第5話 告白②
「殿っ?」
焦った忠勝が、上半身裸のまま家康に駆け寄る。
家康の若草色の着物は、肩から裾までずぶ濡れだった。
「す、すまぬ! 俺が」
うわあと独りごちて、家康が己の全身を見下ろす。
間が悪いにも程があるが、自分のせいなので仕方なしといった表情だった。
「いや、忠勝は悪くない。黙って後ろに立った儂が悪いのじゃ」
「しかし」
せめてその濡れた羽織をどうにかしようと思い、忠勝が手を伸ばす。
すると、ズズイと家康が思いっきり距離を空けた。
「殿?」
(逃げた?……俺から?)
咄嗟のことに固まる忠勝。
家康が誤魔化すように、笑顔で後ずさる。
「良い、良いのじゃ。気にするな」
「しかし、そのままでは」
「お日様が燦燦と、良い秋晴れじゃ。この気候なら大丈夫であろう」
「いや、間違いなく風邪をひく」
負けじと忠勝も、ググッと家康に近づいた。
腹痛に貧血に微熱と、家康は決して頑丈なたちではなかった。忠勝が仕えるようになってからだけでも、調子が悪いと言って一日中自室に引き籠っていることが度々あった。
襟元を掻き合わせて、苦笑する家康。
「そこまで言うなら、そうじゃな。湯浴みでもしてくるかの」
「俺が湯の支度を」
「結構じゃ!」
ぽかんと口を開ける忠勝。
家康からこんなトーンで話しかけられたことなど、初めてだったのだ。
「嫌いになったのか、俺のこと」
「ああ、違う違う。そうではない」
思春期の生意気な小僧とはいっても、忠勝の性根は真っ直ぐである。めったにお目にかかれない主君の挙動に、胸苦しいような不安が広がっていく。
「殿、やはり怒っているのだろう」
「忠勝」
「……はっ」
「これは事故じゃし、お主は悪くないし、儂はちっとも怒っていない」
「だが」
家康がそそくさと、風呂の方向へと走り去っていく。
「勿論、忠勝のことも嫌いになってないし、好きじゃぞお」
好き。
その言葉に、十三歳の忠勝が無意識に頬を染める。
分かっている。好きとは、そのままの意味なのであろう。
家康は叔父の忠真にも、酒井忠次にも、石川数正にも気安い。皆のことをよく気にかけ、頼りないが優しい殿様なのだから。きっと、皆にも好きだと言っているのだろう。
皆にも好きだと……。
忠勝は、よく鍛えられた胸筋に手を当てる。
何かが、水面に落とした墨の一滴のようにもやもやした何かが、忠勝の中に生まれていく。
だが、今はそんなことにかまけている場合ではないのだ。
ハッと我に返り、声を上げる忠勝。
「殿! お背中お流しします」
家康は、とうに姿を消していた。
忠勝は舌打ちすると、急いで風呂の方へと向かった。
「殿は来ていない?」
風呂の薪を両手一杯に運んでいた下男を手伝ってやると、浅黒い肌の男は額に玉のように浮き上がる汗を拭きながら、確かにそう言った。
「へえ。いらしておりゃあせん」
「だが、確かに」
「殿が湯浴みをする時間は、決まっておられます。今頃はお部屋で、愛読書の吾妻なんたらでも楽しまれてるんじゃないですかね」
「何やっとんじゃ、あいつは」
「へえ?」
「あ、いや、邪魔をしたな」
「ああ、これ、良かったら」
下男が懐から、手拭いを出す。
「何だ?」
「本多さま、お顔も御髪もお着物も、びしょ濡れですぞ。どこぞで雨にでも降られましたかな」
「ああ、かたじけない。だが、俺もすぐに着替えるのでな」
ドスドスと音を立てて、忠勝が廊下を歩いている。
あの後、濡れた着物を床に打ち捨てて、すぐに新しい着物に着替えてきた。
(俺は、風邪などひいたことがないから良い。しかし、あやつは……)
あの時、適当にあしらわれた自分にも腹が立つが、あの殿さま自ら、湯浴みをすると言っていたではないか。なんといい加減な。
「しかし、そのままでは」
「お日様が燦燦と、いい秋晴れじゃ。この気候なら大丈夫であろう」
忠勝の脳裏に、先程の家康とのやり取りが浮かぶ。
いくら気候がいいからといって、着物を濡らしたままふらふらしていたら、あの青瓢箪なら確実に体調を崩す。
忠勝はこめかみに青筋を立てて、ガラリと障子を開いた。
「失礼する! 殿、は」
忠勝が障子を開けたのは、大胆にも家康の自室である。
頭に血が昇った忠勝は、濡れたままの主君をこのまま放っておけなかった。思いっきり水をぶっ掛けたのは、忠勝自身であることは差し置いても。
風呂に行かせるか、無理やりでも着替えさせて体を拭って、とにかく吹けば飛びそうに頼りない主君に風邪をひかせまいと思った──のだが。
「えっ……忠勝?」
普段、日に当たらない透き通るように白い肌が、露になっていた。
豊かな膨らみを押しつぶすように、ぐるりと巻かれたさらし。ふっくらと盛り上がった果実のような二つの山は、ぎゅうぎゅうと白い布で幾重にも巻かれ、絶対の秘密として隠されていたのだ。
呆然と忠勝を見る、黒くて大きな瞳、震える長いまつ毛。
襦袢を脱ごうと肌を曝け出していた家康と、部屋の入り口に立つ忠勝が、ただ無言で見つめ合っていた。
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