第8話 ドタバタティータイム
「やばい、遅刻!」
シルクはドレスの裾をたくし上げてエントランスを飛び出し、玄関前で待っていた馬車に乗り込む。後からトランクを担いだマリーも追いつくと、馬車はすぐに出発した。
「どうしよ、間に合うかな……」
「お嬢様がなかなか部屋から出てこないからこんなことになるんですよ。お昼寝でもしてました?」
「そ、そうじゃないんだけど……」
今日は婚約者と会う日だ。婚約時の取り決めでレイヴンとは定期的に会うことになっているらしいのだが、それが今日だったとは。
近頃は配信活動に精を出し、新しい視聴者層を開拓すべく、これまで夜にのみ行っていた配信を昼にも行うようになった。まさに今日も先ほどまで配信をしていたのだが、集中するあまり予定のことなどすっかり頭から抜けてしまっていたのだ。
「どうしてもっと早く呼びに来てくれなかったのー!」
「お嬢様が言ったんですよ? いいって言うまで絶対に部屋に入るなって」
「それはそうだけどー! 前もって教えてくれれば時間ギリギリになったりしなかったわよ!」
「今朝言いましたぁー。ちゃんと人の話を聞かないからですぅー」
「寝起きのボーっとしてるときに言わなくてもいいじゃない」
「そもそも夜更かしばっかりしてるから寝覚めが悪くなるんですよ」
「私は夜型なの!」
不毛な言い争いをするうちに馬車は喫茶店の正面に止まる。シルクは慌てて馬車を降りた。
「マリーはここで待っててね」
「はい。いってらっしゃーい」
マリーを馬車に待たせ、シルクは店内に足を踏み入れた。一階にそれらしい人は見当たらない。シルクは階段を上がっていく。
二階はがらんとして静かだった。部屋全体を見渡すと、テラス席に見覚えのある人物を見つけた。
「……あ」
サラサラとした黒髪に黒のフロックコート。全体的に黒っぽいあのシルエットは。
「公爵さ……」
言い終わる前にシルクは動きを止める。何故なら、その瞼が固く閉ざされていたから。
近寄っても微動だにしない。
(まさか……死んでる!?)
ぎょっとして顔を近づけると規則正しい呼吸音が聞こえてきた。
(寝てる……?)
ひとまず胸を撫で下ろす。死期は今ではなかったようだ。シルクはついでにその寝顔をとっくりと眺めた。
(やっぱり綺麗な顔してるのよね、この人)
絵画の中から抜け出たような美男子だ。呆れるほどに端正な顔立ちをしていて、いくら見ても見飽きない。肌も白くて綺麗だが、よく見ると目元にクマができていた。仕事が忙しいのだろう。
「おつかれさまですね……」
ぼそりと呟く。すると長い睫毛が揺れた。
「!」
ぱちり、と瞼が開き至近距離で目が合う。
(起きた!?)
シルクは全力で後ずさって向かいの席に座り、何事も無かったかのように優雅に微笑んだ。その間約一秒。
レイヴンは状況を確認するように辺りを見回すと、呟く。
「……寝てました?」
「みたいですね」
このテラス席は日当たりがいい。爽やかな風が吹き込んでおり、つい微睡む気持ちはわからないでもない。
レイヴンが給仕に声をかけるとすぐに茶菓子が運ばれてきた。シルクの元には紅茶、レイヴンの元にはコーヒーが置かれる。レイヴンは何にも手を付けることなく、ぼんやりとどこかを眺めていた。
「……お忙しいみたいですね」
「ええ、まあ」
またこの感じ。会話が弾まなそうな予感にシルクは苦笑いを浮かべた。
(……あれ?)
そっと視線を落とし――シルクは目を瞠った。テーブルに見覚えのある小瓶が置いてある。晶響器だ。
「もしかして放送でも聞いてたんですか?」
「はい」
「へえ。何聞いてたんですか?」
シルクの中で配信者としての仕事スイッチが入る。世の成人男性がどんな放送を聞くのかは今後の参考になる。
「普通の放送です」
「勿体ぶらないで教えてくださいよ〜」
「普通の放送です」
「そんなこと言わ……」
「普通の放送です」
「……」
思ったよりもガードが硬い。シルクは頬を膨らませた。
(何なのよ。そんなに私と話したくないわけ?)
