うごなめ

おじさん(物書きの)

窓を開けて寝てはいけない

 雨が好き。

 胸の奥がソワソワするような、人工的な音では感じない、頽廃的な気分にしてくれる雨音。部屋の窓を開けて、ソファを背にして床に座ると、家にいるのに迷子になったような気持ちになった。

 甘美な雨音に身を任せ、絨毯に横たわると、だらしない腕が絨毯を越えて床に触れた。ひんやりとした木の床は、窓に近づくにつれて湿気を帯び、それがまた心地好い。這うように窓際に行くと、一段と雨音が強くなり、床からは湿気を含んだ埃の匂いがする。

 腕に頬を乗せ、重いまぶたを閉じると、雨音が静かに、ゆっくりと遠ざかってゆく。

 薄暗い部屋の中、私は一人だった。


「……ちゃん!」

 トタンを打つ雨音の隙間から、夢を掻き分ける声がする。

「お姉ちゃん!」

「……んー?」

「んー? じゃないよ、もう。風邪引くよ、縁側なんかで寝ちゃ」

「そか、寝ちゃってたか。お帰り、ともみ」

 外に目をやると雨は変わらず降り注ぎ、水溜りの中で飛び石が島の様になっていた。手前の飛び石にはカエルが一匹佇んでいる。

「——なにこれ!」

 部屋の明かりを付けるにともみが叫ぶ。

「どうしたの?」

 部屋の明かりに照らされて、鈍く光るものがある。障子の枠や柱が僅かにキラキラと光り、それは床や窓ガラスなどいたるところに見られた。

「お母さん、お母さん!」

 ともみの慌ただしさのおかげで冷静でいられたのだろうか。他人事のように感じられて、再び庭に目をやった。カエルは飛び石から水溜りに姿を隠した後で、雨に揺れる紫陽花がとても遠くに感じ見えた。

