ポンコツ女教師と優等生の恋愛物語

終電宇宙

第1話

 誰にでも人の好き嫌いがあるように、先生にもやっぱり生徒の好き嫌いがあったりする。もちろん、それで一部の生徒にえこひいきするのは良くないことだと思う。けれど、自分の好きな生徒を見かけたらやっぱり話しかけたくなるし、好きな生徒に話しかけられたら嬉しいって思ってしまう。それはもうどうしようもないことだと私は思うのだ。


「相沢先生―」

名前を呼ばれて振り向くと、数十枚のプリントを抱えている男子生徒がいた。私が担当するクラスで学級委員をしている中原裕也君だ。

「今日提出だった古文のプリントを集めてきました」

と彼は言った。

「ああ、ありがとうね」

と言って私はそのプリントを受け取った。

「あれ、先生髪切りましたか?」

彼は私の髪を見てそう聞いてきた。

「うん。昨日少しだけ。よく気付いたね」

「なんかわかっちゃいました」

と言って彼が笑う。それにつられて私も顔が緩んだ。

「それじゃあ俺、これで帰ります」

と言い、私に背を向けて彼は走り出した。少し離れたところで足を止め、彼はまた私の方を向いた。そして手を振りながら大きな声で

「先生、お疲れ様です」

と言った。

「お、おつかれさま」

と私も少し大きい声で言った。すると彼は笑顔を見せて去っていった。遠くなっていく彼の背中をぼーっと眺めつづける。はっと我に帰り、私はまた職員室へ歩きはじめた。


 中原君は、私のお気に入りの生徒だ。話していて癒されるし、私みたいな先生にも敬意を払ってくれるし、言うこともちゃんと聞いてくれる。最近私は彼の笑顔を見ると胸がどきどきしてしまう。


「ちょっと相沢先生、今何時だと思っているんですか?」

忘れ物をして朝のホームルームぎりぎりの時間に学校に着いた私は教頭先生に怒られていた。

「こんな遅刻ギリギリの時間に来てたら生徒に示しがつかないと何回言ったらわかるんですか?あなたの行動が生徒に大きな影響を与えているという自覚をもっとちゃんと持ってください」

職員室にはまだたくさんの先生がいて、怒られている私を見ていた。たった今職員室に入ってきた生徒が私を見てすぐに目をそらした。私は恥ずかしくて下を向いた。出席簿だけ持って、すいませんと謝って、逃げるように職員室を出た。


 はあ、と私はため息をつく。馬鹿だなあ、あたし。なんで忘れ物しちゃうかなあ。と後悔しながら廊下を歩いた。今年で三十一になるというのに、私はこんなミスをよくやらかしてしまう。他の先生はもっと上手くやれているのにどうして私は…と後ろ向きなことを考えながら自分の担当するクラスの教室に入った。教室の中では楽しそうに生徒たちが雑談をしていた。二学期の期末テストも終わって、どこか教室は浮ついていた。

「はい、ホームルーム始めるよ。みんな席についてー」

と声を張って言った。だるそうにみんなが席に座っていく。私はいつも通り淡々と出席確認を行った。


「クリスマス、彼氏とどこか行くんでしょ?」

ホームルームが終わると、女子たちのそんな会話が聞こえてきて、そういえばもうすぐクリスマスだということに気付いた。あの子たちはクリスマスに予定があるんだ、と別世界の住人を眺めるように彼女たちを見ていると、

「相沢先生?何しているんですか」

と中原君に話しかけられた。私は彼の顔をじっと見た。中原君はモテそうだし、クリスマスは女の子と過ごすのかもな、と思った。

「別に、何もしてないよ」

と私は言った。彼のクリスマスの予定は気になったが先生の私が聞いていいものではないような気がして、聞くのをやめた。

「中原君こそ、どうしたの?何か聞きたいことでもあるの?」

「先生これから職員室に戻りますよね。俺も用事があるんです」

そう言うと彼は私の左隣に来た。

「そう。じゃあ一緒に行きましょうか」

と言って、私は彼と一緒に教室を出た。歩いていると、

「先生、今朝教頭先生に怒られてませんでしたか?」

と彼は聞いてきた。私はギクッとした。中原君にも見られてたのか。

「あはは…。情けないところ見られちゃったね」

と私が苦笑いしていると、彼は不機嫌そうに

「俺、教頭先生のこと、なんか好きじゃないんですよね」

と言った。私はきょとんとした。

「なんで好きじゃないの?」

と聞くと

「なんとなくです」

と彼は言った。私はそれがおかしくて、ふふ、と笑ってしまった。もしかしたら彼なりに励ましてくれているのかもしれない。実際その励ましは私にはとても効果的な励ましだった。私は少しご機嫌になりながら

