婚約者なんて知りません! 〜そのうち死ぬひきこもり令嬢に転生したので趣味に没頭するつもりでした〜

庭先 ひよこ

プロローグ

道路に転がった一冊の本は、風に攫われてページがパラパラと捲られていく。


「ん……」


少女はうっすらと目を開くと目の前の光景を眺めた。その後で一つの疑問が湧き上がる。

どうして目線と同じ高さに本があるのだろう。


(私、何してたんだっけ……?)


手足に感じる硬いアスファルトの感覚。

身体を流れ出る液体の生ぬるい熱。

遠くで聞こえる誰かの悲鳴。


身体に力が入らず指先を動かすのすら億劫だ。働かない頭で、少女はこれまでのことを思い返していた。



***



時間を遡ること約三十分。

少女は鏡に映る己の姿を眺めていた。


黒髪のウルフヘアにインナーカラーはピンク。瞳は最近お気に入りのピンクのカラコン。

雰囲気の出るダークカラーのアイメイクに、耳にはフープピアス。

仕上げにブラウンレッドのリップをひと塗りすると、彼女は頷いた。


「よーし、オッケー」


所謂『強そう』なメイクの彼女の名は絹川きぬかわせりか。ごく普通の女子大生だ。

大学の講義に出て、バイトに行き、一人暮らしのワンルームに帰る……という単調な日々を送っている彼女には、とある趣味があった。


それは音声配信だ。

顔出し無しの音声配信サービスで『キヌカ』という名前で雑談や声真似などを配信している。

有名とまではいかないが、そのプラットフォーム内ではそこそこ人気もあった。配信活動こそがせりかの生き甲斐だった。


残念ながらしばらく彼氏はいないが、寂しいと思ったことはない。没頭できる趣味があるからだ。

……一言で言うと、せりかはそれなりに充実した日々を送っていた。


「さて、時間までに急いで読まなきゃ」


せりかはメイクポーチを片付けると、テーブルの端に放置されていた一冊のハードカバーの本を開いた。


これは友人から押し付けられた『ノゼネハトの人々』というファンタジー小説だ。

この小説は舞台であるノゼネハト王国に生きる人達の物語を綴った短編集だ。各章ごとに違う人物が主人公として描かれているのがこの物語の特徴である。


「んーっと、残りはどのくらいだっけ……」


そう独り言ちながら、ペラペラとページを捲る。

友人に今日中に感想を寄越せと催促されているのだが、どこまで読んだのだったか。


「とりあえず一章目は読み終えたのよね」


……第一章はシルク・リベラという伯爵令嬢を主人公にしたストーリーだった。


主人公のシルクは恵まれた容姿と莫大な資産を持つ伯爵家の令嬢だ。傍から見れば全てを持っているかのような彼女だが、どれほど望んでも家族からの愛情だけは手に入らなかった。


というのも、シルクの母親は娘を産んですぐに亡くなったのだ。そして父親のブレント・リベラ伯爵は愛する妻を失ったショックから娘を放置し、仕事に没頭するようになった。

こうして愛に飢えたシルクは心を病み、次第にひきこもりがちになってしまう。これが前半の物語だ。


(でも、この先が急展開なのよね)


その後、シルクは政略結婚によりヴァージル・ベネット侯爵という男と結婚することになる。金髪碧眼の王子様然とした風貌と柔らかな物腰から、彼は社交界でも評判の人物だった。

その穏やかな人柄に触れてシルクは心を開いていく。


そこでハッピーエンドを迎える――かと思いきや、結婚後にヴァージルはその本性を現していく。

ヴァージルの言葉や態度に傷つき、疲弊し、限界を迎えたセシルは自死を選ぶ。それがシルク・リベラの最期だ。これはバッドエンドで終わる物語なのだ。


「とりあえず薄幸の美少女の話なのはわかった。でも他の登場人物が何考えてるのか全然わかんないのよね……」


せりかはペラペラと冒頭からページを捲って読み返した。

第一章――シルクの物語は、全体を通してシルクの日記という体で書かれている。抽象的な表現も多いし、日記なのだからここに記されているどれもシルクの主観でしかないのだ。


「シルク病んでるっぽいし、そもそもこの物語自体シルクの虚言だらけだったりして。……ま、それは深読みしすぎか」


せりかは手を止めて頬杖を付いた。


「それにしても、せっかく美少女でお金持ち生まれたんならもっと人生楽しめばいいのに。私だったらどうにか生き延びようと頑張るのになー」


そのときスマホがピコン、と音を立てる。ロック画面には一件のメッセージが表示されていた。



【ファミレス着いたよ。せりかどこ?】



「ヤバッ。もうすぐ約束の時間じゃん」


このあと、この本を押し付けた張本人と合流して感想を語り合うことになっているのだ。


「もー、全然読めてないのに!」


せりかは大急ぎで他の章も斜め読みした。しかし速読の才能がある訳でもなく、内容はイマイチ頭に入ってこない。


「……。……。……はぁ」


全体の半分ほど読み進めた所でせりかは真顔になった。そして本をパタンと閉じた。


……ムリだ。


「とりあえず『読んだ』! 別に全部読めとは言われてないしもういいや!」


せりかはスマホのロックを解除しメッセージを送信する。



【すぐ行く!】



本を片腕に抱え、スマホと財布をショルダーバッグに突っ込むとせりかは部屋を出た。

そろそろ日付が変わる頃だろう。

アパートを出て、暗い夜道を早足で進んでいく。

途中、横断歩道にさしかかったとき、信号機が点滅を始める。せりかは小走りで横断歩道を渡りきった。


……はずだった。


「……え?」


目を開けていられない程の光が視界いっぱいに広がり、全身に強い衝撃を受ける。

そして次の瞬間、せりかはうつ伏せに倒れていた。



***



(そうだ……私、車に跳ねられたのね)


誰も渡ることの無い横断歩道がチカチカと点滅をして、青から赤に、そして赤から青に幾度も変わっていく。

その光が、じわじわとアスファルトを侵食していく血液を照らし出していた。


(死ぬ前にもっと配信やっとけばよかった。呆気ないなあ、人生って)


せりかは目の前に転がる本に焦点を合わせる。白いページには血が滲んでいた。


(あーあ。あの子本の扱いにうるさいし、汚したって知ったら怒られちゃうかも……)


最期の瞬間、考えていたのはそんな取るに足らないことだった。

せめて本を拾おうと血塗れた手を必死に伸ばし――……


そこでせりかの意識は途切れた。

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