 騒ぎを聞きつけてか、老婆が顔を出し、部屋を見回して何事かつぶやいて奥の部屋に戻る。

「あらあら大変。とりあえず拭き取りましょうか……かずはちゃんも手伝って」

「お母さん、ばぁさが塩で拭けって」

「じゃあ塩取ってくるよ」

「ともみちゃんは雑巾もってきてくれる? お母さん踏み台を出してくるわ」

 流し台の横に備え付けられた戸棚の中から塩のケースを取り出すと、雑巾を持ったともみがやってきた。

「お姉ちゃん、ばぁさが呼んでる」

「今行くよ」

 老婆は縁側に座布団を敷き、その上にちょこんと座っていた。

「塩持ってきたよ」

「こっちにおいで」

 老婆の声はしゃがれているものの、雨音の隙間を縫うように、はっきりと耳に届く。

「腕をお出し」

 老婆は塩をつまみ、かずはの腕にこすりつけた。

 かずはの様子を覗い、老婆は深い溜め息を吐く。

「——お前は運がいい」

「どういう事なの?」

「これはうごなめの仕業だ」

「うごなめ?」

 ともみが訊いた。

「妖怪だ。こんな雨の日にはな、妖怪も雨宿りをするんだ。だから雨の日に窓なんか開けて寝ちゃなんねぇんだ」

「寝たらどうなるの?」

「他愛もない悪さをしていく奴もいれば、人にと取り憑くのもいる」

「うごなめは……?」

「取り憑く」

「お姉ちゃん!」

「慌てなくていい、かずはには取り憑いておらん」

「ほんと? 良かったぁ」

「いいか、もう雨の日に窓開けたまま寝ちゃなんねーぞ。物の怪に取り憑かれちまうぞ」

 老婆が凄んだ。

「ばぁさの顔の方がこぇ」

「なにいうかぁ——」


「……ちゃん……お姉ちゃん」

「……ん」

「もう、床なんかで寝ないでよ。風邪ひくよ」

「……んー」

「どうかした?」

「なんか夢見てたんだけど、思い出せない」

「夢なんて思い出しても仕方ないでしょ」

「ま、いっか」

 外を見ると雨は止んでいて、止まっていた時間が動き出したような、日常の喧騒。

 帰宅したともみと母親の会話を聞くでもなく、ソファの背もたれ越しの二人を眺めていた。

 口の中が粘つくような、喉の渇きを感じる。

「ビール飲みたい……」

「え? 何か言った?」

「ビールない?」

「わ、めずらしい。お姉ちゃんがお酒なんて。でも、ビールなんて買わないし、ないよ」

「お父さんも家ではあまり飲まない人だもね。——そう言えば、お歳暮か何かで貰ったのが押入れにあったかも?」

「それ、出して」

「ともみちゃんお願いね」

「もう、めんどうは全部わたしなんだから」

「頼りになるからじゃない」

「勝手なんだからもう」

 ともみはブツブツと言葉を吐きながら、四つん這いになって押入れに頭を入れて荷物を物色した。

「あ、これかな」

 ともみが取り出した箱を受け取ると、包み紙を破り捨て、中のビールを床に並べる。

「ほんとに呑むの?」

「うん、呑む」

 缶のプルタブを立てると小気味よい音と共に少々の泡が溢れ出し、こぼれない様に口をつけた。

「グラスは? ——いらないみたいね」

 一息で空になった缶を捨てて、二本目に口をつけた。喉の渇きに、身体が求めるままにビールを流し込む。

「変なお姉ちゃん」

 ともみは放り置かれた包み紙をゴミ箱に捨てると、キッチンに戻った。

 これほどビールが美味く感じた事はない。全身に染み渡るような心地好いだるさを感じるのも初めてだった。

 フラフラと、身体に違和感を感じながらもソファに移動し、三本目のビールに喉を鳴らす。胸の鼓動がいやにはっきりと感じられ、目を瞑ればそれは子守唄のように、そしてゾワゾワとビールの泡が全身を包み込むような感覚に溜め息を吐き、ぼんやりと意識の暗転を待った。


 様子のおかしな姉の心配をしつつ、母親の家事を手伝い、事あるごとに姉に視線を注ぐ。

「あれ、お姉ちゃんまた寝ちゃったのかな」

「あらあら、へんな子ね。どうかしちゃったのかしら」

「ちょっと何か掛けるもの出してくる」

「頼りになるわあ」

「もう」


 目が覚めると肩まで掛けられたタオルケットの優しい匂いを感じる。タオルケットに触れている部分が熱い様な気がしてモゾモゾしていると、ともみのか細い声がした。

「起きたの?」

「うん」

「お姉ちゃん、今日何かあったの?」

「何かって、何もないよ」

「そう?」

「うん」

「でも、普段全然呑まないお酒とかあんなに呑んだりして」

「ともみは考えすぎだよ。でも、心配してくれてありがと。あとこれも」

 タオルケットを顔に押し当てた。

「ううん。そうだ、夕飯の残り温めようか?」

「んー。太るしいいや。顔でも洗って寝るよ」

「うん、わかった」

 キッチンの明かりを付け、蛇口を操作すると両手に水を溜める。その時、かずはの両手に水圧以外の重さを感じた。

「え」

 酔っているのだろうか、手が一回り大きくなったように見えた。それにいやに重い。かずはは流れ続ける水から手を外し、短い悲鳴を上げて後ろによろめき、尻餅をついた。

「どうかしたの?」

 両手はブヨブヨに膨れ上がり、薄白くやや透明感がある。痛みもなく、流れ続ける水が雨音の様に遠く現実感が薄れて行く。

「お姉ちゃん?」

 力なく腕が下がり、手の甲が膝に触れた。嫌悪感が先走るぬめり。

「その手……火傷したの?!」

 指を動かすと指の間がヌルヌルする。

「お姉ちゃん」

 ともみが触れる手もぬるりと拒んだ。

「火傷じゃない……何があったの? お姉ちゃん!」

 何が起こったのか、自分でも分からない。

 ともみの声が頭の中にキンキンと意味を成さずに響く。手が触れていた膝がキラキラといやな記憶を刺激する。

「雨……とめて……」

「雨? 水……ね、うん」

 ともみは水を止め、子どもの頃の記憶が鮮明に甦り振り返った。かずはは呆然と両手を見詰めいてるだけで、その様子から痛みはないように思える。試してみるしかない。

「お姉ちゃん、痛かったらごめんね」

 ともみはそう言うとかずはの手を握った。

「……熱っ」

 かずははともみの手を振り解き、自分の手を見て顔が引き攣るのを感じた。膨れ上がった手はともみが触れた部分だけ窪み、焼け付くような痛みが走る。

「塩だよ、これ。覚えてる? お姉ちゃん」

 雨が止み、全てが終わるはずだった。だけどこれはなんだ? 夢の続きなのか?

 しかし、焼け付く痛みがそんな逃避を許してくれず、かずははイヤイヤと頭を振った。

「しっかりしてお姉ちゃん。私がなんとかするから。大丈夫、大丈夫だよ……」

 ともみは自分に言い聞かせるように繰り返し、かずはを抱きしめる。

 祖母の忠告の声が蘇り、雨の日に窓を開けたまま寝たことで、うごなめと言う妖怪に取り憑かれてしまったのだとわかった。

 妖怪などという非現実的なものも、変わり果てた自分の手を見るに、夢でない限り現実で、ともみの身体から伝わる匂いも温もりも、その鼓動も全て痛みを帯びていた。

「——雨だ」

 腕の中でかずはがぴくんと反応した。

「お姉ちゃんこっち来て」

 ともみは動作ののろいかずはを立ち上がらせて窓際に連れて行く。

 カーテンを開け、窓も開けてしまうと湿気を含んだ夜気が頬を撫で、部屋の空気を変えてしまう。

「ここにいて」


 言われたまま窓際に居ると夜気の寒さの為か、背中がゾクゾクした。

 外を見ると外灯が小雨を映している。

 気配に振り向くと、袋入りの塩を持ったともみが立っていた。

「何、するの? ともみ」

 未開封の袋を開けながら、ともみが近づく。

 無言だ。

 かずはは後退り、塩を振りかけられる事を想像して声を上げて泣きたくなった。少量の塩で膨れた手が窪み、針で刺したような痛みがしたのだから、大量の塩でどうなってしまうのか、考えたくもない事だ。

