2. ガマ
多種多様な蝉の大合唱が、集中と気力を削いでゆく。ラジオの砂嵐の方が随分耳に優しい。
それでもなお、ハンジはセンダングサの黒い種子が、靴やズボンに付着するのも意に介さず無心に歩を進めた。むわっと上り立つ土の匂いと熱気は不快だが、木陰である分、日差しは和らいでいる。と、自分に言い聞かせながら、姿勢正しく目の前を進むハドソン軍曹の背を見た。彼を真似るように、顎を引いて周囲の様子に目を配る。
鬱蒼と茂るガジュマルの髭根、真珠のようなゲットウの花の連なりと薫香。これらの物珍しさに興味をそそられなくなって久しい。特に、ゲットウは島民からは薬草として広く親しまれているもののようで、この植物を採集しようと島民が息を潜めている可能性が高くなる。ハンジは蝉の騒音に紛れて、歯の隙間から細く嘆息した。今し方見かけたゲットウの大きな葉が、根元からいくつか手折られているのに気付いてしまったのだ。
「見えた。〈ガマ〉だ」
ハドソン軍曹の疲労の滲んだ掠れ声が知らせた。彼の背後から前方を確認する。
この島の各所にある鍾乳洞のことを、島民たちはガマと呼ぶ。古来より現世と常世の境界とされているこの自然洞窟は、沖縄戦開始後に防空壕や野戦病院として島民や日本兵を匿ってきた。こちらから十ヤードの距離にある半開きの口のようなそれも、おそらくはそうだったのだ。
「ひでえな」
誰かが呟き、ハンジは唾を飲み込んだ。
岩肌には、季節外れのヒスイカズラが真っ青に枝垂れている。数羽のオオゴマダラが、燐火を思わせるその花の周りを浮遊する。そのうち一羽が、ガマの手前に落ちている人影のひとつに留まった。軟風がさあっと一帯の緑をざわめかせると、蝶が遺骸から飛び立った。鼻腔を嗅ぎなれた臭気が侵す。
洞窟が吐き出した吐瀉のように、草臥れ動かない人体が散乱していた。ガマの手前は木々が伐採され開けて、指や手足が、耳が、腸が、骨が放られていた。昨晩の雨で血や泥が洗い流され、木漏れ日にてらてら光っている。
「生存者の確認をする」
ハドソン軍曹の感情を殺した号令に、ハンジは一歩前に出た。
この様子では、ガマは防空壕ではなく墓穴と成り果てているにちがいない。ある者は国の誇りをかけて、ある者は米英軍を恐れるあまり、身を寄せ合って死を選ぶ。任務について以降幾度も目にした、この国の人々の強迫的ともいえる行動傾向である。
ハドソン軍曹、ジョージ、ライアンと共に、ハンジは一歩ガマに近づいて拡声器を口に寄せた。
「出てきてください。僕たちはあなたたちを殺したりしません」
平易な日本語で穏やかに告げる。割れた音声が僅かに反響して、蝉時雨の中に霧散した。
「出てきてください。僕の祖父は、あなたたちと同じ日本人です。大丈夫だから、早く出てきてください」
暗がりからは誰の声もない。ハドソン軍曹がもう数歩ガマに近寄った。通常であれば、洞窟からの攻撃を警戒して一定の距離を保ち呼びかけるが、彼はいつも「蝉の声で聞こえていないのかもしれない」と少し危険な距離まで近づくのだ。それを無謀だという者もいるが、ハンジは彼のそのような清廉さを尊敬している。
が、次の瞬間にハドソン軍曹がガマの至近距離まで駆けていくのには、さすがにぎょっとした。
「隊長!」
ジョージが慌てた声を上げる。ハンジはハドソン軍曹の元へと駆け寄った。軍靴が撒き散らした泥が、散乱する肉片に付着する。
「分たい————」
骸の傍にしゃがみこむハドソン軍曹を見下ろしたまま、言葉を失った。
その骸は幼子のものであった。ガマの縁に、深淵を覗くように伏せている。ハドソン軍曹が、彼女の首根っこをそっと引き上げた。上顎から上は吹き飛んでいた。下顎には、行儀よく整列した乳歯に混じって、蛆虫たちが忙しなく蠢いている。洞窟の濁った闇から、死の生臭さが漂った。
「————殺しません、だから出てきてください」
一刻も早くこの惨状から立ち去るため、死人へと拡声器を向けたつもりだった。しかし、
「……声だ、子供だ」
俯いていたハドソン軍曹が、ぱっと顔を上げた。背後に控える他の隊員も、目を丸くして驚いていた。
微かに耳に届いたのは、子供というよりは、赤子の楽しそうな喃語であった。ハンジがもう一度呼びかけてみると、今度はきゃあっと叫んで、それから笑った。そして、かさりと、草履の足音が少しずつこちらに近寄ってくるのが分かった。ハンジたちは反射的にガマへと銃を向けながら、後退りをして距離を取った。
岩の崩れる音、洞窟の外へと這い上がる音がした。ヒスイカズラの青い花を潜って、丸い頭がゆらりと現れた。
出てきたのは、たった二人だ。彼らの頭髪で虱が何匹かふわふわ這いずり回っていた。
一人は先ほどの声の主であろう乳児。もう一人は、若い娘であった。
肩の高さで切られた黒髪は、毛先が不揃いでひどく不格好だ。よく見かける
「おい、エトー上等兵」
ハドソン軍曹の静かな声で、我に返り自分のやるべきことを思い出す。ゆっくり近づくと、娘はその場に跪いた。
「洞窟内で、生きているのは君たちだけかい」
近くで見る娘は、まだ幼気な少女に見えた。細く浅黒い腕に抱かれた赤子が、彼女の注意を惹こうと黄ばんだ襟を引っ張る。
返事がないのでハンジは困惑した。ひょっとすると、時々に見かける、この島独自の言語しか話せない者かもしれないと思った。だが言葉が通じていなくとも、無抵抗な彼女と赤子だけであれば、収容所まで連れて行くのは容易いと思われた。
ハドソン軍曹もそう考えたのか、ジョージとライアンに目配せをして、彼女を立たせようとした。
その矢先、少女の視線がハンジのの銃口へと向かった。うっかり赤子の方を向いてしまっていたと気づき、ハンジは慌ててこれを逸らそうとした。
「大丈夫、撃ったりは……」
言いかけると、少女は片手を伸ばした。土の詰まった爪が銃身に触れた。細い指が、すいと銃口の向かう先を変える。
少女は、自分の丸い額に無骨な鉄の筒を当てた。
その場の誰もが息を呑んで、動くことを忘れた。脂で固まった前髪の奥から、黒真珠の瞳がハンジを見上げている。その目が緑の木漏れ日と自分の影とを映す様を、ただただ見つめ返すことしかできなかった。
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