「職員室には何の用事があるの?」

と彼に聞いた。

「数学でどうしてもわかんない問題があったから、先生に聞こうと思いまして」

と彼は言った。

「そっか。中原君はすごいよね。いつも勉強頑張ってて。テストいつも高得点だよね」

と私が彼を褒めると

「いえ、全然そんなことないんですよ」

と彼は表情を曇らせて言った。彼は一つ前の中間テストで学年二位を取るほど成績が良かった。褒めたら絶対喜んでくれると思ったのに、何か私は間違えてしまったみたいだ。何がいけなかったんだろう、と考える暇もなく、私たちは職員室にたどり着いてしまった。私と彼はそこで別れた。


 夜遅くまで職員室に残って期末テストの答案用紙の採点をしていると、校長室から声が聞こえてきた。話しているのはどうやら教頭先生と校長先生のようだった。もう職員室には誰もいないと思っているようで、結構声が大きい。

「聞いてくださいよ、校長先生。相沢先生が今日も遅刻ギリギリで職員室に入ってきたんです。今年はもうこれで五回目ですよ?何年たっても改善されないし、もう職務怠慢ってことにできないんですか?」

「うーん。まあでも本人も意図してやってるわけではなさそうですしねえ。しょうがないんじゃないですか?」

教頭先生のため息が聞こえる。

「あの子が職場にいるの結構辛いんですよ。愛嬌がないし、扱いに困るんですよね。仕事も全然できないですし。早く異動にならないですかねー」

と言いながら教頭先生が校長室のドアを開けて、職員室に入ってきた。私と教頭先生の目が合う。私はとっさに残りの答案用紙をカバンに入れて職員室を出ていった。心臓をバクバクさせながら暗い廊下を歩いた。思っていた以上に私は、教頭先生に嫌われていたみたいだ。知らなかった。私はその日、ろくに頭を働かせることもできずにそのまま家に帰り、やる予定だった答案用紙の採点もせずに眠ってしまった。


 朝、目が覚めて一番最初に教頭先生の顔が頭に浮かんだ。はあとため息をついた。重い足取りで家を出て、いつも通り電車に乗る。つり革につかまりながら私はぼーっと昨日言われた陰口を思い出した。お腹が痛くなりそうだったが、教頭先生の言っていたことは真っ当だとも思った。私は昔から愛嬌がないし、コミュ障だったし、何度叱られてもミスが失くならないのだ。教頭先生との関係を改善するためにも、私は変わらなきゃいけない。私は重い頭をぶら下げながらそう思った。


 学校に着くと昇降口で中原君が二人の女の子と楽しそうに会話をしていた。その二人の女の子の表情を見る限り、彼女たちが中原君に好意を持っていることは察しがついた。もうすぐクリスマスなんだよな、と私は思った。中原君はこれからあの女の子二人に告白されるのかもしれない。そしてどちらかと付き合うのかもしれない。そう思うと不思議と気分が沈んだ。邪魔しちゃいけないなと思い私はその場から離れようとした。すると中原君は私に気付いて大きく手を振ってきた。

「相沢先生―。おはようございます」

屈託のない笑顔を向ける彼の後ろで、二人の女子が明らかに私のことを睨んでいた。私は遠慮がちに小さく手を振って

「おはよう」

と言った。彼は私の顔を見て目を丸くした。そして、そばにいた女子二人と別れて、私の方へ走ってきた。後ろの二人が不機嫌そうにその場を去っていく。

「先生、これから職員室ですか?」

彼はけろっとした表情で私にそう言った。

「う、うん。そうだけど。あの女の子たちはいいの?会話してたんじゃないの?」

「え?ああ。あれは美術部の後輩です。会話してたっていうか、急に話しかけられたんです。別に俺に用があるって感じでもなかったし大丈夫だと思います」

「あのね、多分だけどそれはあなたのことが好きで声をかけたんだと思うよ」

「好き?なんでそう思ったのかよくわかんないですけど、それはないですよ」

「いや、絶対そうだ。」

「まあ、なんでもいいです。そんなことよりですね、先生」

と言って彼が私の顔をまっすぐ見つめてくる。一秒、二秒、と真剣な眼差しを向けられて私はなんだか恥ずかしくなって顔をそむけた。顔が熱い気がする。

「ど、どうしたの?」

と私が聞くと

「先生、何か嫌なことでもありましたか?」

と彼が言った。私は驚いて彼の方に顔を向けた。

「どうしてそう思ったの?」

「なんか元気なさそうだったから」

「もしかして顔に出てる?」

私はそう言って両手で自分の顔を触った。

「そう言うってことはやっぱり嫌なことがあったんですね」

彼の指摘を受けて私はギクッとする。

「う、うん」

と私は下を向いて白状した。中原君に心配してもらえるのは嬉しいが、あんまり深入りしてほしくもなかった。これ以上質問されたらなんて答えよう、と私は思った。けれど彼は、それ以上質問はしてこなかった。彼は優しい口調で、

「何があったのかわからないけど、相沢先生はきっと大丈夫です。先生は優しいから」

と言った。その言葉は弱っていた私の心にひどく染みた。


 職員室に入って自分の席に座って朝のホームルームや今日の授業の準備をする。教頭先生が私の席の後ろを横切った。私は勇気を出しておはようございます、と言ってみた。教頭先生から挨拶の返事はなかった。少し傷ついたが、私のやったことは間違いじゃないはずだと思った。そう思えるのは多分、中原君が私を励ましてくれたおかげだ。


 四時間目の授業が終わった。期末テストの答案用紙を返されて教室は少しだけ騒がしかった。思ったより良かったー、と言っている生徒もいれば、マジでサイアク―どーしよー、と嘆いている生徒もいる。ふと昨日、中原君が成績の話で顔を曇らせていたのを思い出した。中原君はテスト何点だったのかな。そんなことを考えながら教室を出て廊下を歩いていると、今朝昇降口で見た二人組の女子の片方の子に

「先生、ちょっといいですか?」

と話しかけられた。


その子に連れられて体育館裏まで来ると、彼女は言った。

「裕也先輩のことで話がしたかったんです」

「うん。きっとそうなんじゃないかと思った」

と私は言った。

「知ってますか?先生。裕也先輩ってものすごく頭がいいんです」

「うん」

「裕也先輩、T大学の推薦入試を目指しているって言ってました。母親にもすごく期待されているらしいんです」

そう言って彼女は私に近づいてくる。背伸びをして私の耳元で

「あんまり、点数稼ぎに浮かれない方がいいですよ」

と囁いた。私を見て意地の悪い笑みを浮かべている。

「言いたかったのはそれだけです。お疲れ様です。先生」

そう言って彼女は校舎に戻っていった。私も職員室に戻って自席でお昼ご飯を食べた。点数稼ぎ、という言葉を頭で反芻した。もしそうなんだとしたら、私は完全に中原君の術中にはまっている。けど、それでもいいんじゃないか、と私は思った。もしそうでも、彼がくれた言葉で本当に私は救われているんだから。


 昨日、やり残していた期末テストの答案の採点を終えて家に帰ろうとしていた。職員室を出たところで自分のクラスの教室に教科書を忘れてきてしまったことに気が付いた。それを取りに私は教室へ向かった。誰もいない教室に入り、教科書をもって引き返そうとした時、微かに物音がバルコニーの方から聞こえてきた。私はバルコニーの方に向かい、扉を開けた。そこには、一人でうずくまって月を見ている中原君がいた。私も驚いたが、中原君も私が現れたことに驚いているようだった。

「何をやっているの?こんな時間に」

と私は聞いた。中原君は俯いて何も答えてはくれなかった。彼の手に数学の答案用紙が握られていた。赤いペンで大きく95、と書かれている。私はその答案用紙に触れた。

「すごいね。頑張ったんだね」

と私が言うと、彼はひどく悲しい顔をして、その答案用紙を二つに引き裂いた。

「ど、どうしてそんなことをするの?」

私は慌ててそう聞いた。すると彼は

「百点じゃなかったから」

と言った。

「百点を取らなきゃいけなかったんです。でも今回も上手くやれなかった」

だめだなあ、もっと頑張んないとなあ、と独り言のようにつぶやいて彼はまた月を見上げた。なんでだろう。優秀な中原君と落ちこぼれの私は全然境遇が違うはずなのに、私は彼に自分と似た何かを感じていた。彼を、少しでも元気にしてあげたかった。

「どうして百点じゃないといけないの?」

と私は勇気を出して彼に聞いた。すると彼は覇気のない目で私を見て言った。

「学校で一度習ったことなのにどうして百点が取れないのってよく母が言うんです」

彼は自分の膝をぎゅっと抱きしめる。

「別にそんな大きな野望があるわけじゃないんです。ただ愛されてみたいだけで。けど、俺は完璧じゃないと愛してもらえないんです」

そういう風にできているんですと言って彼は俯いた。

「そんなことない」

と私は言った。

「あなたの母親には敵わないかもしれないけど、ほら、今朝話していた女の子たち、あの子たちは中原君のことが好きだよ、絶対に」

「あはは、まだ言っているんですか。それはないですって。でもありがとうございます。励ましてくれて」

「……」

本当にそうなんだと言い返したかったがいくら言っても信じてもらえそうになくて、私は口を噤んだ。それに、人のことばかり話している私は卑怯だ。私は深く息を吸って覚悟を決めた。

「私は、中原君のこと好き、だよ」

一回りも年上の人間に好意を向けられるってどんな気持ちなんだろう。怖いだろうか。気持ち悪いだろうか。もしかしたら、今後私を避けるようになるかもしれない。それでも彼が、自分のことを嫌いでいつづけるよりはマシなんじゃないかと私は思った。そう信じて私は言葉を続ける。

「中原君の笑顔が好き。優しいところも好き。今日励ましてくれたのも、すごく嬉しかった。きっと私はもう、中原君がどんなひどい人だったとしても好きだと思う」

中原君は唖然とした顔で私を見つめたあと、

「先生、別にそんな無理しなくても大丈夫ですよ」

と言った。本当に私の言うことが信じられなくてそう言っているのか、暗に拒絶されているのか、私にはよくわからなかった。ただ、私が彼にやってあげられることはこれですべてだと思った。どうやら私では彼を元気づけることはできないようだ。私は何も言わずに立ち上がって、そのままその場を去った。


 朝、目が覚めて一番最初に中原君の顔が頭に浮かんだ。はあ、とため息をついた。最近悩み事ばかりだな、と私は思った。いつも通り学校へ行き、職員室に入る。教頭先生が私の前を通ったので私は今日も

「おはようございます」

と挨拶をした。教頭先生は私をぎろっと睨んだ。

「相沢先生、あなたの机もうちょっと綺麗にならないんですか?」

「え?」

私は自分の机を見た。確かに私の机は汚い。

「す、すいません。すぐ整理します」

と私は言った。

「あなた、そんなんだから仕事の効率が悪くなるんですよ」

教頭先生の説教は私が謝っても終わらなかった。

「期末テストの答案をまだ全部返し切ってないの、あと相沢先生だけですよ。授業の進みも遅いですし」

「す、すいません」

私は下を向いて謝る。ふと、相沢先生はきっと大丈夫だよ、と中原君が言ってくれた時のことを思い出した。もう、今日からあんな風に中原君と会話することもなくなってしまうのかもしれない。

「ちょっと、聞いてるんですか?相沢先生」

と教頭先生が語気を荒げた。

「は、はい。すいません」

「あなたね、このままだと本当に…」

教頭先生の言葉を聞いていて、ああやばいかもしれない、と私は思った。これ以上言われたら私は泣いてしまう気がする。それだけは何とか耐えなくてはいけないと思い、両手で拳を作りながらぎゅっと唇をかみしめた。するとそのとき、

「失礼します」

と言って誰か生徒が職員室に入ってきた。それは中原君だった。

「教頭先生、すいません。相沢先生にどうしても勉強のことで聞きたいことがあるんですが、いいでしょうか?」

と彼は教頭先生に言った。

「そうですか。どうぞ。いいですよ」

と言って教頭先生は私のもとから去っていった。中原君は古文の教科書を開いて、

「先生、ここなんですけど教えてもらっていいですか」

と言った。平然とした態度だった。彼は昨日のことをあまり気にしていないのだろうか。

「う、うん。そこはね「べし」が活用されてて…」

いろいろ疑問に思いつつも、私は説明を始めた。ひとしきり説明が終わると、彼は急に

「先生、昨日はありがとうございました」

と言った。

「テストの結果を親に伝えたらがっかりされたけど、先生のおかげで何を言われても傷つかずにいられました」

私はその言葉を聞いて胸から何かこみあげてくるのを感じた。

「先生。俺、やっぱり頑張ろうと思います。どんなに頑張っても完璧な人にはなれないかもしれないけど、それでも頑張ろうと思います。だから…」

と言って彼は私の手に触れて、上目遣いに私を見た。

「これからも先生と一緒にいてもいいですか?俺、先生と一緒ならずっと頑張れる気がするんです」

私は彼のその手を優しく握り返して、

「うん」

と言った。きっと私は今、満面の笑みを浮かべている。

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