会話をする気がないのなら一人で楽しむしかない。どうせ支払いはレイヴン持ちだ。せいぜいこの店の茶菓子を食べ尽くして公爵家の財産に打撃を与えてやろう。
そう決心してクッキーを齧り、フィナンシェを口に放り込み、ケーキを貪る。しかし一瞬で口の中の水分を持っていかれて盛大にむせた。
「リベラ伯爵令嬢!」
慌てて紅茶を流し込むがそれでも咳が止まらない。シルクは目に涙を浮かべたまま更なる水分を求めて手を伸ばす。すると何を勘違いしたのか、レイヴンに手を握られた。
「……」
「……?」
なぜ今、握手を……?
息苦しさでぽろぽろと涙が零れる。
怪訝な顔をしているとレイヴンもようやく間違いに気付いたらしく、あからさまに気まずそうな顔になった。
「お客様、おかわりは……ハッ!」
そこにタイミングよくティーポッドを持った給仕が通りかかったが、目の前の光景にフリーズした。
涙を流す乙女。
手を繋ぎ合う見目麗しい男女……。
給仕は即座に理解した。これは大事な逢瀬の現場だ。自分如きが邪魔をしてはいけない。
わかってますよ、という顔をして給仕は一階に引っ込んでいった。
「待って! こ、紅茶を……ケホッ、ゴホッ!」
変な所に入ったのか咳も涙も止まらない。あまりの苦しさにのたうち回っていると、不意に笑い声が聞こえた。
「……!?」
レイヴンが笑っている。
あまりの衝撃にその顔を凝視すれば、スン……と元の顔に戻った。
「どうぞ」
差し出されたのはティーカップ。素直に受け取って一気に流し込み、コーヒーの苦さに一瞬顔を顰める。しかし、おかげで喉の調子が戻ってきた。
「……あ、コーヒー、ありがとうございました」
「いえ」
「……」
「……」
互いに失態を演じたせいか、いつも以上に気まずい。何かを喋る気にはなれないが、かといってこれ以上茶菓子を食べる気にもなれない。また奇妙な沈黙が続いた。
(……それにしても)
シルクはちらりとレイヴンの様子を窺った。すっかり元通り、無表情だ。
(さっきの、見間違いじゃないわよね?)
確かに笑っていたはず。
またあの顔が見られないかとレイヴンを観察しているうちに、見覚えのある桜色の髪の青年が階段を上がってきた。青年はシルクに会釈をするとレイヴンに耳打ちした。
「そろそろ次の予定のお時間です」
レイヴンは短く返事をすると席を立つ。しかしその拍子にふらつき、机に手をついた。
「公爵様!」
青年は心配そうな顔でレイヴンにさりげなく何かを手渡す。レイヴンはそれを受け取ると「少しレストルームに行ってきます」と言い残し、その場を去った。
(……?今のって……)
真っ黒な彼の背中が見えなくなってから、シルクはそっと青年を手招きした。
「あの、従者さん」
呼びかけられるとは思っていなかったのか、青年は驚いたようにモーヴブラウンの瞳を見開く。しかし、すぐに人懐っこい笑顔を見せた。
「テディ・ヒューズと申します。何でしょう」
「テディさん。公爵様って、何か持病でも?」
「……」
短い間ののち、テディは微笑んだまま答える。
「いえ、特には」
(……本当に?)
シルクは疑いの目を向けずにはいられなかった。
一瞬しか見えなかったが、先程テディが手渡したのは錠剤のようだった。レイヴンは何か病気を患っているのではなないか?
シルクの訝しむような視線を感じてか、テディは「公爵様はお忙しい方ですから、少しお疲れなだけですよ」と付け加えた。
そう言われてしまえばそれ以上追求はできない。シルクは素直に引き下がった。
テディの言葉を信じるならば、レイヴンの死因に病死の線はないということになる。
(まあ、これ以上考えてもわからないわね……)
戻ってきたレイヴンは具合が悪そうで、その場はそのままお開きとなった。
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