばたさん」


 いつも通り星宮ほしみやさんは、笑顔で私に声をかけてきた。

 私は「おはようございます」と精一杯の声で言って、頭を下げる。


 星宮花織かおりさん。彼女はクラスの中心的存在だ。誰にでも平等に接し、そして誰とでも仲良くなれる。

 そんな彼女が、一週間前の席替えで隣になった日から、私に声をかけてくるようになった。

 理由も訊けないし、まあいいか、と思いながらいつも挨拶を返している。


 それから担任が教室に入ってきて、いつも通りSHRが始まった。

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