「ともみ……」

 自分でも驚くほど涙声だった。足から力が抜け、その場にへたり込んでしまう。

「お姉ちゃん……」

 見上げると袋の中に手を入れたともみが立ちつくしている。今にも塩を振りかけられてしまうのではないかと顔を伏せ、かずはは硬く目を瞑った。

 しかし、かずはの身体に塩が降りかかる事はなく、恐る恐る目を開けると、身体を囲むように塩が撒かれていた。湧き上がる不安感に息苦しく、逃げ場のない叫びが喉に絡み付き、堪らず咳き込んだ。

 空腹だった胃に膨張感があり、胸のむかつきもあるが咳はどうにか治まり、荒い呼吸をしてかずはは生臭い匂いに動揺する。それが自分の口臭だったからで、口を閉じると舌先に何かがあたり、歯茎をなぞると弾力のあるものを探り当てた。それは舌先に絡みつくように動き、かずはは気持ち悪くなってそれを床に吐き出す。

 床の上に唾液と共に吐き出されたものは、ぷっくりとしたなめくじだった。

 唾液の中でなめくじは身体を伸ばすように動き、床に撒かれた塩を避けるように身体を曲げてゆっくりと移動する。

 長い時間、何もかも忘れてなめくじだけを見詰めていた。その濁った色、伸び縮みする身体……あんなものが口の中に入っていたのかと思うと背筋が凍る。そもそも何故なめくじが口の中に……。うごなめは取り憑くと聞かされたが、吐き出したなめくじがその正体なのだとしたら、これでもう全て終わったのだろうか。しかし、まだ両手は醜く膨れ上がったままだ。

 ふと気づくとなめくじが居ない。だが、探すまでもなく、なめくじは膝の上に現われた。

 皮膚の上をゆっくりと移動するなめくじの感触に嘔吐感が込み上がり、口を塞ぐが膨張した手が顔に触れ、そのヌメヌメした感触が限界だった。

 かずはが吐き出した吐瀉物には数十匹のなめくじが混じり、それらは身体をくねらし、ミチミチと嫌な音を立てる。

 胃の圧迫感を思うと、未だ複数のなめくじが体内に居て、身体の中で蠢いているのだろう。かずはは再び嘔吐した。

 喉の奥に残る異物感、舌の裏や歯茎に張り付くなめくじに感じる嫌悪感は果てしなく、それらを拭い去るように吐き続ける。床に吐き出されたなめくじは塩を避け、再び体内に戻ろうとするようにかずはの身体を這いずり上がり、汗ばんだ肌をジリジリと移動する。


 なめくじを吐き続ける姉を見守る事しか出来ず、ともみは震える身体に爪を立てた。

 ともみによって撒かれた塩の円の中、蠢くなめくじの数は増し、塩の丘に触れた数匹が身体を縮ませながらのた打ち回る。その恐怖が伝わったのか、なめくじたちの動きが早くなり、一つの意思を持って動き出した。

 数百と言うなめくじが姉の身体に群がり、服が波打つ度に溜め息に似た声が漏れる。

「お姉ちゃんの中に戻ろうとしてる……? そうだ」

 なめくじたちを追い出す方法を思い付いたともみはキッチンに行き、冷蔵庫を開ける。目当ての物は直ぐに見つかった。先ほど自分で入れたのだから当然だろう。ともみはビールを手にして姉の元に急いだ。

 姉の前に立つと湿気を帯びた夜気に生臭い臭気が混じる。吐き気を我慢しながらプルタブを開け、窓の外に投げ捨てた。ビールの缶はベランダの柵に当たり、泡を噴き出してこぼれ出る。小麦色の液体は雨に薄まり、泡は流れた。


 ともみが缶のプルタブを開けた時、なめくじたちの動きは様子を窺うように止まっていた。そして缶を投げ捨てられた時には身体がもって行かれるほど、一斉に動き出した。実際、かずははなめくじたちの力強い動きで後ろに倒れ、背中にジャリジャリと塩の山が崩れる感触があった。

 数え切れないほどのなめくじが身体の上を移動し、首筋から顔の上を舐めるように這いずり行く感触に、かずはは意識を失った。


 気が付くと雨は止んでいて、月明かりに手をかざすと、見慣れた手のシルエットがそこにあり、身体を起こすとともみが抱き着いて来た。床に散らばった塩に触れ、かずはは安堵の溜め息を吐き出す。後ろ手に窓を閉めると、泣き続けるともみの身体を強く抱きしめた。

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うごなめ おじさん(物書きの) @odisan_k_k

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