忘れられた島
ニル
Forgotten island
1, 任務
昨夜の雷雨を忘れ去って、上空は突き抜ける快晴だ。真上の太陽は、蒸れた地面をかんかんと照らしている。茹だる暑さへの苛立ちを嘆息に混ぜて吐き出すと、体感温度はかえって増してしまった。
ハンジ=エトー上等兵は、泥濘む道を進むトラックの荷台で揺られ、目に染みた汗を肩袖で拭った。故郷であるハワイの日差しもなかなかに強烈だが、沖縄はそれに加えて空気が熱く湿っている。時折駆け抜ける海からの風がなければ、水蒸気の只中のようなこの息苦しさに耐えられなかっただろう。
同乗する分隊員たちもまた、ヘルメットを脱いで汗の滴る前髪を後ろに撫でつけたり、眩しさと酷暑に顔を険しくして、黙って進行方向を睨んだりしていた。ハンジはまた顔に出現した滴を拭い、戦闘の爪痕色濃い荒寥の光景に目を遣った。
米軍の艦砲射撃の弾雨にさらされた沖縄本島南部の土地は、村落の名残を少しばかり残してすっかり均されている。トラック三台に分かれて乗車する同胞たちは、初めの数分こそ周辺警戒に精を出していた。が、今は誰しもが凶暴な太陽光線に目を焼かれまいと伏し目がちだ。ハンジもまた、日射が眩しいあまり目玉の奥が鈍く痛み、トラックの影に視線を落としてばかりいた。
それとなくタイヤが転がる様を眺めていると、地面に突き刺さっていた誰かの腕が、トラックに轢かれてぴょんと跳ねた。腕はこちらに手を振り回転し、轍に溜まった泥水へと着地した。ハンジは一瞬息を飲んで、それから再び視線を上げた。足元の悲劇を見つけるよりも、家屋の残骸か死後硬直した遺骸か輪郭の不明瞭な、遠くの焼け跡を眺めている方が幾分ましだ。
「北部に進軍した奴の話だと、沖縄には、まるで楽園のような海岸が至る所にあるんだと」
ジョージ=クーパー一等兵が、ヘルメットで顔を扇ぎながらそんな話題を持ち出した。ハンジ含めた荷台に同乗する二、三名の隊員全員、相槌を打たなかったが、皆ジョージに目を向け話の続きを待った。
「雪原みたいな砂浜と、空が落っこちてきたような青さの海は、うっかり戦死して天国に来たんだと錯覚するほどの美しさらしい」
敢えてのことであろうが、ジョージの語調には、うだる暑さに似合わない気楽さがあった。
「あーあ、洞窟や密林ばかりじゃ気が滅入るぜ」
「その美しい砂浜、実は微生物や珊瑚の死骸の山だと聞いたが」
ジョージがふざけた調子で目を回すと、彼の隣に座るライアン=K=カーター一等兵がぼそりと呟いた。たちまち、ジョージはライアンに両の掌を見せて肩をすくめた。
「水を差すこと言うなよ」
「いいじゃないか。それはそれとして、ビーチを楽しむことはできるだろ」
「楽しめるか。ライアンの話が本当なら、この島は山も平地も海岸も、どこに行ったって屍だらけだ。ははっ」
「…………」
「ははは……」
皆が方々に視線を逸らす。ジョージは自分の冗談が拙いものであると気づいたのか、声がしりすぼみになっていった。
この地を死者の島たらしめたのは、紛れもない自分たちであった。誰も何も言わなかったが、きっと胸中にはハンジと同じ心苦しさがあるのだろう。
「ごめん、度が過ぎた」
「それが戦争なんだ、どうしようもないさ」
ジョージが素直に謝ると、ライアンが穏やかに宥めた。まるで自分に言い聞かせるようであった。ハンジがその様子を眺めていると、ライアンがこちらに榛色の視線を向けた。
「そうは言っても、ハンジには謝るべきだな」
すると、ジョージもまたはっとした表情でハンジを見た。
「そうか、ハンジの爺さんは日本人だったな」
その言葉にハンジはどきりとした。それと同時に、トラックが小石か何かを踏んづけて大きく揺れたものだから、肩に立てかけていた
「変な冗談言ってごめんな」
気まずそうにしているジョージ、そして他の分隊員たちには、ハンジの動揺は気づかれていない。ハンジは苦笑を浮かべて取り繕い、「気にしてないさ」と返した。
「この島は祖父の出身地ではないし、そもそも僕は3世だからね。祖国はアメリカ、故郷はハワイだ」
「なら良かったが」
なお気遣わしげにしているジョージに対して、ハンジは有り難いと思うと同時に一抹の申し訳なさを感じた。
ハンジは、ハワイ島出身の日系3世の長男だ。父方祖父の影響で日本語に堪能であることを活かし、日本語教師を目指していた時期に真珠湾攻撃があった。そこからの、ハンジやその家族の肩身狭い思いについては語るまでもない。その後ハンジが国軍に入隊し、第十軍を希望したのは、生まれに対する劣等感を払拭し、育ちに対するプライドを示したかったからだ。
もっとも、ハンジはそうした心情について誰に話したことはない。沖縄行きがとんとん拍子に決まったのは、日本語が話せるというのが主な理由だ。
「お前たち、気が緩みすぎだ。この島はまだ戦時だと思え」
助手席から分隊長が身を乗り出し咎める声で、ハンジははっと我に返った。ジョージが口を閉じたかと思えば、二、三秒のうちに再び話し出した。
「つっても、民間人も敗残兵も、こんな真っ昼間から出て来やしないだろうに」
「ジョージ、また隊長にどやされるぞ」
ジョージとライアンのやりとりを耳にしながら、ハンジは再び流れる景色へと気を逸らした。チェックポイントが近いのか、トラックは徐々に速度を落としていった。車両は南国植物の薄っぺらくて巨大な葉っぱが手招きする、山林の裾野をのろまに走る。木々の合間を注視してみるが、人影は見当たらない。
約一か月近く前、日本軍の司令官が自決したことでこの島の組織的な戦闘は終結した。死地に放り出された島民や兵士は、物理的にも精神的にも逃げ惑い続ける力は日毎失われていた。日々の任務の中でそれが目に見えて感じ取れる。
そうであっても、彼らの中には今もまだ、投降を恥として国家のために散華することを誇りと捉える者も少なくない。行く先々で遭遇する彼らは、生きているのが不思議なほどに満身創痍であるにもかかわらず、敵意の眼差しだけはぎらつき、こちらがつい怯むほどである。
「到着だ」
分隊長のフィリップ=ハドソン軍曹の低い声が、米兵たちの背筋をぴんと正す。ハンジは自動小銃を胸の前で抱えると、ライアンと共に配置についた。
無事な島民を見つけることができますように、と、ハンジは心の中だけで祈った。それと同時に、これまで向けられてきた恨みや敵意が脳裏に蘇り、誰も見つけることができないならそれでもよい、とも思った。ぬるい疾風に煽られた木々が、おいでおいでとこちらを誘う。緊張に肩を尖らせ、深碧の樹海へと踏み入った。
本土から約四百十マイル離れたこの島で、母国から切り捨てられてなお、国民の使命に縋る島民たちを保護・管理すること。それが現在の任務であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます