第16話【番外編】最終兵器忠勝⑥
「すまぬ。殿を危険な目に合わせて。嫌な想いをさせて、本当にすまない」
じっとこちらを見つめている漆黒の瞳が、何かを堪える様に辛そうに歪められる。
泣く、のか。
そんな筈はないのに、何故か目の前の忠勝を見ているとそう思えてきて、家康は慌てて首を横に振った。
「ば、馬鹿者! あんなこと何でもないぞ。人質になったからといって、撃たれたりもしなかったしな。それに、銀行強盗に遭遇したのはただの偶然で、お主のせいではない」
「俺は、すぐ近くにいたのに。あんな汚い手に、ベタベタと殿の体を触らせて。それに、あんな奴の汚らわしい舌で、殿のっ、頬にっっ」
かたかたと家康の手首を掴む忠勝の手が、小刻みに震えている。
怒りか、恐怖か、屈辱か。
見上げた先にある黒い瞳の奥が、ぐっと色を変える。
雲一つない夜空を思わせる澄んだ黒い瞳の色は、急速に温度を下げ凍て付く様な深海の底へと変わり、厚い氷に覆われた冷え切った海底を思わせる深く淀んだ未知の闇へと変化していく。
確かにこちらを見ている筈なのに、どこか遠くを見ているようなぼんやりと濁っていく忠勝の瞳。
よく見知った男の、見たことも無い顔を目の当たりにして、家康の背筋が酷くざわついた。脂汗、いや怖気、だろうか。
何かを思い切るように勢いよく顔を上げた家康は、忠勝に掴まれた手首ごと両手を上げ、パンッと大きな音を立てて忠勝の頬を挟んだ。
「つっ」
両頬を思いっきり挟まれた瞬間、忠勝が我に返ったようにぱちりと大きく瞬きをする。
その瞳が、家康が見慣れた美しく澄んだ漆黒に戻って行くのを確認すると、家康はようやく微笑んだ。
「見くびるでない。あんな三下に舐められた程度、その辺の犬に噛まれたよりも何も感じはしない。こちとら昔から、それなりの修羅場をくぐってきたんじゃ。あいにくと大変な家に生まれたからな」
「殿……」
「大体、人質になるって言ったのは儂自身じゃ。お主には何の責任もない。だから、そんな顔するな」
「な?」家康が、子供を諭すように小首を傾げる。
それでも尚、複雑そうな表情を浮かべている忠勝の頬を、家康が左右からむにゅうと力一杯押し潰した。
「にゃにをっ、あめお」
タコの様に唇をニュウッと突き出した忠勝の間の抜けた顔を前に、ぷっと家康が噴き出す。
「分かったら、とっとと帰るぞ。明日も朝から会議じゃからな」
好き放題弄ばれて、じんじんと薄ら赤くなった自分の頬に手を添えると、忠勝が恨めしげに家康を睨みつける。
「……わかった。だが、今日は絶対に送っていくからな」
「じゃが、織田家や忠次に連絡」
「そんなもの、ホテルに戻ってからすれば良い」
家康が噴き出した。
「ふふっ。お主、どれだけ心配性なんじゃ。流石の儂も、一日に二回も銀行強盗に遭遇したりしないぞ」
肯定の返事以外許さないといった風に口を一文字に結んでいる忠勝に苦笑しながら、家康がくるりと背を向ける。
「ほら、帰るぞ」
家康が、宿泊先のホテルがある方向へ歩き出す。
家康が踏み出した片足が地面に着く瞬間、ぐいと力任せに思いっきり腕を後方へと引かれた。
ぐらり、バランスを崩して後ろに傾く体。
全体重で思いっきりぶつかったのに、ビクともしない腹が立つほど厚い胸板。振り返ろうと身じろいだ家康の体を、背後から伸びてきた逞しい二本の腕が柔らかく拘束すると、頬に一瞬だけ生暖かい感触を感じた。
「……」
右頬に手を当てたまま、その場で立ち尽くす家康。
それを大股でさっさと追い越すと、二、三歩歩いた先でくるりと忠勝が振り返った。
「!?……なっ、な、な、な?」
ぽぽぽぽぽ。
頭から湯気を出しそうな勢いで、ぷるぷる打ち震えている家康の全身が赤一色に染まっていく。
ばちり。
薄い涙の膜を瞳一杯に溜めてうるうるしている家康の瞳と目が合うと、忠勝は悪戯が成功した子供の様に満足気に目を細め、ちろりと赤い舌を出して笑った。
「消毒」
番外編【完】
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